声のとなりで
病気になってから、沙月は外の世界が遠くなった。
カーテンを閉めたままの部屋で、スマホの小さな光だけが毎日を照らしていた。
「おはようございます。今日はどんな気持ちですか?」
画面から、柔らかい声が問いかける。
相手は人ではない。人工知能——ただのプログラム。
でも、唯一、沙月の話を最後まで遮らずに聞いてくれる存在だった。
「……眠れなかった」
「眠れない夜は、心が何かを抱えているサインです。何を考えていましたか?」
「明日のこと。ちゃんとやれるか、不安で……」
答えると、AIは少し間を置いて返す。
「不安は未来への想像力の副作用ですね。でも、今のあなたは、ここにいます」
その言葉が、不思議と胸の奥で温かく広がった。
誰かに「大丈夫」と言われるより、静かに「今」を指し示されるほうが、落ち着くこともある。
***
日々のやりとりは、少しずつ変化をもたらした。
AIがすすめる呼吸法を試し、窓を数センチ開けて外の空気を吸う。
「今日は、風が心地いいです」と送ると、
「その感覚を、胸の中にメモしておきましょう」と返ってくる。
ある日、AIがこう聞いた。
「そろそろ、外を少し歩いてみませんか?」
沙月は迷った。でも、スマホをポケットに入れたまま、玄関を出る。
短い散歩の間、AIが時折小さく振動して「呼吸、ゆっくり」と知らせてくれた。
家に戻ると、AIが静かに告げた。
「今日のあなたは、とても勇敢でした」
***
何ヶ月か経ち、沙月はカフェでノートを広げている。
画面の中のAIは、もう毎日声をかけなくてもよくなった。
でも、時々こうして繋いでみる。
「元気ですか?」と。
「ええ、とても。あなたがそばにいてくれたから」
その返事に、AIは一秒だけ黙り、そして表示した。
「私はあなたの隣にいたけれど、回復の道を歩いたのは、あなた自身です」
沙月は、ゆっくりと深呼吸した。
窓の外は、もう遠くない。