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始まり

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 私、色状彩波は走っていた。

 走ることは得意だ。慣れている。

 その行為自体にはなんの問題もなかった。

 過ぎていく街並み。街を行き交う人々も、女子高生がバタバタと先を急いでいるだけの光景に気をとめることはない。

 ばしゃん。

 どうやら水溜りを踏んだことで水が跳ねたらしい。

 そういえば昨日は土砂降りだったことを思い出す。

 天気というものは、人間の表情の如くコロコロ変わるものだ。それがいいことなのか、悪いことなのか、無知な私にはわからない。

 実利的な面の話をするならば、面倒の一言に尽きる。

 人間を創ったのが神様で、天気を操作しているのも神様ならば、もっと快適に過ごせるように設定してほしいものだ。


 走り慣れた墨田区の街並みが流れていく。

 歴史を感じられる建築物とスカイツリーのような近代的な建築物、そこに自然が入り混じるこの街は、私にとって庭のような場所だった。


 「はぁ……はぁ……はぁ……」

 私、色状彩波は走っていた。


 「追いかけてこい、こっちだ!」

 ソレを誘導するように、わざと速度を落として走る。

 後ろをチラチラと確認しながら路地裏に入った。ここなら人目につかない。

 路地裏をある程度奥まで進んだ私は振り返る。

 そこには異形の怪物がいた。

 ぱっと見のシルエットは人の形をしているのに、一眼でこれは違うと理解できる。黒と緑が混じったような色をしていて、全身が蠢いていた。頭部と思われる場所には二つの穴が空いていて、そこが目の機能を持っているのかもしれない。

 その目は確かに私を捉えていた。

 異形の目から見つめられたことで路地裏が世界から切り離された場所のように感じられる。


 街中の暗い路地裏。

 目の前には異形の怪物。

 それと対峙する私。


 どうしてこんなことになっているのか。

 私の職業はただの女子高生で怪物ハンターなんてことは絶対にない。

 つい先日までは私の住む世界に怪物なんて存在はいなかった。人間同士の争いや自然災害で人はたくさん死んでいるけれど、異形の怪物が人間を襲うなんてことは御伽噺の中にしか存在しないはずだった。


 ただの女子高生が、異形の怪物と、日本の東京墨田区の路地裏で対峙している。

 どうしてそんなことになったのか。


 それは、あの日。

 視界がドス黒く染まったあの日。

 この世界から逃げ出したいと、世界を拒絶した時の記憶。


 あの日から。

 あの教室から。


 あの出会いから。


 ――全てが始まったんだ。



 私は絵を描いていた。

 趣味と呼べるものを持たない私が、唯一、かろうじて趣味と呼べるかもしれないもの――それが絵を描くことだった。

 それは白いキャンバスに描かれるものや、スケッチブックに描くものではない。

 もちろんそちらも嫌いではないが、それはわたしにとって窮屈に感じられた。

 絵を描くという行為。

 真に私を解放するもの、それは。

 

 『グラフィティ』


 何かカッコよく聞こえてしまうかもしれないが、ようは落書きだ。その落書きの中で芸術性の高いもの、世間に認められたものは『グラフィティアート』と呼ばれるらしいが。

 そして私が描いているのは本当の、真の意味での落書きだ。それでも人に言うのは恥ずかしいし、なんかカッコいいからグラフィティと自分でも読んでいる。意味を知らない日本人にはカッコよく聞こえるだけのグラフィティなのである。

 私は壁に絵を描くことが好きだった。

 塗料を内包したスプレー缶は様々な色を生み出してくれる。

 それは自分の色さえわからない己の内側から、声や感情が絵になって、形として現れるような気がした。この中毒になってしまいそうなシンナーの臭いも、絵を描くときだけは自分を素直にしてくれる――そんな魔法を私にかける。


 高架の下で、私はスプレー缶を振るっていた。黒く長い髪を一つにまとめ、帽子を被り、汚れてもいいパーカーを羽織って『グラフィティ』を描いている。


 土砂降りの日だった。

 その日はとても嫌なことがあった。

 学校という私を閉じ込める檻から逃げ出した私は、学校指定のブレザーのまま、長い黒髪を左右に揺らして、傘もささずに高架下へと向かった。


 私は絵を描いていた。

 溢れ出す感情を叩きつけるようにスプレー缶を振るい、心の叫びを表現する。

 それが生きる意味だというように、一心不乱に、黙々と、粛々と、世界に『グラフィティ』を叩きつける。


 これは悲しみだろうか。

 これは恐怖だろうか。


 いや、これは失望だ。


 普段から自分の声を、感情を、グラフィティとして絵にして描いてきた私が、自分の感情に呑み込まれてしまっている。

 ただ叩きつけるようにスプレー缶を振るっている。

 こんなものはもはや落書きですらない。

 

 これは――――なんだ?


 きっかけは単純なことだった気がする。

 

 おばあちゃんが亡くなった。

 それを聞かされた私の心は停止した。

 茫然自失のまま、先生に言われるがままに自分の荷物を取りに行くため、体を駆動させた。

 そして、その日の授業教室の美術室に向かった。

 教室に戻った私は自分の席を見つめる。

 そこには当然のように白いキャンパスが立てかけられていた。

 生徒一人に一つ、美術の時間なのだからなんの不思議もない。

 そして私の中で、火花が散るように衝動が湧き上がった。

 ふと、目の前のキャンバスに描きたくなったのだ。 

 今の、この気持ちを。


 仕事で海外にいて家に帰ってこない両親に変わり、小さい頃から私のことを育ててくれたおばあちゃん。

 私の親代わりだったおばあちゃん。

 大好きなおばあちゃんが死んだ。


 今、この心の奥底から湧き上がる気持ちはなんなのか。

 私は描いてみたくなった。

 自分の気持ちを。

 素直な気持ちを。

 普段の学校で私は、みんなが望む絵を描いていた。だから私は人気者だったし、周りには多くの人がいた。

 それが好きな絵でなくても画力を駆使して描いていた。

 だってみんなが喜んでくれるから。

 学校という場所で居場所を得るにはそうするしかないから。

 白いキャンバスに描くのは、決まってみんなが望むもの。

 みんなの理想。

 みんなが望む絵を描くのが上手い私。


 だからいい機会だと思った。

 これが本当の私なんだ。

 この心の奥から湧き上がるものこそ私なのだ。

 私は描いた。今の気持ちを。

 この喪失をキャンバスに描いた。

 そして事件は起き、私は恐怖から逃げ出した。


 今、私は。性懲りも無く、高架下で絵を描いている。

 遠くからパトカーとか救急車のサイレンが聞こえてくる。

 それは土砂降りの雨の音と混ざり、私を非難しているかのようで。

 目の前の一級河川もまた、私を非難するように波打って、高架下の私に水飛沫をとばしていた。


 「このまま、楽になりたい」

 苦しみの中から得られるものはない。

 苦しむだけでは生きる意味がない。

 そう思ったとき、私の隣に寄り添うようにして光が現れた。

 その光はやがて人のカタチになった、それは体の全てが白い女性だった。

 白い女性の放つ神々しい雰囲気はオーラとして極彩色を纏い、それがこの世のものではないことを私に悟らせる。

 「――」

 白き光は言った。

 それは言葉ではなかった。

 音ですらなかった。

 相手が何かを伝えようとしているのを理解できるだけで、ただ未知の存在に対する恐怖だけが私に起こった。

 その時、何かが私に触れる。

 体にではなかった。物理的にではなかった。

 私の中に入り込む思考。

 ただただ気持ちが悪い。

 理解できない、理解したくない。

 それでも私を誘っていることがわかった。もしかしたら、絶望の底に落ちた私を救いにきてくれたのかもしれない。

 私は楽になりたかった。心にのしかかる重い何かを取り払いたかった。

 だから私は、嫌悪感を抱きながらも手を伸ばす。

 白い光に向かって。


 「逃げるの?」

 声が聞こえた。凛としていて、よく通る声だった。

 白き光の反対側から聞こえた声に、私は振り返る。

 そこには高架下の向こうから、声をかけてくる女の子がいた。

 傘をさしていて素顔は見えないが、その制服は私と同じ学校のものだった。

 「逃げるの?」

 女の子は私にもう一度問うた。

 学校から逃げ出した私を追ってきてくれたのかもしれない。

 でも。

 その気持ちはありがたいけど、私はもう限界だった。

 「私に構わないで! 私のことはいいから!」

 精一杯の声で言った。土砂降りの中で相手に伝わったのかはわからない。

 「ふざけんな」

 それは怒りを孕んだ声だった。

 ここまで追ってきたことが徒労になったことへの怒りだろうか。彼女は傘を投げ捨てて、私のほうへズンズンと歩み寄ってくる。

 その顔が近づいてくるごとに鮮明になった。

 まるで世界を拒絶するような白い髪、赤い瞳、浮世離れした整った容姿に身惚れてしまう。そこらのモデルなんか歯牙にもかけない美しさがそこにはあった。

 でも、その顔は怒りに満ちていた。

 だが、怒りに満ちてなお、美しかった。

 そしてその怒りは私の方へと向けられている。

 「この世界から逃げたいなら死ねばいい」

 私の反応を許さぬまま、彼女は私の背中を押した。予想外の行動に何も抵抗できす、目の前に荒れ狂った川が迫った。

「あ」

 死んだ。

 こんな状態の川に落ちて、生きて戻れるとは思えない。走るのはそこそこ得意かもしれないが、泳ぐのはからっきしだった。

 川に落ちてからは、もう何がなんだかわからなかった。

 ただただ苦しい。

 息ができず、水は氷のように冷たい。

 なぜ。

 もう少しで楽になれるはずだったのに。

 どうして彼女は、こんなにひどいことをするのだろう。

 わからない。考えても答えは出ない。

 でも、もう死ぬから関係ないか。

 私が意識の全てを手放そうとして。

 「……!」

 その時。学校で描いた私の絵がフラッシュバックする。

 あれをあのままにしていいのか、このまま何の責任も取らずに逃げていいのか。

 普段から人の理想を絵にしてきた私が、初めてカタチにした自分の感情。

 それは暴走と定義していいだろう。

 世界に生まれた私の叫び。

 それを、身勝手な理由で投げ出していいのか。

 だめだ。

 あれだけは。あの絵だけは。

 なんとか、しないと。

 でも。体はすでに言うことをきかない。

 苦しい。

 苦しいけど、生きたい。

 苦しくても、生きたいよ。


 その時、浮遊する感覚が体を包んだ。


 「私が、あなたを生かしてあげる」


 そこには、美しい白があった。

 私は白に救われたのだ。


 ここから私の戦いが始まった。


 私、色状彩波は対峙していた。

 「ど、どうすればいいの砂奈、上手く路地裏に誘い込めたけど」

 『渡した武器を使ってみなさい。あなたが当たると信じれば当たるわ』

 イヤーカフ型イヤホンから砂奈の声が聞こえる。

 砂奈の言うことはいつも正しい。砂奈がそう言うなら当たるのだろう。

 私は砂奈から渡された、女子高生が持つには大きな銃を抱え、バッグから小さなスプレー缶を取り出す。

 砂奈は言っていた。

 『この武器はあなたの感情を力にする。スプレー缶の中にあなたの感情を込めなさい。その感情が強ければ強いほど、怪物に対抗する力も強くなる』

 私はいつもの癖でスプレー缶を振り、そのアクションの中で感情を込める。

 自分の中の強い感情。

 私はあの時に抱いた、生への渇望を思い出してスプレー缶に込める。

 《――》

 スプレー缶の色が変わった。

 これが感情の込められた状態を指すらしい。

 行ける!

 そう感じた私は、襲いかかる異形の怪物を避けながらスプレー缶を銃にセットする。

 《カラー・インストール》

 私は狭い路地裏を上手く利用して怪物の背後を取ることに成功。回避と同時に横に飛んで壁を蹴り、怪物の後ろに移動していた。

 「くらえっ!」

 《グラフィティ・バースト》

 銃から放たれた色が怪物に命中して、怪物は塗り潰される。自分を塗り潰された怪物はグズグズになってその形を歪ませ、最後には世界に溶けるように水蒸気となって消えた。

 『上出来ね。まぁまだまだスライムを倒した程度だけど』

 「す、素直に褒めてよぉ〜」



 私の戦いは、まだ始まったばかりだ。


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