霧雨市怪奇譚 犬神憑き
開け放した窓から校庭で練習するソフトボール部やサッカー部の声が聞こえてくる。
背景に流れるアニメ主題歌の演奏は吹奏楽部だろう。
そんな生徒会室で、羽柴藤は決裁書類に目を通していた。
「会長、この書類もお願いします」
副会長の浅野まつりが新たな決裁書類を持ってきた。
「ありがとう、浅野さん。……生徒会長になんてなるものではないわね」
藤は決済印を押しながら、窓の外に目をやった。
九月の抜けるような空の手前に青々とした山が連なっている。
「紅葉まではまだ少しかかりそうね」
「そりゃあ、そうですよ。それにしても、このへんの山って、いかにもなにか出そうですよね」
「なにかというのも、ずいぶんと抽象的ね。山ですもの、野獣くらいはいるとは思うけれど?」
藤が首を傾げると、まつりは待ってましたとばかりに身を乗り出してきた。
ボストンフレームの向こうから好奇心の輝きをたたえた大きな瞳がこちらを見ている。
「実はですね、この頃、わたしたちのクラスでは狼男の噂でもちきりでして」
「狼男? またそれは物騒ね。私も用心しなくては」
「会長、馬鹿にしないできいてくださいよー」
まつりが頬を膨らませるのを見て、藤はくすり、と笑った。
「ごめんなさいね、浅野さん。それで、どんな噂なの、その狼男は?」
「あ、はい。噂では月の輝く夜に、山の中で狼の遠吠えがするんだそうです。中には崖の上から月に向かって吠えてるんだなんて人もいますけど、それはさすがに……」
「そうね、見てもいないことを想像や憶測で語るものではないわ。そういう憶測が新たな妖怪を生むこともあるのよ」
藤はティーカップを手に取った。
紅茶のじんわりとした熱が手に伝わってくる。
「このくらいの暖かさだと疲れた体に効きそうね」
一口飲むと、体の中が少しだけ暖かくなる。
「それで、実際に狼男を見たという人はいないのかしら?」
「うーん……。わたしの知っている限りでは、遠吠えを聞いたっていうだけです」
「それじゃあ、狼男どころか、ただの狼かどうかもわからないじゃない。実はただの犬でした、なんていうことにもなりそうだわ」
藤は鈴を転がしたように、小さな笑いを続けた。
「会長、信じて……なくても別にいいんですけど、いくらなんでも犬と狼の遠吠えを聞き間違えますかね?」
「わからないわよ。山の中では音が反響して思わぬ方向から聞こえたり、反響を繰り返すうちに得体の知れない声のようになったりするものよ。狼の遠吠えだなんていっても、そういう聞き間違いや勘違いの可能性が圧倒的に高いわ」
「それじゃあ、狼男はいないって言うんですか? なんかガッカリ」
まつりが肩をすくめると、藤が口元だけでにやり、と笑う。
「いないかどうかはわからないわよ。狼男の存在を示唆するような証拠でもあればいることが確定するけど、そうでなければ謎はいつまでも謎のまま。でも、その方が息の長い噂になるのではないかしら?」
「息の長い噂って、どういうことですか?」
「そうね、例えばスコットランドのネス湖に怪獣がいるとか、アメリカのロズウェルに異星人の飛行物体が墜落したとか、そういう噂や都市伝説のたぐいよ」
藤が例を出すと、まつりはようやく合点したようだった。
「都市伝説ですか。たしかにああいうの、真偽不明っていうのが多いですよね」
まつりは背伸びをしながら、なにかを追うように視線を動かした。
「浅野さん?」
「え? ああ、すみません。ちょっとその、いたので」
「学校という場所が引き寄せるのよ。さまよっているだけだし、そのうちにいなくなるのだから、気にしないことよ。もし視えることに気付かれたら面倒だもの」
藤は席から立ち上がり、窓を閉めた。
「さて、と。私はそろそろ帰らないといけないの。浅野さんはどうする?」
「えっ? じゃ、じゃあわたしも……」
生徒会室の戸締まりを済ませて、二人は廊下に出た。
まだ夕暮れには早いが、日はだいぶ傾いてきている。
廊下を歩きながら、まつりがふと思い出したようにつぶやいた。
「そういえば、狼って絶滅したんですよね?」
「ええ、そういうことになっているわね。それがどうかした?」
「じゃあ、あの、もし狼男が本当にいるとしたら、そうだとしたらきっと、ひとりで寂しいでしょうね」
「……そうね。そうだとしたら、彼は一体、なにを思って吠えているのかしら?」
†††
「新人戦まで時間がねぇんだ、もっとしっかりやれ!」
監督の大声とともにボールが打ち上がる。
それぞれの守備位置に散った部員たちは額から汗を流しつつ、打ち上がったボールを追いかける。
「前田っ! そっちにいったぞ!」
キャプテンの悲痛な叫びに、前田利也は顔を上げる。
ボールの描く放物線。
速度、風向き。
利也はすぐに足を動かした。
しかし、上空の風は思いのほか強く、ボールは利也が予想した場所よりも向こうへ飛んでいく。
「馬鹿野郎っ、なにしてやがる!」
顧問の怒声が飛んでくる。
利也は急いで地面に落ちたボールを拾おうとするが、その時にはもう、次のボールが利也のいる方に向けて打ち出されていた。
練習――というにはやや過酷な千本ノックが終わったあと、利也はグラウンドの整備に駆り出されていた。
練習後のグラウンド整備はたしかに一年生の仕事とされているが、二年生は一人も参加せず、一年生が疲れと不慣れからもたもたしている様をただ眺めているだけだ。
「ったく、たった一年でこうまで待遇が違うのかよ」
一年生の一人が利也に声をかけてきた。
「……そうですね。中学とかはどうだったんですか?」
「中学とかは、ってなんだよ? お前、高校からなのか?」
「ああ、いえ。……俺、家の都合で県外から越してきたので」
利也は遠慮がちにそう答えると、作業に戻った。
それからしばらくして、もうすっかり日も暮れた頃になって、ようやく作業が終わった。
「まったく、なんで男子高なんかに来ちまったんだろうな」
部員の一人がぼやいた。
県立霧雨高校は市内にいくつかある高校の中でも成績の良い高校として知られている男子高だ。
スポーツ振興にも力を入れており、数年前には野球部が春の甲子園出場を果たしたこともあって、特に野球部の人気が高かった。
利也が野球部に入ったのもそれが理由だったのだが、一学期は基礎トレーニング、夏休みは球拾いと下積みが続く中で、なんとなく自分には合わないのではないかと思い始めていた。
特にこの頃は、体の奥底でなにかが疼くような、強い怒りを覚えることが多くなっている。
そのせいか、奇妙な悪夢にうなされることも増えていた。
「なあ、顔色悪いけど、大丈夫か?」
「あ、ああ……大丈夫、です……」
体の具合が悪いというわけではないので、嘘はついていない。
しかし心の不調は体の不調だ。
もし悪夢を見続けるようなら、その内に本当に具合が悪くなるかもしれない。
「辞めるなら今なのかもしれないな……」
利也は誰にも聞こえないような声でぽつり、と呟いた。
「なあ前田、聞いたか?」
そんな利也の苦悩を知ってか知らずか、お調子者の部員が声を掛けてきた。
「なにをですか?」
「霧女の生徒会選挙のことさ。新会長は、あの羽柴家のお嬢様らしいぞ」
あの羽柴家と言われても、利也にはピンとこない。
「その方は有名なんですか?」
「うーん、まあお嬢様はそうでもないかもな。でも、羽柴グループって聞いたことぐらいあるだろ?」
「ええ、まあ……」
「その羽柴グループのお嬢様が、霧女の新しい生徒会長なんだとよ」
羽柴グループは、外食産業を中心に勢力を伸ばしてきた大規模企業グループだ。
今では県内を中心に多くの飲食店やスーパーを展開している。
そんな大企業の娘が同年代だというのも初耳だったが、霧女――霧雨女子高校に通っているというのも初耳だった。
「どこでそんなことを聞いたんですか?」
利也がたずねると、部員はにやりと笑った。
「実は、従妹が霧女に通っててね。そのお嬢様なんだけどな、なんだかカウンセラーみたいなことをしてるらしいんだ。なにか悩みがあるんだったら、従妹に頼んでアポ取ってもらおうか」
「いいえ、そこまでは……」
利也が断ると、部員はつまらなそうに肩をすくめた。
「つまらないなぁ。ま、気が変わったら言ってくれよ」
部員が離れていったあと、利也は立ち止まって考えを巡らせた。
確かに誰かに相談すれば不安も晴れるかもしれない。
しかし、見ず知らずの相手にそんな相談をするというのもなんとなく気が引けた。
結局この日、利也は結論を出すことができなかった。
†††
がさり。
下生えの草をかき分ける度に、耳障りな音が鳴る。
藤は左手に持ったランタンで周囲を照らしながら、ゆっくりと歩を進めた。
要所をフリルで飾り立てた豪奢な衣装は、少しの小枝にも引っかかりそうなのに、不思議とそのようなことはなく、すいすいと進んでいく。
それに数歩遅れて、ラフな姿のまつりが後を追う。
明るい時間帯であっても登りづらいのに、日が暮れた今はさらに足元が見づらく、なおさら登りづらい。
「あの、会長……本当に探すんですか?」
「ええ、当然よ」
藤は周囲を間断なく見回しながらゆっくりと歩いているのに対し、まつりは藤の背だけをまっすぐ見ている。
「単なる噂だったら放っておいて様子を見るつもりだったけれど、実際に遠吠えを聞いた人がいて、正式になんとかしてほしいと言われたらそうはいかないわ」
「それはそうですけどね……」
「浅野さんはついてこなくても良かったのよ。あなたは視えるだけなのだから」
「そうは言っても、やっぱり気になるじゃないですか」
二人が登っているのは、霧雨市の中心から少しだけ離れた、しかし郊外というほどでもない場所に位置する丘陵地帯だった。
霧雨が丘と呼ばれるその丘の頂上一帯には市営の遊園地と動物園があり、丈高い木々の向こうに観覧車が見えている。
しかし、二人がいる斜面はそんな整備された場所とは反対側で、足元は完全な土砂だった。
車道を外れて斜面を登ること二十分、振り返ればまだ待たせている車のヘッドライトが見下ろせるが、一息に駆け戻れるような状態ではなさそうだ。
「会長あの……少し、静かすぎやしませんか……?」
「まあ、こんなものよ。ここの自然にとって、魔道供者は異物なのだから」
まつりの感じた違和感など、藤はとうに感じていたのかもしれない。
そのまましばらく、二人は斜面を登り続けた。
「あの、やっぱりおかしいですよ……なにも、いないんですよ?」
まつりが再び疑問を口にした瞬間、動物の吠える声が聞こえてきた。
犬科の動物であることは間違いないが、太く低く、不安を感じさせるような声だった。
「か、会長……」
「どうやら当たりだったようね」
藤はランタンを前に向けたが、見えるのは斜面にまばらに生える木々ばかり。
あと少し登れば見晴らしの良い展望広場になっているはずだが、下からではそんな様子は感じられない。
藤は歩みを再開した。
まつりも慌てて後に続く。
「狼男……いったいどんな姿をしてるんでしょう?」
「さあね。おそらく浅野さんの想像するような姿ではないのではないかしら」
展望広場に向かって登っていくと、再び遠吠えが聞こえた。
その咆哮は先ほどより近く、大きくなっている。
「か、会長……なんだか、胸の奥が震えるような……」
「魂が震え上がるような咆哮……確かに狼の遠吠えだわ」
藤はどこか楽しそうに言った。
「なんで楽しそうなんですか?」
「なぜかしらね。なんとなく楽しいのよ」
斜面が途切れ、平坦な土地が現われる。
かなり広い敷地にはベンチや簡易な作りの屋台があり、プロペラ機が展示されている。
「この先の動物園は……いまの時間はさすがに入れないわね」
藤は広場の中央に進み出て、周囲を見回した。
「あら、そこかしら?」
カンテラを向けた先に、一人の少年がうずくまっていた。
「会長、その人……!」
まつりの言葉が終わる前に、少年が振り返った。
その目は人よりも犬科の動物に近く、どこか獰猛な雰囲気を漂わせている。
そして、赤黒いもので濡れた口からは異様に伸びた犬歯が見えていた。
少年は夜空を見上げ、大きく吠えた。
空間そのものが震えているような、聞いていて不安になるほどの遠吠え。
それをすぐ近くで聞いてしまったまつりは、足の力が抜けてその場にしゃがみ込んでしまった。
そこに、少年が両手・両足を使って駆け寄ってくる。
助けようというつもりでないのは明確だった。
「ひえっ……」
両手で顔を覆った瞬間、強い衝撃がまつりを襲った。
少年の振り下ろすような一撃がまつりを襲ったのだ。
思い切り地面に叩きつけられる形になったまつりは、顔に強い痛みを感じながらもなんとか体を起こそうとした。
その眼前に少年が立つ。
「あなた……なに……?」
まつりが問いかけたが、少年は答えない。
代わりに答えたのは藤だった。
「人狼……いえ、狼憑きね。おそらく、その子の中で犬神が暴れているのではないかしら?」
「だから、この人はこんなに……」
言葉を続ける前に、少年が足を振り上げた。
そのまま足を振り下ろせば、まつりの顔は砕かれてしまっていたかもしれない。
だが、そうはならなかった。
少年の体が突如として燃え上がったのだ。
少年は体についた火を消そうと地面を転げ回る。
その隙に藤が駆けてきてまつりを抱き起こした。
「あなたにも見えるほど、彼の魂は歪んでしまっているのね」
「ええ……魂の歪みが体への負担になっているはずです」
まつりは少年を哀しげに見つめた。
「だってあんな……人と獣が入り交じったような、不気味な姿で……」
体の火を消した少年はゆらりと立ち上がり、低い姿勢を取ってこちらを睨んでいる。
「あなたにはそう見えるのね。まさに映画にある人狼のような姿に」
藤の両目がかすかな燐光を放つ。
右目は日輪の金、左目は月輪の青。
藤が右手で髪を梳くと火の粉がちらちらと散った。
「あの子を助けるには、まず犬神をどうにかしないといけないわけね」
立ち上がった少年は火によって受けた影響をまるで受けていないかのように地面を蹴り、夜空に跳び上がった。
「並み外れた身体能力だけれど、相当無理をしているのではないかしら?」
藤はその場からほんの数歩だけ後に下がった。
次の瞬間、藤のいた場所に少年が猛烈な勢いで着地する。
少年はその勢いのまま藤に向かって手を伸ばしてきた。
風を巻き起こし、空間さえも引き裂こうとする勢いだったが、藤は上体をわずかに反らしただけでこれをかわし、逆に右手で少年の頬を張った。
するどい破裂音。
反響が消えると、後には静寂と沈黙が続いた。
「びん……た?」
数瞬の間を置いて、まつりが状況を整理するように言葉をひねり出した。
それがきっかけだったのか、なんなのか。
少年の体が再び燃え上がる。
しかし、少年は今度はまるで反応せず、呆然とした表情で藤を見つめている。
それは、まつりたちと遭遇して初めて、少年が見せた人間らしい表情だった。
「あっ、あの……」
まつりが声をかけようとした瞬間、少年は火の粉の塊となって崩れ落ち、そのまま消えてしまった。
「やれやれ、今日のところはこれまでかしら」
藤が疲れたような声で言った。
†††
利也はハッと目覚め、身を起こした。
嫌な夢だった。
山の中を走り回り、展望広場のあたりでねずみを狩り、口にしたところで、二人組の少女がやってきた。
利也は理性では抵抗しつつも、本能には抗えずにその少女におどりかかり、一人を転倒させたが、もう一人の持つ不思議な力で圧倒される……という夢だ。
利也は夢の内容を思い出しながら、部屋の中を見回した。
カーテンの隙間からは早朝の弱々しい光が差し込んでいる。
殺風景な部屋の中には、似つかわしくない小さな箱が、光の差し込む先に置かれていた。
実家を出て寮に入るとき、母親がお守りだと持たせた箱だ。
結局それきり放っておいているが、いまはどうしてかその箱が気になった。
利也はベッドから起き上がると、その箱を手に取る。
手のひら大の木箱だというのに、なにが入っているのかずっしりと重かった。
「これは……なんなんだ?」
利也は思わず、箱を手放した。
箱はまっすぐ床へと落ちて、蓋が開く。
中から大きな犬に似た獣が飛び出してきて、利也の喉笛に食らいついた。
「…………っ!?」
次の瞬間、利也はベッドの上で身を起こしていた。
箱は、動いていない。
さっきのことは全て夢だったのかもしれない。
利也は箱には触れず、起き上がって身支度を始めた。
体がやけに重い。
平素よりもずっと重い体を引きずるようにして部屋を出ると、そのまま外へ行こうとする。
「おい、前田。ちょっと待てよ」
声を掛けてきたのは、昨日の部員だった。
「朝飯も食わずにどこにいくんだよ?」
「あの、いえ……その」
どこに行くつもりだったのか、自分でもわからない。
利也は引っ張られるようにして食堂へ行くと、どすん、と席に座った。
「ほらほら、朝ご飯食べないと元気が出ないよ」
寮母が利也の前に朝食の盆を置く。
利也は、ほかほかと湯気を立てる焼き魚定食を見ながらぼんやりとなにかを考えていた。
「おい、どうした?」
たずねられても、利也は答えなかった。
†††
犬神【いぬがみ】
四国などで語られる憑物の一種。
主人の欲しいものをなんでも取ってくるとされ、犬神を使う家は裕福になる……という定番の妖怪。
おもに女系の血統に受け継がれるとされ、そのために強く忌避されていた。
使役する犬神は呪術によって作り出す物であり、そのため犬神使いは同時に優れた法師でもあったはずである。
現在では犬神統とされる家も少なくなり、その存在は歴史の闇に葬られようとしている。
――十詠社刊『本朝妖怪鑑』
†††
気怠い放課後のひととき。
藤は学校の中庭にある四阿でお茶を楽しんでいた。
周囲に植えられた百日紅が燃え上がるかのように紅い花を咲かせている。
かと思えば、白百合が数本、まだ枯れずに残ってもいて、どこにいるのか野鳥の鳴き交わす声も聞こえてくる。
同席しているまつりの目の前をアキアカネがつーっと飛んでいく。
その姿をなんとなく目で追ったまつりは、そこに来訪者を見つけた。
「会長、あの……」
「ええ、わかっていたわ」
藤はすっと立ち上がり、彼に近付いていった。
「あの、これを……」
彼は、小さな木箱を藤に手渡した。
藤の手に渡る一瞬、木箱から煙のようなものが立ち上がった気がしてまつりは目をしばたいた。
「その箱、一体なんなんですか?」
「これは、俺の母親が持たせてくれた箱です。中身は知らないけど、これが悪いような気がして……」
藤は箱をしげしげと眺めていたが、なにか合点したように彼に戻した。
「いいお母さんね」
「……はい?」
「箱の中身は犬神の牙……あなたを守るよう、呪いがかけられているわ」
「それとあの人狼騒動と、なんの関係があるんですか?」
まつりがたずねるが、藤はくすり、と笑って話を変えた。
「浅野さん、花粉症は知っているわね?」
「ええ、まあ。それがどうかしたんですか?」
「花粉症は、外部からの刺激に体の免疫機能が過剰反応することで起こる。あの人狼もそれと同じよ」
「同じって、どういうことです?」
「彼が日常生活で受ける強いストレスに、守りの呪いが過剰な反応を示していたの。でも、防衛反応の行き先が定まらないために、ああして生霊のようなものになっていたのよ」
藤は彼に右手を差し出した。
「だから、あなたの体内に異物を入れることで、排除する対象を作ってあげれば、あんな生霊は現われなくなる。……さあ、どうする?」
彼はわずかな逡巡ののち、その場に跪いて、藤の差し出した手を取った。
常の人より長い犬歯で、その手に噛みつく。
赤い血が一筋垂れて、血にこぼれた。
「そう、それでいいの。私の血は妖魔の血……常人が口にすればたちどころに壊れてしまう。だからこそ、犬神はこれを排除しようとする。定期的に与えればいい瓦斯抜きになるはずよ」
藤はそう言って、艶然と微笑んだ。
突然、季節外れの突風が吹いた。
まつりの目には、微笑む藤の姿が平素とまったく違うものに見えていた。