第一幕/第三話/①《雨》
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BGM: https://on.soundcloud.com/MBjviuWdYp4XrKKG8
一話・鬼出電入…目にも止まらない速さで現れたり、消えたりすること。
二話・夜郎自大 …自分の力量も知らずに、偉そうに振舞うこと。
三話・雨笠煙蓑…雨の中で働いている漁師の容姿を言い表す言葉。
四話・斗南一人…この世で最もすぐれている人のこと。
(引用元・四字熟語辞典 https://yoji.jitenon.jp/)
おはよう小鳥さん達。
ーーおはようニコちゃん!
うんと背筋を伸ばすと、やっぱり体が所々痛んで、でもそれが今日まで積み重ねてきた努力の証を示しているようで。全国薙刀大会までの三ヶ月、私達薙刀部は死ぬ気で稽古に励んだ。
初めは気魄の習得に消極的だったカスミちゃんも、ある日を境に突然やる気を出し始めた。それに大会までバイトを休むらしい。稽古も人一倍頑張るようになって、まぁ良かったって感じなんだよね。
なにがトリガーになったのかはイマイチはっきりしないけど。
『オオバ! 先の先を考えて動け! 視覚ばっか頼んな!』
『シマ! 打突に力が入りすぎ! 肩の力抜け!』
『ヤヒラ! キョロキョロすんな! 視線意識!』
基礎体力作りのトレーニング、薙刀の基本動作と試合の練習。その時だけ鬼軍曹と化す副部長にみっちりと鍛え上げられ。更には対怪狐の為に気魄のコントロールを上達させる特訓をチビ幼女から叩き込まれ。
休む暇もなく、気付けば大会当日の七月を迎えていた。
そんな私達を祝福したいのか焼き殺したいのか。空は満点の青に包まれていて、まだ早朝と呼べる時間帯であっても窓ガラスはほんのり暖かい。雲一つなくて、もし未来人が『今日は雨だよ』って予言しても信じないくらいには快晴だ。
体操服に着替えたのち、階段を乱暴に駆け下りて洗面所へ。
鏡に自分の顔面を映し出すと、綺麗な肌のあちこちに絆創膏を貼り付けた痛々しい姿の美少女が。
可哀想に、こんな美しい女の子を虐めるなんて許せない。そんなことはさておき、Tシャツの襟元をズラして右肩を露わにする。以前、ヘアアイロンを落として赤く染まった箇所は綺麗さっぱり。良かった、跡に残らなくて。
シャツを元に戻し、隣の棚からブラシを掴んで髪を丁寧に解く。今日は大事な試合の日。気合いをいれてセットしないと。って言っても別に普段通りなんだけどね。今はしなくなった、普段通りの髪型。
右耳上からガバッと毛束を取って、指の隙間で三等分。これをそれぞれ交差させて先端まで編み込む。一つ一つの毛束の大きさがポイント! 上は大きく、下になるにつれ編み込みを小さくしていく。作るのは片側だけで、左はそのまま流すだけ。小学校の時にしてた髪型だから幼く見えるかと思ったけど、十六になった今でも悪くない。
髪のセットを終え、引き出しから取り出すのはいつもの紫花柄ポーチ……ではなく自分で買った紫のポーチ。黄色いニコちゃんマークが描かれてるやつ。てか最近またコスメ買うようになったんだよね。お金ないから基本はプチプラだけど、このピーチ色のアイシャドウパレットはお気に入り! ちょいと高いけどママァが誕生日に買ってくれたんだよね〜今日も付けたかったけど外は暑そうだしすぐ崩れそうだからやめとこう。シンプルに目元だけちょちょちーってまつげ盛っておわりん。改めて前髪作るとちょーいい感じ。猫背気味だった背筋をピッと伸ばして鏡から目を離す。
それから短い廊下を渡ってリビングへ。
いつもこの時間、母はまだ起きてなくて一階の電気は消えたままの筈だけど。
「おはよ〜」
入り口からシーリングライトの光が漏れている。温かみのある色。
「おはよう……あ、その髪型久々やなぁ」
母は既に台所で、朝ごはんと弁当の用意を始めていた。育ち盛りの居候が大好きな揚げ物の匂いと音が線香花火みたく弾ける。その様子から視線を外し、私のヘアスタイルを一目見てそう呟いた。柔らかい笑顔とともに。
朝の挨拶をしてから食卓につき携帯を弄る。この前チヅル先生のインスタ教えてもらったんだけど、この人本当に教師なのかってくらいストーリーがチャラい。水着の写真ばーっかりでよほど海が好きなんだろう。でも楽しそうで良いなぁ。どれも同じ女の子メンツで写真撮ってるけどいつメンなのかな? 仲良さそ〜ていうか一週間後に中間テストあるんだよなあ。稽古が忙しすぎて勉強なんてしてるワケないし、そもそも日本を救うために戦うのだから、赤点取っても別に許して欲しいんだけど。
そんなことを考えながら、朝ごはんにパンを食べて食器下げて洗って。
それから窓際に飾った愛犬の写真にも挨拶して。
「おはようシーシャ」
相変わらずのスマイルを私に投げかけてくれる。因みにこの子、実は拾ったんだよね。婆ちゃんと神社で散歩してる時に、拝殿の下で寒そうに震えてたのを見つけて。神主さんに訊ねたんだけど、見かけたことない犬だって言うし誰かが探しに来る気配もなかったし、持って帰りました。
「マユヒメ起こしてくるっ」
皿洗いを終えても姿を現さないチビ助。だけど放っておくわけにもいかないので、再び廊下を走って玄関方面へ。
武道具が置いてある埃被った倉庫を素通りしてさらに奥の部屋へ。
そこは生前、祖父母が使っていた部屋だが今は違う。
「起きろ〜〜あーあーあーァァ!!!」
デッカい声で乱雑に叫ぶ私。目覚ましより余裕でうるさいと思う。
「あまばでぃばばばでぃばでぃぷりりろりすぃきばでぃッ♫」
枕元で踊りながら歌っても全然起きる気配がない。困ったやつなので、最近覚えた曲をお披露目。閑静な空間が、ひと時が、一瞬にして破壊される。
「もどぅでるでろどぅじッ♫」
「うぬぅ……うるさいしヘッタクソッ!」
やがて耐えられなくなったのか、叫び声と共に布団を蹴り飛ばして上体を起こす着物少女。
そんなに私の美声が心に響いたのか。それは良かった。
とにかく起きてもらわねば困る。何といってもこの人、本日の主人公になる可能性を秘めているからだ。もし天晴祭りの最中に敵が襲ってきたら、その時はマユヒメを筆頭に戦闘を繰り広げることとなる。敵のラスボスを相手するのは彼女の仕事なのだ。だから早く起きて、一緒に付いて来てもらわないと。
無理やり起こされてイライラしながら部屋を飛び出していくチビ。私もその後を追おうとしたが、その前にひとつ。
「あ、ばあちゃん」
段階的には近畿地方予選で本戦じゃないから大したことじゃないんだけれど。今日の夜には帰ってくるのだけれど。
でも一応、行ってきますの挨拶はしておこうと思う。
頑張ってくるから。私、勝つから。
だから、見守ってて欲しいな。
そんな思いを込めて。
「いってきます」
その一言を添えて、私は陽射し差し込む小さな部屋を後にした。
「あっつ〜」
太陽は燦々。吹き付ける温風。七月に入ったばかりでまだギリギリ耐えられる暑さであることが唯一の救いだ。
とは言っても今日この日、『大阪府岸和田市』が今年の最高気温を更新したことは紛れもない事実である。
そしてそんな暑さをものともしない祭りの猛者達が、なんの変哲もない公園に溢れ返る。
鉢巻や法被を身に付けるもの、団扇をバコバコ叩いて鳴らす人。年齢層や性別は不揃いでガタイのいいおっちゃんや
髪色の明るいにーちゃん達に更に一回り小さい少年少女達。少なく見積もっても二百人は居るじゃないだろうか。建物の日陰に隠れて、ぼーっとそんなことを考えていると。
「マユヒメさんどこ行ったか知らへん?」
群衆の中をキョロキョロ見渡す副部長が三つ編み少女へ問いかければ「神社にお詣りする言うてはりましたよ」とのこと。それを聞くなりアラレは神社の方面へ駆け出していくのだった。きっと対翅姫の作戦について最終確認をするのだろう。本来なら怪狐と実戦経験があるニコラが戦闘の指揮を執る手筈だったが、あらゆる場面で彼女のリーダーシップの無さが露呈してしまい、結局副部長が色々とまとめることになった。ウチの活躍が台無しに、と下唇を噛む結果となる。まぁそもそも今日ハネヒメが現れるという確証はどこにも無いわけだが。
「あれ、なにしてはるんですかね」
ところ変わって。
公園の木陰に避難していた二人の少女。そのうち毛先クルクルのウルフヘア少女が何かに気付いて目前を真っ直ぐ指差した。どないしたんと、もう一人のメガネを掛けた少女が同じ視線の先を追うと、そこには見覚えのある人物が。
「いやぁ、今年の“だんじり祭”は気合いの入り方が一味ちゃいますねぇ! こないめでたい日にウチの商品使ってもらえるなんて最高ですわ! いかがどすか最新技術を使って織られた超クールビズ特製着物と法被は! 何卒今後ともご贔屓に!!」
町会長さんだろうか、白の着物に身を包むイカついおじさんにゴマを擦るあの少女、西陣織の老舗“織部屋”当主の
リョウランだ。なるほど、街ゆく人々の法被にその店名が小さく刺繍されている意味を理解した。にしても彼女の店は余程儲かっているのだろう、剥製にして飾ったらビリケンさんと大差ないくらいのニヤケ面を浮かべている。
会話が一段落ついたのか、韓紅色ヘアバンド少女は木陰の二人に気がつくと、傍に付いていた着物姿の従者と共に此方へ歩み寄ってきた。
「よっオマエはんら元気しとったか? ええもん持って来てやったで」
そのセリフを合図に隣の女性スタッフも「大変お待たせ致しました、こちらにごさいます」と告げ、同時に子供一人分くらいはあるデカいアタッシュケースをテーブルに置いて鍵を開く。
一瞬その中からぼんやりと、山吹色の光が照ったように見えた。
「これは……!」
ごくりと唾を飲むハク。
「織部屋が改良に改良を重ね生み出した特殊な蚕の糸から編んだ超一級品道着である!」
汚れなき真っ白な稽古着に深い紺色の袴が目に入る。鮮やかで目立ちの良い色ではないからこそ、落ち着きのある簡素な二色がよく映えた。
「これが真剣も通さないという伝説の道着ですか……」
横でまじまじと見つめるカスミ。捻ったり引っ張ったりしてその強度とやらを確かめている。あの店で、実際に刃を通したという伝聞だけでは俄かに信じ難い話だろう。そしてケースの中に敷き詰められていたのはそれだけではなかった。
「じゃーん、オマケに近畿代表予選特製お祭り法被や!」
そう言ってリョウランが取り出したのは、背面ど真ん中にウチの高校名を表す“愛”の一文字と白く輝く蚕が一羽刺繍された黒の法被だ。しっかりと胸の部分に“織部屋”の印字を忘れない。
「オマエはんらが優勝すればワッチんとこも大盛り上がりや。しっかり稼がしてもらいまっせ!!」
この人、高校生をダシに商売する気満々だ。
「あとそれからオリジナル蚕キーホルダーに蚕の縫いぐるみ、繭玉形のマシュマロんーおいしー❤︎……」
説明がてら白い球体を口に放り込むお姉さん。遊びに来たのかこの人は。
懐からあれよあれよと物品を広げる当主に呆れるメガネ少女であった。
そんな彼女を他所に。
ふと視線を外したカスミが、ある知人に似た人物を見つけた。本来なら居るはずのない人。しかも、一緒に歩いてる
あの男……知ってる。二人して人混みの中をキョロキョロしながら練り歩いているみたいだ。
どうして? 何しにきたの?
「ねえちゃん……?」
⭐︎
「えーっと」
見知らぬ土地に一人でやって来た所為だ、人混みに揉まれながら同じ道をぐるぐる回っていると。
予期せぬことが起こった。
ここに来たのは親友が大会に出場するから、それを応援するためで。それだけで。
「コサメ先輩がおるなんてツユ知らんくて……!」
とある男性とばったり出会ってしまったツユヒは顔を赤くしてそう否定した。決して先輩目当てで出来たわけじゃありません。本当です信じてください。
「熱中症か? 顔面真っ赤やで?」
今すぐにでも茹で上がりそうなツインテール少女に駆け寄る黒髪の青年。
彼の手が彼女の額に触れた途端、シューっと蒸気機関のような音が喧騒の中に響いた。
その音を合図に、少女の意識は弾け飛ぶ。憧れの人に触れられた、その衝撃に耐えることは出来なくて。
「あれ、ツユヒとコサメやん! 何してんのこんなところで」
少し離れた公園から、こちらに向かって誰かが近づいて来る。
「お、ニコラ……この子すっごい熱あんねんけど」
目をぐるぐる回す黒髪ツインテール少女を介抱しながらコサメが叫ぶ。
そのあと公園の木陰にあるベンチに沸騰少女を寝かせなんとか一命を取り留めた。その隣に二人の男女が腰掛けて、見慣れない街の様子をぼーっと眺める。京都から大阪なんて目の鼻の先、岸和田ともなればそれなりに時間は掛かるけれども。近くに城があるせいか、周辺の景色は地元に似てる。高い建物がない感じと、ちょっと古めかしい建物の造り。しかし今日に至っては例外だ。全国で一年を通して開催される祭りのせいで、もの凄い数の観光客やらが犇めき合っている。国籍や服装、年齢関係なくあちこちに。こんな人気だとは予想もしてなかった。後で知ったんだけど、天晴祭りと合同でやる大会は薙刀だけじゃなくて、剣道や空手、柔道みたいな武道種目も名を連ねているらしい。だからこんなに人多いんだ。
「これ差し入れ」
これから試合を控える幼馴染に手渡したのはブドウジュース。自販機で買って来た。
昔はよく一緒に飲んでたよなぁ、なんて思いながら。
「お……さんきゅー」
少女はラベルをじーっと眺めた後、よく冷えたペットボトルの蓋を開けて喉を潤す。プラスチックで出来た容器の底が日陰の隙間からはみ出して、太陽の光に炙られる。一部分だけが、熱を帯びたように輝いている。
あまり見つめすぎると不審がられるので、青年の視線は往来する群衆の足元へ。意味もなく左から右に、流れる人混みを目で追ってみる。
「暑いなー、今日」
「暑いなあ」
「今日なにで来たん? 電車? バス?」
「電車」
「ふーん……オレも」
その隙間を縫って盗み見るニコラの横顔。見慣れたような、見慣れてないような。
柔らかな曲線を描く日本人形のような鼻先はそのままで、綺麗に澄んだ瞳の色も、長いまつ毛も、やんわり色づく頬の赤らみも。記憶の中の彼女と比べると、背丈だけが大人になった感じでなんか不思議。
「……」
「……」
「……そういや薙刀って五人でやる競技じゃないん? 出場人数四人で書いてるけど」
薙刀の知名度とウチの部員数を数えてわかる通り、全国で大会を開くことになれば人数不足で学校毎の有利不利が
目立ってしまう。それに今大会は観光客相手のプロモーションも兼ねているので人数を増やす必要は無いのだと、この前ハク先輩に教えてもらったことを一字一句そのままコピーして口から吐き出した。
「ふーん」
青年は遠い目をしながら呟いたあと、再び沈黙が訪れた。
青く澄み切った空には雲一つない。見上げるには眩しすぎる太陽が頭上に差し掛かると影の形も少しずつ変化する。
タオルで拭った汗の粒がポツリポツリと砂に溶けて、その様子を十粒ぐらい数えた頃。
「で、コサメは何しに来たん?」
私を揶揄う為に大阪まで来たのならご立派、最優秀世話焼き賞差し上げます。
「……なにって大会おうえ……バカニコラが心配で来てやったんじゃ」
ベーっと舌を出す青年。
「はぁ? 靴紐片方解けてるヤツなんかに心配なんかされたないわ」
「えっまじ?」
拍子抜けな声で自分の足元に顔を近づけるコサメ、その瞬間。
「嘘じゃボケ!」
バチンッッ!
ガラ空きになった背中に張り手をお見舞いしてやる。
いだァッ!と悲鳴をあげる青年、その場で蹲った。
「アッハッハ! ウチに勝とうなんて千年早いわ!」
すると突然ツユヒが瀕死状態から一気に目を覚まし、上体を起こしてコサメの隣に駆け寄った。
涙目になるみっともない青年に「センパイ大丈夫ですか!? ツユがヨシヨシします!」と声をかけつつ健気に看病を試みるも、その背中に手が触れた途端、耳から蒸気を吹き出して再び昏睡状態となる。二人とも変なの。
まぁ放っておけば治るでしょ。そう思ったので見向きもせず。
群衆の流動に目を泳がせていると。
その中に、逆流する小さな違和感を発見した。
あの子どうしたんだろうか。周囲をキョロキョロ見渡してすごく不安げな顔をしてる。
そう、あの小さな女の子。頭に鉢巻して法被を着たお下げヘアの。体格的に小学校低学年。こんな沢山の人集りを一人で歩くなんて危ないし、もしかしたら。
「あれ、ニコラ?」
私は立ち上がってその方角へと歩き出す。後ろで誰かに名前を呼ばれたような気がしたけど、それよりも優先する
ことがある。人通りの合間をすり抜けて、時々見失いそうになるその小さな人影をよく注視しながら接近する。
「なぁ、もしかしておうちの人と逸れたん?」
声をかけたのは公園の入り口付近。
左右に視点が定まらない彼女と同じ目線の高さまで腰を落として、話しかけてみる。いきなり声をかけられて最初は驚いた様子だったが、私の顔を見て悪い人じゃないと思ってくれたようだ。張り詰めていた緊張の糸がほんの少しだけ和らいだように見えた。こちらの問いかけに涙目で頷く。
そうだなぁ、この人の多さの中から親を見つけるのは中々難しいよなぁ。一人にさせるのも良くない気がするし。
「なに、迷子?」
頭上から声がすると思ったら、どうやらコサメが後から付いてきたらしい。
青年の問いかけに「そおみたい」と返しておく。
試合まで結構時間は余ってるから、この子の連れを探してもいいんだけど、それまでに見つかるだろうか。
四方を埋め尽くす群衆を見回しながら思案していると。
「あっちにデカめのショッピングモールあったから、そこの迷子センター的なところに連れて行くっていうのは?」
隣に立つ青年がナイスアイデアを生み出してくれた。確かにそこなら安全だし、こちらから探し回るよりも効率的かもしれない。たまには良いこと言うんだね、この人。
即座に目的地が決まったので、早速公園を出て道路沿いの歩道に移る。道路は規制が掛かっているらしく、車の通りは少ない。拡張された通路に密集する人混みの流れに身を任せ、逸れないように女の子と手を繋いで信号を渡る。その時くらいから、なんかコサメがこっちをチラ見してくるんだけどどうしたのかな? お腹でも空いたのかな?
それはさておき。
「へえ、リコちゃんかぁ。ほんで一緒に来たんはママとお兄ちゃんってことね」
道中、迷子の子猫ちゃんについて色々尋ねてみた。お名前、年齢、一緒に来た人のこと。それから好きな食べ物とか好きな動物の話もしてあげると、すっかり少女は元気を取り戻していた。
数分もしないうちに、青年の言った通り大きなショッピングモールが姿を現して、私達は吸い込まれるようにその中へと潜り込んでいった。絶対涼しいわここ。
肌を撫でるエアコンの冷気を感じながら、一階のどこかにあるはずのインフォメーションカウンターを探す。
その道中で。
「おねえちゃん、おにいさん、見て!」
手を繋ぐ少女が、外へと通ずる自動ドアの向こうを指差す。ガラス張りから覗く若干の景色、その殆どを青が覆っている。つまり、海だ。方角的におそらく大阪湾だろう。今は迷子と一緒だし、行って確かめる気は無かったけど私の左手が勝手に原動力を生み出す。家族と逸れたことなんて頭からすっぽ抜けたように、その向こうへ興味を全振りするおチビちゃん。
あれ、そういやコサメは? いつ間にかいない。振り返ってもいない……まぁいっか。どうせすぐ戻ってくるだろう。本当は今直ぐにでもこの子を迷子センターに連れて行きたいけど、まぁ少しくらいなら大丈夫かな?
すごく楽しそうな顔してるし。そう思いながら、小さな引力に従いドアを潜る。
「おぉ〜」
空の色を反射するマリンブルー。水平線に沿って敷かれた大きな橋。都会の海って感じがして凄く洒落てる。
京都にはこの雰囲気の海はないからすごく新鮮だ。ウッドデッキの床材もいい味出してる。
ポケットからスマホを取り出して風景をパシャリ。ついでに迷子ちゃんとも一枚、記念に。
そんな感じで海を背に自撮りしてると。
「あ、コサメ」
遅れて室内からこちらに向かって歩いてくる青年。両手に何かを束ねながら。
「二人とも、クレープいる?」
突然いなくなったと思ったら、おやつを買いに行ってくれてたらしい。やったぁ、気が効くじゃん。
後でお金払うよって言ったら別にいいって言われた。じゃあリコちゃんの分は払うよって言ったら別にいいって言われた。なので「ありがとー」って礼を述べてから、なんとなく三人で海沿いをたらたら散歩してみる。
気温は高いけど、適度に吹く潮風が心地よくて暑さは気にならない。こうして歩いているとなんか家族連れみたいって思った。やってることはほぼ誘拐なんですけどね。
コサメによると、私のがメープルバターで、リコちゃんがバナナチョコクリーム。美味しそうだから一口ずつ交換
して食べたよ。口元にホイップを残しながら、ふとお下げの少女が尋ねる。
「ふたりは、“かっぷる”なの?」
「え、いやっ」
「ん? 違うよ〜」
「えっあ、」
スマホのロックを一度押し間違えてから解除して、さっき撮ったばかりの写真をストーリーに投稿しながら、私は
何の気なしに答えた。隣の青年はクレープが喉に詰まったのか、変なリズムで咳き込んでいる。何やってんだか。
それで質問は終わらない。「じゃあ“おっと”と“つま”でしょ!」なんて飛躍した回答を披露してくれるので、私も思わず笑いながら「ちがうよ〜ただの幼馴染やで?」と返しておいた。さすがに若すぎるでしょ。
そんな冗談を交わしていると、少し向こうにとある物体を発見する。あれ、YouTubeでたまに見るやつだ。名前は確かクライミングだっけ。聳え立つ頭上の絶壁に、カラフルな凸凹が突出している。こんなのあるんだ。
実物を目にしたのは初めてかも。面白そうだしやってみようかな、なんて考えたけど、この人集りの中でやるのはちょいと恥ずかしい気がする。さすがに私は遠慮し
「おいニコラ、ビビってんのか?」
「はぁ? 今なんていうた?」
前言撤回する。コサメに煽られたまま放っておけるわけがないだろう。周囲の目線なんて関係ない。勝負からは逃げないし、負けない。あの壁、登り切ってやりますわ。
ゆっくりとクレープを頬張る少女は「ワタシは応援してるね〜」と落ち着いた声で近くのベンチに腰掛ける。
対して燃え盛る対抗心の炎を纏う二人の高校生は互いに睨み合いながらストレッチを始める。
ホイップに塗れた指先をおしぼりで拭き取る黒髪の青年と、指を舐めて体操服のズボンで拭き取る三つ編みの少女。
ハーネスを装着しロープを準備。一番手はニコラ。
種目はスピードクライミング。十五メートルの壁を駆け上がり、てっぺんまで早く到達した方が勝ち。分かりやすくていいね。因みに日本記録は男子が5秒台、女子が7秒台らしい。手足のリーチや筋力的に男性の方が有利なんだろうか? どちらにせよ負ける気はしない。
スタート地点に立ち、掌にチョークを塗りたくってから足元の凸凹に足をかける。それから頭上より上のホールドに手をかけその先を見据える。ある程度登り方を把握しておいて。下からだとマンションみたいだ。ワクワクしてきた。心の昂りと同時に鳴り渡る電子音。四つなったらレッツゴーだ。
『ぴッ、ぴッ、ぴッ』
準備万端。
『ピッ!』
行くぜ!
合図と共に、前腕部へ力を込めて体全体を引き上げる。
「はっ?」
その光景を眺めていたコサメは思わず息を漏らした。
流石に怪力娘といっても、パワーだけで圧倒できるほどではないだろう。
そう高を括っていたが。
あれは人間じゃない。一方の手を付くと同時に反対側の手が次の一歩へ届いてる。両脚はほぼ添えるだけ。
運動の九割を腕力だけで登り詰め、瞬きを三度ほど終えた頃。
『日本新記録達成! タイム:4.25秒』
電光掲示板に有り得ない文字が。
いやいやおかしいでしょ、それもはや世界記録じゃん。しかも腕の力だけで。
それまで何の興味も示さなかった通りすがりの観衆たちはみな揃って拍手喝采。歓声と共にニコラを取り囲む人集りが出来上がってしまった。あぁ、大変なことに。
「おねえちゃん、凄いね」
いつの間にか隣に居た迷子の少女が、やっと食べ終えたクレープの紙ゴミを折り畳みながらそう呟く。
いや、凄いっていうか。無茶苦茶だろ。
茫然とその様子を眺めること約三十秒。不意に誰かに肩を叩かれたので、振り返る間もなく。
「二人ともこっち!」
隙を見て群衆から抜け出したニコラが、二人の手を掻っ攫ってモールの中へと突っ走っていく。
「ここまで来れば一安心」
気付けば来た道を折り返していた。ショッピングモールを抜け、駐車場を横断して大通りへ。息を切らしながら、いまさら迷子の少女を案内センターに預けなければいけないのだということを思い出す。
「ウチさ、小さい時よく婆ちゃんに崖登りさせられてたんよなそういえば。落ちたらクマに襲われるから死ぬ気で
登れって言われて、あれマジで辛かったわ」
呼吸を整えてから、三つ編みの少女が回想する。
そんなの勝てるわけないだろ。あなたの婆さん傭兵かなにか?
突拍子もない思い出話に心の中で突っ込みを入れる青年であった。
さて、ここまで走ったは良いが結局は来た道を引き返さなければならない。
急いで戻ろう。試合もあるしモタモタしてられない。
そう思って進行方向をくるりと回転させようとした時。
「リコ!」
信号の向こうから手を振る小さな人影が一つ。
その存在に気付いた迷子ちゃんは「お兄ちゃーん!」と満面の笑みで手を振り返す。
ニコラと握った左手のことも忘れて、余程家族に会えたことが嬉しかったのだろう。
信号が青になると同時に走り出してしまった。横断歩道の中心で手を取り合う二人の少年少女。
その後に遅れて近付くのは母親だろうか、一人の女性が子供たちの傍に駆け寄った。
なんだ、これで一件落着だね。良かったよかったと三つ編みの少女は胸を撫で下ろす。
「大変ご迷惑をおかけしました、すみません!」
迷子になった娘と、その面倒を見てくれた二人の高校生に何度も頭を下げる母。
迷惑なんて無かったし、楽しかったし大丈夫ですよと返しておく。どちらかというと自分達が連れ回した側だし。
「デート中なのに、本当すみませんっ!」
何度も何度も、ペコペコしながら私達の方を……ってデート中? 何のこと?
会った時は寂しそうな顔してたお下げの少女は何度もこちらを振り返って「ありがとー!」と声を大きくして叫んでいる。元気になってくれてなによりだと、その背中を見送りながらしみじみ思うニコラ。その間コサメは。
(いや、そんなことよりさ)
気が気ではなかった。
(いつまで手握ってんの?)
さっさと声にすればいいものを。普通に言えばいいのに。
でもいま言葉にしてしまうと、なんだか、高級なアイスを一口で食べ切ってしまうような、そんな勿体なさに似た感情を覚えて。しばらく掌に伝わる体温を忘れずにいた。こんな真夏の入り口に、指先に汗を滲ませてまで。
向こうから振り解こうとする気配はない。一体この瞬間、彼女が何を考えているのか。世界一知りたい問の答えだ。あぁ、昔もこんなことがあったなぁ。人の多い夏の祭り、知らない帰り道、こうやって逸れないように手を繋いで。
ずっと前のことでも鮮明に覚えてる。でもそれは自分だけかもしれない。いちいち過去のことばっかり覚えてるのは、自分だけかも。でも大事なことだ。いつどこで誰と何をしていたのか、過去っていうのは人の未来を決める大事な要素だと思うんだよな。だから、忘れちゃいけないことって沢山あるんだろうし、この娘と過ごした日々もそのうちの一つだ。
「やべ、試合遅れるっ」
スマホを取り出して時間とメンバーからのメッセージを確かめたニコラは、駆け足で公園へ走ろうとする。
その勢いで、するりと指先がお別れを告げてしまう。こもった熱がフッと消えて常温を取り戻す。
「あ……」
その手を再び握る勇気は無かった。この時ほど自分の不甲斐なさを恨む日は来ないだろう。そう分かっていながら。
分かっていながら、未来へと突き進む幼馴染の手を掴むことは。
それ以上の思惑は振り切って、視界から遠ざかる彼女の後ろ姿を慌てて追いかける。