最終章 第十二話 ここまで来たのだ
――快がベルゼブブに海へ連れ去られる、数分前。
瓦解したガレキ達の中から、飛び出す腕があった。
重々し気に、蓋のようになったガレキを押し上げ、伸びる白魚のような腕。
ガレキを退かし、脱出するに十分と見た腕の主は、両腕を露わにして這い上がる。
「全く……なんだったんだあの馬鹿みたいにでかくてグロい怪獣。街をぶっ壊しやがって……損害賠償モンっしょあれ。ちはちゃん、大丈夫かい?」
両腕の主は棕だった。
棕は煤と埃を、薄いファンデーションの上にまとわせ、下を向く。
頭を両手で抱え、しゃがみ込んでいたちはは、切り開かれた一筋の穴に向かって首を出した。
途中、後頭部を一部にぶつけながら。
「大丈夫です……なんだったんでしょう……」
棕がちはに先立ち、穴から立ち上がりちはの方に手を伸ばし、引っ張り上げる。
「わぁっ」
不安定な、足場とすらいえないただのガレキの盛り上がりに、ちはが一瞬バランスを崩しかけると棕が脇腹を抱きかかえた。
「気を付けな、何が有るかわかんないし」
至近距離で、棕の顔が見えると、ちはは慌てた様子で棕に預けきっていた体を離す。
ちはが数センチ程度距離を離すと、棕はパーカーのポケットから印章封印札を取り出した。
「アムドゥ、居る?」
声をかけると、アムドゥシアスの声が――何らかの破壊音、燃えさかるような音と共に聞こえてくる。
『ちょ……なんでしょうか棕! ワタクシ今……いそがし……ギャアア!』
「忙しいとこ悪かったな、なんか煩いけど……訊きたい事がある」
棕が申し訳なさげに、声を落とし問うた時。
破壊音の、主らしき者の声を捉えた。
『何が魔神の力を操るだ! ふざけんじゃあねぇ!!』
低く、胸の奥で渦巻き、それでいて色気を感じさせるような――荒々しい声。
『ですから落ち着いて……あ、あそこワタクシの領土……お願いですから暴れないくださいって、黄金差し上げますから』
アムドゥシアスの、低い声の何者かをなだめるような声が印章封印札越しに聞こえると、同時に何かが割れるような音が響く。
『要らん! とっととそいつと会わせろ、ぶん殴ってやる! 神の力を使えるって!? だったらよォ、こんな真似はできるかなってな!』
声が更に荒くなると、何かが弾け、高速回転する何かが擦れたような音が伝わった。
『戦車出す事はないでしょう……ああ棕、今絶賛上司の機嫌を取っているところですと言えば納得してくれますね?』
「あー、わかった。なんつーか、苦労してるんだなアムドゥ」
棕はそれだけ言うと、印章封印札をポケットにしまい、ちはの手を握る。
「とりあえず、自転車はもうガレキの中に沈んじまったし、快と兄貴を探そうぜ」
「はい……」
二人で、荒廃しきった街、その裏路地跡を歩いていく。
さながら、世界の終焉を静かに、過ごした姉妹のように。
「おーい、兄貴ー! 快! どこだー!」
大きな声で、呼び続け、歩む棕。
ちはも、釣られるように声を上げた。
「グリードさんー! 快ー!」
街から離れた時。
魚を腐敗させたかのような悪臭が、どこからともなく漂ってきた。
「? なんか臭うな……ちは、臭わない?」
「臭いますね……食事に、お魚が出た日のごみ袋みたいな臭い」
悪臭の原因が、何であるか考えるのは無駄だと決め込んだ二人は、思考を停止させ進む。
「おーい、居るなら返事をくれよー。そうだちは、まだあいつらここら辺に居ると思うし、ちょっと一周しようぜ。この辺、詳しいんだうち」
棕の提案に、頷きで返すちは。
歩みを進めて、目に映るのは悲惨なる、蹂躙の痕跡。
色とりどりの看板だったものが粉々にコンクリートと鉄筋に挟まれ、中にはゲームセンターの残骸らしきものまであった。
ゲームセンターの残骸を見て、棕は呟く。
「まじか……うちの行きつけだったとこが……つくづく、なんなんだあいつは。散々業六区で暴れ回しておいて……しかも、食事時にあんなグロい姿見せんなっての」
「棕さんの行きつけって、沢山あったんですね」
ちはが何気なく言うと、棕は静かな声で言った。
「そうだよ。十代の頃からここで一杯思い出作った。ゲームセンターの親父には……前はもっと古びてたんだぜ? いや現代の感覚だと充分古いけどさ、一回だけ閉店間際だってのにクレーンゲームやらせてくれた。中々お菓子が取れなくて困ってたとこ、あのおっさん何したと思う?」
ちはが小首を傾げると、棕はゲームセンターだったガレキの山へ歩み寄り、ガレキを拾い上げ、大小一つずつ退けて一つの、ポスターを手に取る。
片手に拾ったポスターは、何の変哲もない、ゲームセンターに入荷予定お菓子の詰め合わせセットの告知のようだった。
「“手が滑った”とか言って思いっきり体ぶつけてさ、そのおっさんは大分でかいんだ。……おっさん自身も想定外だったんだろうな。クレーンゲームが揺れて、山盛りになってたポテチの袋がどさどさ振り落とされてくの! ありゃ傑作だったし、両手一杯に袋を持ってネカフェに行ってたっけ!」
楽し気に棕が喋るのを聞いて、ちはは堪えていたであろう笑いを段々と露わにし、挙句両手を叩く程に笑う。
「なにそれ、おじさん優しい」
「だろ? しかも、だよ」
棕は、続けて手を叩いて語った。
「あのおじさん、うちがCD出した時に店内BGMに、かけてくれたんよね。忘れられない。今はこのゲーセンには居ないけど……思い出、だったのにな」
ポスターを片手に、ガレキを撫でる棕の手つきは優しく、どこか切なげに感じさせるもの。
ちはは、棕の隣に座り、問う。
「あの人外料理店の事は?」
「あ、あぁあそこ? 好奇心でファミレスの奥で、でたらめに合言葉合戦をしていたら入れてもらえたんだ。なっつかし。高校生ぐらいの時だったかな、店主がどう聞いても子供にしか聞こえない声してたからどんなとこだろうって。からかってやろうって思ってたらびっくり仰天。アムドゥシアスから散々聞いていた“魔界”ってこういう場所なのかもって」
「でしょうね……ってあれ? あの黄緑色が店主?」
「半分正解、あれ店主の体の一部を固めて作った分身らしい。店主本体は魔界でどうたらこうたらしてたり、こっちの様子を見に来たりしてるらしい。店主は、今世界で起こってる事が、自分にとっての夢を叶えるのに――あらゆる種族同士の、垣根を越えた憩いの場を作る事を始めるチャンスだと睨んで作ったらしい。でも運営費もほぼ自費だし、視察に来た人間にはコスプレ喫茶みたいなものだと言い張って場を凌いでるあたり、まだ課題は多いらしいけどな」
棕はそれだけ語ると、一息を吐いて立ちあがる。
「さ、しんみりしててもしかたないっしょ。兄貴ら探すぞ、おー!」
棕が威勢よく腕を上げると、ちはも立ちあがった勢いで腕を上げた。
「おー!」
二人は、割れて裂け目のできた、歩道を歩む。
しばらく二人で、歩んでいた時。
どこからともなく、再びの、先程と同様の悪臭が二人の鼻孔を突いた。
「あれ? これってさっきの……」
ちはが棕の顔を見合わせると、棕は頷いて返す。
「ああ、気味が悪い。ほんと、なんでもありだな……って、あれ?」
業六区内から外れた、境目の曲がり角。
そこには降り注いだビルの破片が痛々しく、カーペットのように道路と歩道に散らかされていた。
そんな中、二人の正面には先の“怪獣”――が出現し、被害によって避難したであろう筈の人型が立っている。
人型は呆然と、硝子の上を歩いているようだった。
その歩き方たるや、まるで類人猿の歩行に近しく、背筋は曲がっており、曲がった膝を自身の体重を支えるだけに使うといった具合。
棕がよく見ると、人型は歩く度に何かを落としているようだった。
「避難し遅れた酔っ払いかな、おーい! 危ないですよ!」
棕が歩く人型に向かって、遠くから声をかけると、人型は後ろを振り向いた。
その瞬間、“人型”は、人間ではないことがわかる。
分厚い唇には、鋭利な歯が数本暗闇の中からちらつかせており、平らな目は虚空を見つめているように濁り切っていて、白目を向いている。
人間でいう首に当たる部位は縦線が入っていて、そこから赤い血液のような液体を滴らせ、時々そこから虫のようなものを垂らす。
腹は、肉が抉れておりもはや腹という機能をなしているかさえ二人には分からない。
その者の造形は顔は魚類のクエと、人間を足して割ったような、腐敗した半魚人――ゾンビと呼ぶにふさわしいものだった。
「b……b\r」
半魚人が指を指した先は棕とちは。
「な……なんかやばいぜあいつ」
棕が感じた危険性は、確実なもの。
半魚人が一言を呟くと、一気にその場の空気感が変わり、どこからともなく、霧が立ちこみ始める。
すると、半魚人の周りには大小さまざまな人型の影が現れ始めた。
「うそ……」
一言ちはが呟き、後ろへ下がるのも束の間、背中に何かに当たる。
ちはが振り向いた瞬間、魚の腐敗臭と共に滑りのある手で頭部を掴まれる。
捕まれた手は、しっかりとちはの毛髪を掴みあげ、ちはの足が地面を徐々に離れていく。
ちはの上げた悲鳴によって、棕が振り向くと、そこには――二メートル程の、サメに似た半魚人がちはを掴んでいた。
サメの半魚人は、鋭い歯を大きく開けて――ちはを食べようとする。
が、それを棕は許さず、渾身の体当たりを仕掛けた。
「止めろ!!」
体当たりによって、半魚人がちはを掴んだ手を離すと、ちはを抱き上げる。
「おっと……まさか昔空手やってたのがここで生きるなんて。ってじゃない逃げるぞ!」
「いたた……」
棕はちはを抱えながら、周りを見渡す。
が、見れば見る程自身の状況は、自分の想定よりもはるかに悪いものだという事が分かった。
住宅の屋根達には、両生類型の半魚人が四肢を折り曲げてこちらを睨んでいる。
来た道には、サメの半魚人の引き連れている巨漢の半魚人。
正面には、クエ、カニ、マグロにカサゴ……魚人の軍団が行く手を塞いでいた。
「まさしくお魚地獄、こいつらはフィッシュで、涙を拭くにはティッシュじゃ足りないってか? もう入れ食い状態っしょこれ……嫌になる」
ちはを一旦立たせると、棕はパーカーのポケットから印章封印札を取り出す。
「アムドゥ! 来い! 来ないとコンビ解消だ!」
「やっと一息ついた所ですが……一体何が」
アムドゥシアスが札から飛び出し、ギターと衣装に変化すると、棕は爪でギターを打ち鳴らした。
「乱暴してくれた礼だ! とっときな! 叙曲 青茨庭園!」
ギターから奏でられる旋律は、暴力的なまでの奏法とは相反した繊細なもの。
引きならした瞬間、イントロと思われる部分を奏でると、半魚人の体を真っ青な茨が拘束し、振動する。
「さぁ、逃げるぞ!」
棕がちはの手を引き、身動きの取れない半魚人の群れを突き進んでいく。
「はあ、はぁ……忙しいとこ魔力使わせちまって悪いなアムドゥ」
息を切らしながら、棕が言うとギターにあるアムドゥシアスの意思が語る。
「構いませんよ、“あいつら”を相手に無事なら!」
「あいつらを相手に……やっぱ知ってるじゃんかよ!? それについて聞こうとしてたんだよさっき」
棕が突っ込むと、アムドゥシアスが――恐怖をたたえているような声色で、震えて言った。
「えぇ、あいつらは“深淵なる教徒……ダゴンを崇拝した、魔界魚人属の慣れの果て……いわばアンデッドや屍食鬼のようなものです。殺されようものならどんな死体の状態でも、奴らの仲間になってしまいます!」
「ダゴン……? あの怪獣の事か?!」
「は!? あのダゴンを相手に……まぁいいでしょう、この区域から離れますよ!」
棕はアムドゥシアスの言葉を、首を一瞬縦に振り返し走る。
ちはを連れ、棕が無我夢中で走っていると――視点が、下へ一気にずれ落ちる。
足首が曲がり、一気に――奈落の底へ。
「棕さん!」
手を繋いでいたちはが、亀裂の中へ入りかけた棕の体を間一髪で引き留めていた。
両手足を使い、ちはは渾身の力と体重で引き上げようとしている。
「ギリギリ……だな。ありがとうちは……けど……!」
棕の足は、宙でばたついていた。
耳を澄まさずとも、何者か――深淵なる教徒らの足音が迫っている事は二人には明らか。
「うちを離して逃げろ! アムドゥ、なんかないか!」
棕が言うと、アムドゥシアスは返す。
「残念ながら魔術戦慄の行使、先程の召喚、その前にも主人をなだめるのに少々使っていて、魔力はもうありません! 浮遊するにもほんの少し……本当にほんの少し耐えていただければ一瞬だけ使えます!」
「くっ……つくづく苦労かけてごめん! 耐えてくれ!」
棕は叫んだ。
ちはの顔は、焦燥に歪み、汗が滴り落ち、真っ赤に染まっていた時。
「魚市場だな」
馴染みのある声が響き渡った直後、凄まじい轟音が鳴り響いた。
殴打の音と悲鳴――というよりもはや破裂音に等しく。
気が付けば、二人の視界は暗闇から、家の屋根へと移動している。
二人が下を見下ろすと、そこには――黒衣の、人型の姿があった。
二人はそれを見て歓喜に包まれる。
それが深淵なる教徒に近づいた瞬間、水風船を針で突き刺したかのように破裂し、肉片すら残さず跡形もなく消滅させていく。
グリード・タタルカの姿が、そこにはあった。




