なぜ「ざまぁ」が流行るのか
例によって思いついたので書いてみました。
あくまで「個人の意見」です。
「なろう」では今日も今日とて○○パーティで王子殿下が婚約破棄を叫んでますね。
悪役令嬢を虐待してきた家族や権力で下位貴族を踏みにじった高位貴族のニヤニヤ笑いが止まりません。
もちろんそんな愚行が許されるはずがなく、冤罪が明らかになったり本人たちの悪行が公にされて「ざまぁ」されるんですが。
そういうのを読んでいたらパターンがあることに気づきました。
いやそれ自体がパターンではあるんですが。
物語の構造的な部分の話ではありません。
勧善懲悪は講談とかの基本パターンで、それは変えようがありませんから。
どういうことかというと「悪は滅びる」んですが、その滅び方です。
悪役令嬢を虐めた家族や冤罪をかけて断罪したり酷い目にあわせた(娼館送りとか国外追放とか)愚かな王太子は、その悪行が公になって正義の国王陛下に断罪されます。
第二王子が馬鹿の場合は公明正大な王太子がその役を勤めたりして。
強大な隣国の皇太子や教会の教皇様の場合もある。
馬鹿やった人より偉かったり権力を持っていたりする人が「ざまぁ」を執行します。
悪行がバレた人達は没落したり追放されたり、あるいは刑務所や奴隷鉱山に送られたり。
健気な悪役令嬢の人は優しいヒーローに救われて幸せになる。
そこまでがワンセットというかパターンです。
でも。
現実世界ではそうなってないんですよ。
悪は滅びないし、酷い目に遭った人はそのままだし、偉い人が敵を討ってくれるわけでもない。
「ざまぁ」はあったとしても常に手遅れで、本当に被害に遭った人は救済されない。
なぜか。
社会が巨悪を庇うからです。
もっと詳しく言うと、そうした方が社会にとって全体的な利益が多いからです。
少なくとも断罪によって各方面に被害が及ぶ内は公にならない。
今もっともポピュラーというか派手な「偉い人が弱者を虐めて破滅させた」事件がその典型です。
某芸能界のドンとも言うべき人は、死ぬまでは尊敬されて悪い噂は出ませんでした。
芸能界に関係のない人は無関心で、直接被害に遭った人は黙っていました。
それを知っているはずの関係者も沈黙していました。
被害者や関係者はもちろん、芸能界やマスコミが知らないはずがないんです。
知っていて黙っていた。
それどころか揉み消しに荷担さえしていたはずです。
そしてドンが老衰で死去するとワラワラと。
つまりドンが生きている間は断罪は起こらなかった。
現実の社会とはそういうものです。
そう、乙女ゲーム小説で言えば国王や王太子に当たる人が悪だったからです。
王太子や第二王子なら国王よりは下ですから、国王が断罪出来ます。
でも業界? のトップが悪だったら、その人が死ぬまではそのままなんですよ。
別に芸能界や政界だけの話ではありません。
法曹界もそうです。
時々、有罪判決が下って被告が刑に服してから何十年もたってから、突然「あれは実は冤罪だった」と裁判のやり直しになったりしています。
本当かどうかは判りませんが、ああいう判決は法曹界のドンとも言うべき人がかつて下した判決なため、その人が亡くなるまでは誰も言い出せなかったからだと。
つまりその偉人が間違った判決を下したことになってしまうから。
なので、そういう最高権力者が亡くなると「実は」という人や事実がどんどん出てくるわけです。
一番顕著なのは、もちろんアレですね。
独裁者が死んだらという話。
その独裁者が生きている内に後継者を育てて、うまく権力を移行出来た場合は「王朝」となって続いたりしますが。
ということで何を言いたいのかというと、つまり「なろう」で「ざまぁ」がウケるのは、現実ではそうならないからです。
虐めっ子は幸せなまま学校を卒業して上手くやります。
DVは手遅れになるまで世間には知られない。
犯罪が暴露されても虐待された人や陥れられた人が救われるわけでもない。
たとえば「なろう」で、悪役令嬢に冤罪をかけて追放した王子やヒロインがそのまま結婚して幸せになり、悪役令嬢は不幸なまま終わる。
読者がそんな話を読んでも不快になるだけでしょう。
現実では常に起こっていることだし、「ざまぁ」があったとしたって手遅れになってからです。
王太子とヒロインが国王と王妃として天寿を全うした後で真相が明らかになったとしたって悪役令嬢が救われるわけじゃない。
という事で結論ですが。
「なろう」は現実ではあり得ない理想的な展開を戯画化したおとぎ話がウケているということでした。
童話じゃないんです。
むしろ現実逃避のためのツール?
まあ、ラノベなんか元々そういうものかもしれませんが(笑)。