真昼の怪談
昨日、疲れた身体で家に帰りつき、ゼリーを飲んでからすぐに寝た。
だからか、今はアラームよりも随分早く目が覚めている。
目は覚めているのだが。
起き上がりたくない。
ハアッと溜め息を吐いたら、涙がボロッと零れた。
意味もなく何かが苦しくて涙が出る。
家を出てから、そんな事はなくなっていたのに、今日は駄目なようだ。
僕の枕元で何も言わずに、邪神ちゃんが座っている。
実家ではいつもこうだった。
考えもまとまらず意味もなく、ただ苦しさと涙が溢れてくる。
何も誰も悪くない。
きっと僕が悪いのだ。
人として何かが欠損して、魔力があったとしても何の役にも立たない。
だから、母は目の前で。
僕はいまだにあの血の海から出られない。
もがいて普通になりたくても、誰にも許されない。
涙が止まるまで、こうやって抗って。そうしてやっと日常が過ごせる。
アラームで起き上がって、涙をふいて大量の鼻水をティッシュでかむ。もう一度ハアッと溜め息を吐いてから着替えた。
これが実家のルーティンだったのだけど。
揺り返しのように、来るとは思っていなかったな。
下に降りると、静が朝食の支度をしていて。その後ろの台所のテーブルセットに座る。振り返った静は僕を見てから開きかけていた口を閉じて、また調理を続けた。
僕はそれをぼんやりと見ている。
「今日は食べられそうですか?」
振り向かずに静が聞いてくる。お味噌のいい匂いがしていて、僕は少し笑う。
「うん、多分。昨日の夜中に、残っていた部分が剥がれ落ちたから、もうほとんど治っていると思う」
「そうですか。それでしたら、出来たら並べますね」
「うん」
何気ない日常。
僕が欲しいのはこういう物で。それ以外はあまりいらなくて。
椅子の背もたれに腕と頭を乗せて、静の後姿を眺めている。
美味しそうな匂いと、暖かな湯気と。
静が炊き上がったご飯を掻き回して、お味噌汁を掬ってお椀に入れて。
優しい光景が、僕の眼の前にあって。
「はいどうぞ、有架さま」
「うん、ありがとう静。いただきます」
出し巻き卵と小さな魚の切り身と、小松菜のお浸しと、野菜ジュース。お味噌汁は豆腐とわかめ。デザートの牛乳かん。これ美味しいんだよね。
最初に食べていた量の倍ぐらい、普通の中学生の半分くらいの量。やっとそれぐらいが食べられるようになった。
デザートを食べている僕の頬を静が触る。
「ん?なに?」
「幾らか、ふっくらとしてきましたね」
そう言われて微笑まれた。
そうかな?
傍に居る邪神ちゃんを見ると、小さく肯く。
「前よりずっト、血色も良いし、顔ツきも違うわね」
「え、本当?」
「本当よ。大分ましになっテ来タわ」
なんか嬉しいな。
いつか邪神ちゃんの目くらましがいらない身体になりたいな。
そんな小さなことが目標の僕が、あんな立派なクランを持っていいのかな。
多分、僕が何で悩んでいるのかを知っている邪神ちゃんは、その事には触れて来ない。
「今日はドうするの?有架」
「うん、どうしようかな」
本気で悩みながら、テレビを付ける。今日のリモコンはそっと置くだけにする。ふんわりとゆっくり置くと、何か言いたげな邪神ちゃんの気配。フェチじゃないから。
テレビの画面向こうで、何だか穏やかな曲が流れて、女優さんが海の見えるカフェでコーヒーを飲んでいる。本を読みながら時折、海を見て。
短い五分ぐらいの番組だったけれど、とても素敵だった。
特に波の音が良かった。
真っ青な色の海も良かった。
うん、行きたいな海。
「あら、たまには良いですよね、海」
静が僕にそう言って笑う。
「うん、一回しか行った事がないから、行ってみたい」
「ドうやっタら行けるかしら?」
「ええとね、電車だと」
僕は居間にある小さな紙の地図を広げる。そこには路線図が描かれていて、指でたどって海がありそうなところを探す。
今日はダンジョンに行かないで、観光をしてみよう。
修学旅行も行けなかったから、遠くに行くのはワクワクする。
地図で見ると結局、近い海は神奈川の様で。
ダンジョンが近いから横浜は嫌で。…鎌倉まで行っちゃおうかな。見ると新宿から真っ直ぐ行けるみたいだし、大体一時間ぐらいらしい。
「鎌倉に行きたいから、行ってくる」
「ああ、良い場所らしいですね」
「知ってるの?静?」
「親戚がいますので、話は聞いています」
確かに鎌倉は古都だから、妖怪はいそうだな。
「もう人は少なくなってきているでしょうけれど、気を付けて行ってきて下さいね」
「うん」
静が用意してくれた水筒をカバンに入れて、邪神ちゃんをポケットに入れて。
僕は初めての鎌倉に向かった。
探索者が、大変な時にと何処かで思ったけれど。
どうにも気持ちが上がらなくて。
何時もの駅から新宿に行って、そこから湘南行きに乗る。同じ電車なのに行先が違うだけでドキドキする。見知らぬ土地に行くなんて、自由になったから出来る事で。
やっぱり嬉しい。
電車の窓の向こうにチラッと海が見えると、何だかつい見てしまう。
一時間は長いかなと思っていたのに。
外を眺めているだけで、あっという間についてしまった。
鎌倉駅を降りて、海まではもう少し。江ノ電に乗って、海沿いを目指す。
降りた駅は、浜辺がすぐ傍で、もう泳いでいる人はいないけど、綺麗な砂浜を海に向かった。
青い水平線。
昔よりも青い色が濃くなったと、中学の理科の教師が言っていた。
人口が減ったから、自然は回復したのだと。
砂の上で海を眺めながら、少し波打ち際に入る。
サンダルを履いて来たから、このまま海に入っても大丈夫。
寄せては返す波の音を聞きながら、ゆっくりと砂浜を歩く。
日差しはまだ強いけど、さすがにそれで倒れるほど弱くはない。一応探索者だし。
「ねえ」
誰かが声を掛けてきた。
見ると、少女が立っている。
「…なにか?」
少女の白いワンピースが海風に吹かれて、はたはたと翻る。
白い手足と長い黒髪と、大きな黒い目が人目を引くような美少女だ。
「お願いがあるのだけど」
初対面でお願いできるとか、メンタルが強者だな。
「私を探して欲しいの」
「…どうやって?」
答えた僕に少女が微笑む。指をスッと海に向けた。
そうだよなあ。僕の前に立っている姿の足先は薄くて見えないし。こんな真昼の鎌倉の海で、幽霊に遭うなんて想像もしていなかった。
「なるべく、早く」
そう言って隣に居る少女は、僕に期待の眼差しを向けてくる。
ええと、探査の魔法でもかけてみるか。
さすがに何時もの五感強化じゃあ分からないだろうし。少し目を細めて海を眺める。幽霊が浜辺にいられるなら、その肉体もそんなに離れていないはずだ。
浜の随分奥に、うっすらとした気配。
仕方ないなあ。
僕は浜辺でサンダルを脱いで、海の中に入る。あまり泳いだことが無いから自信はないけど、魔法があるなら大丈夫だろう。
水中の砂浜を歩いて更に奥へ、急に砂が切れて崖みたいになった。
その下。もっと深い海の下に気配がある。
水の中だから、気軽に崖の下に行けるのは良い事なのだろうけれど、何処まで降りればいいのかな。
海の底に行くような気配に少し困ったけど、光が射さなくなっていく海は想像よりも怖く見えた。青色が暗い黒色に変わっていく。
普通は重りをつけたりして潜るって聞いた事がある。魔法って便利だよね。そんな事を思いながら、海の底を目指すと、降りている崖の小さな切れ目に人がはまっている。
体を丸めているような姿は、確かに今も僕の横にいる少女で。
傍に行って身体を切れ目から出すが、何かの薄い膜が身体を覆っている。
もしや生きているのか?
じゃあ隣に居るのは、生霊ですか?
少女の顔を見ると見返された。
「もう、持たなくなりそうだったの、ありがとう」
そう言って少女は自分の身体に触れて、僕の隣から消えた。
中に入ったのだろうか?
少女を抱えて崖上を目指す。
周りが青い色を取り戻し、崖上はまた砂浜になり。
少女を抱えて浜辺に戻ると、大勢の人が浜辺にいて驚いた。
「おい!生きて帰って来たぞ」
「よかった、捜索を終了しろ!」
まだ少女を抱えたまま、砂の上の自分のサンダルを見降ろす。
ああ、うん。
海に向かって揃えられたサンダルって、そういう感じに見えるよね。
「その子は」
「海の中にいたので」
「救助したのか?丁度救急車を呼んであったんだ。この子を乗せてくれ!」
僕の腕の中で、少女の身体が纏っていた魔法の膜が、ふっと消えた。
小さな光が大気に消えたが、他の人は気が付かなかったようだ。
救急車から人が来て、少女を担架に乗せて運んで行った。
僕はその後何度も確認をされたが、探索者だと告げると何となく周りが納得をした。まあ、探索者って一般には超人扱いされるしね。
サンダルを履いて、海を見る。
綺麗だけど、今日はもう良いかな。浜辺にたくさんの人がいたので、砂浜はちょっと騒がしいし。
帰ろうと浜を出て駅に向かう僕の後ろから、誰かが走って来た。
振り返ると、息を切らした男の人で、品の良さそうな服装の男の人は立ち止まった僕の前まで走ってきて、僕を見た。
「君が、さっき、浜辺で、人助けを」
「ああ、はい。そうですね」
何度も肯いてから、男の人が頭を下げた。
「有難う、娘を助けてくれて」
ああ。
「はあ」
「娘は先月高波にさらわれて、それから行方不明だったんだ。いくら探しても何処にもいなくて、家族は全員諦めていて」
僕は泣きだした男の人を眺めている。
「浜辺から娘が見つかったと連絡があった。ダイバーの子が探索者が助けてくれたと教えてくれて、君かもしれないと追いかけてきた」
「はあ」
男の人は僕を不思議そうに見る。
「ありがとう。また後日お礼をさせてくれ」
「いえ、べつに」
「探索者だったね、名前を聞いてもいいかな?」
「……九条と言います」
「そうか、九条君、本当に有難う」
そう言うと男の人は、違う道に向かって走っていった。きっと娘のいる病院に行くのだろう。僕はそのままそこに立っている。
近くの木から名残の様な蜩の鳴き声。
カナカナカナカナカナ。
僕は溜め息を吐いた後、電車に乗るために駅構内に入る。
待っている間、線路の向こう側に百日紅を見つけた。綺麗な花が咲いている。
「…塩まみれダから、お風呂に入りタいわ」
「うん、そうだね。今日は一緒に入ろうか」
「…そうね」
邪神ちゃんが話してくれたので、自分の虚無から抜け出せた。
帰りの電車に揺られながら、邪神ちゃんの頭を撫でる。
僕の帰りを待つ人が、今はいるのだから、この心の穴は気にしないようにしよう。
それでも、普通の家族は子供がいなくなったら、あれだけ心配する物なのだと、何処かで引っかかってしまって。
いや、もうやめよう。
前を向くために鎌倉に来たのだから。
流れる風景を見ながら、僕は自分の愚かさにまた溜め息が出た。




