最終章 第九話 我が名は
今回は、短めです。
「僕は、魔術師の置き土産……?」
困惑する快に、ベルゼブブはその場に座り込んで語る。
「そうさ。名を……確かデモニルス――」
ベルゼブブが語る前に、グリードが口を挟み黙らせた。
「デモニルス・クロウズ・シャルハルトル。享年二十五歳。第一世界、デモニルス歴千八百八十八年、自分の屋敷で“死した冥府の死司りし神よ、地上に君臨する全ての竜よ、御身らの下僕ともなろう。我が魂を供物として捧げ、我が望みを聞きたまえ。我が身に奇跡を起こしたまえ。我が恐れるは世界の破壊。我が懼れるは秩序の崩壊。高次元より来たる者共の蹂躙とその末路……とかいう呪文を、書いてまで食い止めようとしたんだったか?」
「何故、グリードが知っている……と言いたいところだが、問題はそこじゃあない」
ベルゼブブは、周りを見た後――すぐさま体を分解させる。
そして、黒い粒へと変化すると快の身に纏わせた。
「えっ?! 何、どうして」
「グリード抜きで話したい」
小さな一匹のハエが耳元に囁く。
快は黙って、ハエの集合体の中へ包まれていった。
屋根から連れ去られ、どこかへと快とベルゼブブが飛び去って行く様子を見るとグリードは笑みを浮かべて――屋根から降りる。
「張り合いの無かった今までが、楽しくなりそうだな。これからは」
呟いて、グリードはゆっくりと路地を歩いていく。
折れた電柱をなぞり、家の塀の凹凸を撫でながら楽し気に――さながら、新しいおもちゃを買い与えられた子供のように。
影を背負うたが如き、翻る黒衣の裾。
腐臭と錆び、埃の入り混じる匂いが鼻孔を満たして尚、歪なる半月を顔に表していた――。
ハエの大群に、体を支えられ、半ば拉致と言える状態で、宙を泳ぐように移動する。
住宅街を抜け、山を抜け――視界は段々と人工物の少ない場所へと移っていく。
田んぼを抜け、あの始まりの――病院のあった、魚渡区を通りぬけて。
魚渡区を抜けた先、着いたのは海岸。
正面に広がるのは、岩一つなく、透き通った群青と薄浅葱色の海。
その上で一つだけ伸びた線路は、海の上で反射し、鏡合わせになっている。
快にとって、それはいまだかつて見た事のない――美しい光景。
青空に挟まれたかのような、感覚にさえ陥り――我を忘れ、自分が何に乗っているかも葬られていた。
「ここなら、良いだろう」
ベルゼブブが呟くと、呆然と海を見つめる快にそっと、地面に置くようにハエから開放する。
「見てみなよ、綺麗だろう? 天護と他の土地の境目は」
返す言葉も、思いつかない様子だった。
事実、美しく、無限に広がるとさえ思わせる広大な群青とそこから奏でられる潮騒。
快の瞳は、まさしくその捉えた群青の一部に耐え切れず、漏らすように、涙を零す。
あまりにも、美麗すぎたのだろうことは、ベルゼブブにもわかった。
「今まで、戦ってばかり。思えば休息の無い旅を続けてきたのだろうね。けど、こっちを向きなよ」
ベルゼブブの声で、横へ振り向く。
手について、尻に敷いた砂の感覚で、我に返って。
「話の続きだ、君は神の力――つまりは、僕らの力……習得している魔術を含めた総合脅威度だけを借りて戦っているわけだ、ここまではわかるね?」
快が無言でうなずくと、語るベルゼブブ。
「例えるなら、神々から君は“人のクレジットカードを勝手に取り出して使っている”ような状態。その中には自分の力を必死に磨いていたからこそ手に入れて――それを勝手に君は全て、状況によってまぜこぜにして使ってるんだ」
「はぁ……」
「そして、力を取り出された魔神は、その間自分の力がフルに使えなくなるわけだ。だから……単刀直入に言おうか」
ベルゼブブは人型になり、座っている快の前で、体育座りの姿勢になって、快の顔を覗く。
「君は、これからもっと、魔神。つまり人外の中で王や上位存在とされるような輩から狙われるだろうね」
「だ、だとしたらなんだ。またその魔神の力で!」
快が立ちあがると、ベルゼブブは笑って見上げる。
「使いかたも知らないのにぃ? ししっ」
図星を突かれ、無言になるとベルゼブブが立ちあがり、快の肩を指先で撫でながら顔へ向く。
「もし、今からの願いを聞き届けたら、君の力の使い方を教えてあげよう。僕はこう見えて、正直人間が好きなんだ……応援してあげたい。特に、東洋の人には縁があるわけだしね」
黄緑色の瞳が、妖しく光る。
これまでの人外達が、重要な決断を迫る際、よくやる動作だと快は納得する事にして――頷く。
「よし、じゃあ要件はどっちか選ばせてあげよう」
快の胸を指先で突き飛ばすと、ベルゼブブは両手を後ろで組み、背を向ける。
「これから、地上界、魔界、冥界、天界へ赴いて魔神たちを納得させるか、それとも――“禁忌”をさっさと滅ぼすかだ」




