彼のいない時間 〈???〉
バタバタと足音が響く。
眼鏡を掛けた黒髪の細身の男が、部屋から出て来てリビングでパソコンを打っている栗色の髪の女性の傍までやって来た。
そこまで走らなければならないほどの距離でもないのに走って来たという事は緊急な事なのだろうかと、男の顔を見上げた女性は呆れたように薄緑の目を細めて息を吐いた。
男は満面の笑みで、小さなスマホを握りしめていた。
そんなに力強く握っては画面が割れてしまうのではないかと、気を使うほど強く握っているそれを、男は手と一緒にぶんぶんと降り回した。
「聞いてよシェリー!俺の息子がさ!」
その顔を見ただけで話の内容が分かるような気がして、門燈詩愛理は少しだけ首を傾げた。
「日本のダンジョンパニックを防いだみたいだ!」
男は小躍りとでも言うべきステップを踏みながら、門燈詩愛理が座っているソファに座って、彼女の頬にキスをする。
その顎を押さえて自分から離してから、興奮している男を見る。
「…三澄が言っていたのだから、当然だろう?」
「そうなんだけど、ここまで鮮やかにやってくれると嬉しくってさ」
浮き浮きとはこういう事かと、九条三澄を見ながら、門燈詩愛理は溜め息を吐いた。
ふと自分の恋人の顔を見て少し正気を取り戻した九条三澄が、門燈詩愛理のパソコンを覗く。
「相変わらず真面目だねえ」
そんな感想を言われて門燈詩愛理はムッとした顔で九条三澄を見る。
「場を安定化させるにはまだまだ生贄が必要だ。そのための選定はやってもやっても追いつかない」
ふっと九条三澄が微笑む。
「別に選ばなくてもいいんだよ?この星の上で使える相手なんていくらでもいるんだから」
「そうは言っても、無差別にしては」
そこまで言って、門燈詩愛理は九条三澄の眼を見る。
その顔は微笑んでいるが、門燈詩愛理を見ている眼は、おぞましいほど歪んでいた。かたちではない。そこに映る感情が、酷く歪んでいる。その眼には人としての感情はなかった。
「…うん。三澄が言う通りかもしれないな」
門燈詩愛理は小さく頷く。
この人について行くと決めた時から、自分の気持ちは気にしてはいけなかった。
パタンとノートパソコンを閉じてから、門燈詩愛理は台所に向かう。
「三澄は何が食べたい?」
門燈詩愛理に問われて九条三澄は壁の時計を見る。
もう朝の七時になっていた。
「何が良いかな」
九条三澄が立ち上がって門燈詩愛理の横に立つ。それから冷蔵庫を開けた。ソーセージと卵を取り出す。野菜室からパプリカも出した。
「スパオムレツ希望です」
「分かった。ソファで待っていて」
「うん。大好きだよシェリー」
また頬にキスをして、九条三澄がソファに戻る。
出された材料以外も棚から出して、門燈詩愛理が調理をしだす。
その間本当に大人しく九条三澄はスマホを見て待っていた。手元だけは大人しい訳ではなく、忙しく動いていたが。
きっと沢山の指示を多人数に出しているのだろう。
門燈詩愛理の恋人は、表立っては妖術師だ。外国でも少数はいるが、九条三澄ほどの力の持ち主はあまり居ない。その力は怪異など一息で消し去る程だった。
そして今いるドイツでは、ダンジョンを閉鎖して安定させている。勿論正当な手段でそれができるはずもなく。
どう見ても非合法な手段を使っているのだが、それでもダンジョンが無くなるかもしれない事実は、静かなる感動を伴って他の国にも波及していた。
おかげで滞在期間が延びに伸びている。永住する気はなかったのだが、仕事が多すぎた。
そして。
九条三澄の、もう一つの顔は。
沸騰したお湯に塩を入れてパスタを茹でる。その隙に玉ねぎ、ソーセージ、パプリカを刻みさっと炒めてトマト缶を入れる。塩コショウとケチャップもいれて、隠し味にワインもいれた。ゆであがったパスタをそこに入れて混ぜ、二つの皿に盛る。
その上に、薄く焼いた卵焼きを乗せて、出来上がり。
ソファで待っている九条三澄に声を掛けると、喜んでテーブルに運んでくれる。
門燈詩愛理はカトラリーを持って、隣に座り、食事を始める。
きっといつまでも続く平和では無い。
それが分かっていながら、ゆっくりと落ちていく流砂の中に、門燈詩愛理は居る。
隣の九条三澄が、その流砂の底の主だと分かっていながら、この愛を貫こうと門燈詩愛理は決心していた。
「美味しいよ、シェリー。やっぱり俺の恋人は最高だな」
そんな言葉が、とても嬉しいこの時間が、ずっと続けばいいのに。
門燈詩愛理は微笑みながら、決して叶わない願いを、パスタごと胃の中に押し込んだ。




