最終章 第七話 生贄の様に
誰が、予想したろうか。
突如として現れた巨大な、怪獣を。
恐ろしく分厚い口は、まるで、かつて地球の海を支配していた魚竜類を思わせ、水かきのついた爪は太く鋭い。
腕は自身の身に当たり、崩壊していくビルと同程度に巨大。
背びれは、ミノカサゴの様に連なっており、その筋の一本一本から全身に至るまでが、魚類やそれに似たものの死骸で構成されている。
瞼の無い、濁り切った瞳は――ただ人類の文明の象徴たらしめている、街中のあらゆる場所を憎々し気に捉えていた。
車が踏み潰され、硝子が割れて叫び声がこだまする。
もはや“それ”の足元は、炎と魚の死骸に覆われた地獄そのものだった。
それの手の平に、閉じ込められていた快はただ――もがく事しかできずに居た。
捕まれた手の中、隙間の無い、一筋の光すら漏れ出ないその空間でひたすらに。
「畜生! 立ちあがろうとすると……ぬるぬるして……滑って動けない! なんなんだこれ?」
快は、外界の様子を理解することはおろか、自らを閉じ込めている存在の正体を掴めないでいた。
足をばたつかせれば、足元が滑り、膝に堅い感触が当たる。
当たった瞬間に、堅い感触は砕け散り。
快は願った。
再びの、“力”の解放を――。
あの、神の力を使役するという、身に宿った力を――両手を握り、懸命に瞼にしわを寄せ口を閉ざして。
(頼む、あの力を……せめて、正体を確認できる程度の力を!)
快は、暗闇の中で祈り続ける。
一方、それの外。
たった一人の男――グリードが、悠然と立ち向かっていた。
道路をまたいでいる怪物の両足の前で仁王立ちし、緑の瞳を、鋭く睨んで。
グリードは飲食店の窓から飛び出し、ちはは棕に抱かれて、飲食店の外の路地へ走っていた。
「……よぉ、でかいの。都会の空気はそんなに嫌いか」
怪物は、話しを聞く事無くただ破壊していく。
空いた腕で、ビルをなぎ倒しながら、足の爪にアスファルトを巻き込みながら進んでいく様は壮大にも感じさせた。
「聞いちゃいないのか、ならせめて!」
グリードは地面を蹴り、宙を舞い――快を握りしめた右手に拳を突き上げる。
肉が弾け、殴られた勢いによって自身の右手が上がり怪物の顎に直撃すると、怪物は悲鳴を上げた。
(“測定解析眼”)
眼を光らせ、グリードは敵の正体を分析する。
流れ込んできた情報、それは目を丸くさせるものだった。
(なんてやつだ……ヤツは……ヤツの正体は!)
息を飲み、グリードは空中で手を広げる。
“禁忌権”の構えだった――が、一瞬踏みとどまった。
(畜生、快を巻き込むわけにはいかない……棕に命令するにもちはを逃がさなくちゃいけない……)
思考を巡らせた末、グリードは爪を立て、“怪物”の片腕関節に向かって一直線に突撃する。
その瞬間。
怪物の全身を構築している、死骸についた穴という穴から光が漏れ出す。
(あの発光か! まずい)
両腕を交差させた刹那、巨大な影がグリードの頭上を覆う。
そして――その大きなかぎ爪がグリードの頭が地面へ向かって叩きつけられる。
グリードの頭は、体ごとアスファルトを越えた、深い地層までめり込んでいった。
それと同時に、グリードの入った地面から次々に亀裂が入りはじめ、溶岩が噴き出す。
亀裂が入ると、怪物の自重でやがて亀裂が大きくなり――建造物の全てを巻き込んでいく。
溶岩に溺れ、頭を潰されたグリードは再生が追いつかず、ただもがく事しかできなかった。
「やめろ、親父。見苦しい」
突如として響いた声は、店員の声。
あの、人外料理店の店員は、宙を飛び、虫のような羽音を出しながら浮いていた。
「といっても、もう聞いていないかぁ~。残念」
店員が指を鳴らすと、空が曇り始め、雷雨が起こる。
空間の景色が一瞬淀むと、店員は手を擦り笑った。
「ししっ、結界を張らせてもらったよ……じゃあ、いいね?」
怪物が吠え、全身を発光させようとすると店員は、手をかざした。
すると、漆黒の大群が怪物の体を覆った。
怪物の体を構成する何もかもよりも、一粒一粒が小さな大群。
それは、ハエの集合体だった。
ハエの集合体は、怪物の体を徐々に齧り、食い破り、雨粒によって柔らかくなったであろう死肉と骨を粉一つ残さずに食らいつく。
「w/5555555!」
怪物は低く、吐き気を催すような声で唸り叫ぶと――右手を振り下ろした。
「わっ!?」
突然放り投げられた少年は、頭から店員の腕をかすり、地面に激突する――寸前。
黒い大群が、少年の背中の服をついばみ、宙へと持ち上げた。
「……これ、ハエ?」
「そうだよ君」
店員は、羽を巨大化させ、ゆっくりと腕を上へ上げ、宙を掻き交ぜるような動作をする。
すると、それに呼応するかのように、町中のありとあらゆる場所から黒い粒が集まってきた。
快がよく見ると、それはあらゆるハエというくくりの羽虫全部が――段々と、店員の使役するそれに変化しているようだった。
丸い体が、赤い目が、新緑の細身へと変容し、羽の付け根から新たな羽が生え四対の羽となる。
既存の生物が、新たな生物へと生まれ変わるかのような光景を前に、快は固唾を飲み、大きく目を見開いて驚きを隠せずに居た。
「……ベルゼブブ。聞いた事はあるか?」
「……蠅の、王……」
快でもそれは耳にしたことのある名。
偉大なる、魔王の器の名。
目の前に現れている事象の全てが、その名を彷彿とさせ――その連想は、確信へと変わっていくのを快は感じた。
「……ベルゼブブの名の下に告ぐ――魔界へ帰れ、ダゴン。でなければ、ここで贄となれ」
ハエの大群を身に纏い、ベルゼブブの体が見えなくなると、ダゴンと呼ばれたそれと同等の大きさとなる。
黄緑色の獅子のたてがみをもち、複眼の一粒一粒に瞳孔があり、カマキリを思わせて。
巨大な尻は、スズメバチの様に鋭い針が生えており、足はカブトムシのそれに似たトゲが生えている。
ハエである、と認識させているにも関わらず、視覚から入ってくる、顕現したそれは何よりもハエから遠い虫の造形をしていた。
透明な羽は、口と眼孔の裂けた髑髏のような模様が薄っすらと入っている。
快は、ただそれを傍観するほかなかった。
――ハエの、その空中ベッドで。




