第8章 アクシデント
朝起きると、彼はもう出発したあとだった。
食堂で一人朝食をとっていると、
後ろの会話が気になった。
「朝、早くは霧が多すぎて確実に見えないよね」
「何時頃でる?」
「お昼近くて良いんじゃない?」
「じゃぁ、もう少しゆっくりしようよ」
私もそれには賛成だった。
歯磨きをして、ライダー衣装に着替えてベッドに体を横たえた。
疲れが溜まっていたのかもしれない。
気が付いたときには10時を回っていた。
(あっいけない)
ちょっと無理をして距離を稼ぎすぎたせいだろう。
体調が思わしくない
(まずいかなぁ)
熱はないが、少しお腹が痛い。
気を紛らそうと愛車の見に行った。
かわいらしいエンジンのフィンに付けた、
放熱用の洗濯バサミの並びを整えたり、
フロントホークについた泥を落とし
泥除けの光沢を取り戻した。
ピッカピカのフロントが私のお気に入りだ。
他のバイクはまったく見あたらない。
みんな既に出掛けてしまったのだろう。
あまり気が進まなかったが、身支度をして宿をあとにした。
その坂は思いの外キツい。
非力なGN50では限界を感じるくらい
大きなカーブと急勾配が襲いかかってきた。
左足のシフトを蹴り落とすと、
悲鳴を上げたような音に変わったが
それでもなおアクセルは開く余裕がある。
(この子凄いなぁ)
私の体重がこの子の負担になっていた。
「もうちょっと痩せなくっちゃ」
下り車線から二台のバイクがやってきた。
「あっ!あの合図だ!」
私も左手の親指を立てて前につきだした。
すると二台目のライダーが、
立てた親指を後ろにクィックィッと向けた後、
okサインを出した。
「ん?」
(なんだろう?)
気づくのにそう時間はかからなかった。
「晴れてるんだ!見えるんだ!」
からだが踊って、嬉しくなって、
思わず叫んでしまった。
その時だ、
アクセルの手に力が入り回転計が一気に上がった。
次の瞬間、急な右カーブが現れた。
「あっ!」止まらない!
(曲がりきれない!)
愛車は完全に制御を失って山側にぶつかりそうになった。
その時、
「体を倒せ!重心を傾けろ!」
右の後方からそう聞こえた。
その声に従うように私の体が反応した。
― キーキーッ キーキー ―
タイヤが横に滑る音がした。
車体を右に倒したことで、右手と右の足に力が入った。
上り坂のせいもあって
そのブレーキングで車体は緩やかにスピードを落とした。
フーっ、ハッ、ハッ、ハッ、
息がととのわない。
胸が爆発しそうなくらいドキドキしている。
どうやら最悪の事態だけは免れたようだった。
ゆっくりと路肩の空いたスペースにバイクを停め、
センタースタンドをかけて、
そのまま地面へ座り込んでしまった。
「あぶなかったー」
冷や汗を拭きながら
さっきのアクシデントを思い返した。
体が震えてきた。
(こわかったー)
まだ震えが止まらない。
「おーぃ。だいじょーぶかー?」
下の方から叫んで来る人がいる。
その人はもの凄く力強く、
急な勾配を自転車で上がってきた。
「あっ!」(彼だ!)
また体が震えてきた。
今度は鳥肌も立っていた。
地面につけていたお尻をあげ、坂下の彼に手を振った
「がんばってーー!」
ようやく彼が私の前までたどり着いた。
自転車を私のバイクの後ろに停めて
「がんばってーじゃないょ」
「なにやってんだ?」
「怪我しなかったか?」
「もしかしてさっきの、あの声はあなた?」
「おもしれーなぁ」
「オレの他に誰がいるよ」
「神の声とでも思ったか?」
彼は呆れ顔だ。
「ありがとうございます」
頭を深々と下げると、再びさっきの震えが襲ってきた。
頭を下げたまま、
体は震え、涙まで溢れてきた。
「おい、おい、どうした?」
「こわかった…ん…です」
「死ぬかと思って…」
彼が私の肩にそっと触れて
「大丈夫、大丈夫」
「何もなくて良かったじゃないか」
「怪我してないだろ?」
そう言ってくれた。
私はただ頷いただけだった。
「さ、行こう!」
「"晩婚"が待ってるよ!」
「ん、もーいじわるー」
私の顔が赤くなるのを感じた。
「そう、そう!
対向車のライダーさんが、上は晴れてるって。
サインで教えてくれたんです!」
「へー、もうそんなこと解るようになったんだ」
「ライダーは一体感があっていいねぇ」
「オレ達は孤独だよ」
「まぁそれはそれで好きなんだけどな」
「じゃ、先に行って待っててくれよ」
「すぐに追いつくから」
「はい!」
「今度は安全運転でな」
「はい。そうします!」
「よーし、良い返事だー」
「はい。よく言われます」笑顔で答えた。
「参ったなぁ」
彼が頭をかいた。
ヘルメットを被りエンジンをかけると、
白い煙が後ろにある彼の自転車を覆った。
「おい、おい〜」
半ば鳴き声のような彼の声を耳にしながら
笑って手を振った。
(さっき、待ってろって言ったよね?)
(確かに、言ったよね?)
(わたし、待ってていいんだ!)
あっと言う間に彼との距離が離れていく。
いくつものカーブをこなすと
ようやく木造の建物が見えてきた。
展望台だ。
駐車場にGNを停めて、
彼の来るのを待たずに
一足先に柵のある道までに駆け上がった。
「こ、これが摩周湖…」
霧、一つない完璧な景色だった。
「…ステキ…」
中の島を見ると綺麗な景色だが、
真下の青色を見ていると吸い込まれていくような感じがした。
飛び降りたいような衝動に駆られそうだった。
彼にも早く見て貰おうと迎えに道まで降りてみた。
なかなか来る気配がない
(もしかして、会えないの?)
不安な気持ちになっていると、
必死にペダルをこぐ彼の姿が見えてきた。
「がんばれーー!」
思わずそう叫んだ。
「早く、早く」
私は手招きをして彼を迎えた。
自転車を置いた彼は、私のそばに来て座り込んだ。
「かーっ、キツかった〜」
「さすがに山は堪えるよ」
「お疲れさま。」
自分が飲んでいたお茶を差し出すと
彼は受け取って飲み干した。
「あーうめー。サンキュー!」
「あ〜全部のんだなぁ〜」
ちょっとからかってみたかった。
「えっ?あ、ゴメンゴメン」
「東京で借りは返すからいいだろ?」
(えっ?いまなんて?)
(もしかしてまた、帰っても会えるんだ…)
「やったーー。」
「どうかしたの??」
「・・・」
でも、まだ彼の名前も聞いていなかった。
「記念に一緒に写真とろうか!」
「はい。お願いします」
「誰かにお願いするか…」
隣で湖を見ていたカップルにシャッターを押すのを頼むと、
快く引き受けてくれた。
「これ帰ったら送るからね。」
私たちは住所と電話番号を書いたメモを交換した。
私はそれを手帳の間に、丁寧にはさみこんだ。