43.難民は救いを得る
疲れ果てていた。
夫は徴兵を受け、生死も知れない。
現実に絶望していたといってもいい、けれど子どもたちの手前、泣いてはいられなかった。
自分に残された唯一の心の拠り所。
三歳と五歳になる子どもたちと体を寄せ合い、旅をする中で浮かぶのは祖国のことばかり。
なぜ自分たちが生まれ育った地を離れなければならないのか。
(家を離れてしまったら、誰が夫の帰りを迎えるというの?)
けれど安全には変えられなかった。
近くの村が襲撃に遭った。食糧が奪われ、女性と子どもは悲惨なことになったと。
血を流しながら、命からがら逃げてきた人の言葉だった。
身近に戦火が迫っていた。
逃げてきた人はそのまま息絶えた。明日には自分と我が子もこうなるかもしれないと思うと怖くて仕方がなかった。
疎開は村ごとにおこなわれた。
二つ、三つ近隣の村を合わせて、移動がはじまる。
比較的被害の少なかった村は遠方へやられた。長い旅のはじまりだった。
脱落者は置いていくしかなかった。心の善なる部分が削られていくのを感じた。
明日は我が身である。ぐずる子どもたちに苛立ちが募っては、自己嫌悪に陥る。
祖国を出ても安心からはほど遠い。
物資を狙って盗賊が現れたからだ。
噂に聞く、パルテ王国人の強さを目の当たりにしたが、被害が出ることもあり、気が休まらなかった。
(無事に辿り着けるのかしら)
もしかして、こうしてジワジワと人を減らすのが狙いなのではと邪推してしまう。
誰だってお荷物を抱えたくはない。
着の身着のまま逃げてきた自分たちが、誰かの役に立てるとは思わなかった。
それでも死ぬのは怖かった。
顔見知りの修道者から聖女の言葉が届けられたときは、有り難かった。無条件に保護されるとわかったから。遠い旅路は無駄ではないと知れた。
同時に、自分たちが難民である事実が突きつけられたけれど。
(何も悪いことはしていないのに)
あの場所で暮らしていただけだった。住んでいただけで夫は徴兵され、自分たちは難民になった。普通の人でなくなってしまった。
◆◆◆◆◆◆
やっと辿り着いた疎開先は、想像を超えていた。
背の高い建物をはじめて見た。
同行する修道者曰く、自分たちの暮らしていた場所は、周囲の国々からすると危険で、貧しかったという。反面、ここ、リンジー公爵領は豊かで平和だと。
しばらくは窮屈を強いられるけれど、一世帯ごとに家が与えられると聞いたときは嘘だと思った。
(体力をつけさせて、どこかへ売られるんじゃないの?)
聖女の言葉があっても、相手を信用できるかは別問題だ。
ずっと護衛してくれていたパルテ王国人たちが離れると聞いて、更に不安が心を蝕む。ここへ盗賊が出ないとは限らない。
現場監督を名乗る人間は大丈夫だと言うけれど、信じられるのは修道者しかいなかった。
現状の聞き取りがおこなわれるけれど、多くが口を噤んだ。見返りに何を求められるかわからなかったからだ。
ただ日に日に、人心地つける時間が増えているのは確かだった。
子どもたちが外で遊びたがる。
放ってはおけず、寒空の下、外へ出た。自然と母親たちの集まりができる。
「これからどうなるのかしら」
話題はその一点に尽きた。
日々の細々とした不満、愚痴を言い合う。現場を行き来する男性からの視線が不快だという声もあった。徴兵を免れた難民男性も含め、嫌な感じがする瞬間があるという。
「子どもに何かあったら耐えられないわ」
「協力し合いましょう」
人目があれば防げる問題だった。子どもたちにも注意を促す。
そんなある日、慰問がおこなわれると告知があった。
とても偉い人が様子を見に訪れるという。
――怖かった。
聖女の言葉に従えば、自分たちは保護されるべきである。
けれど無償の善意など存在しない。
遂に見返りを求められる日が来たのかと、子どもの肩を抱く。
身を固くする自分たちに向かって、祖国から共に来た修道者――スミットが声をかけてくれる。
白髪が目立つものの、日に焼けた肌に、ガッシリとした体格は頼もしく、移動中もずっと皆の心の拠り所だった。
「怖ければ祈りなさい。祈る人に乱暴する方ではありませんから」
その言葉を信じて、当日は祈った。
極力、目を合わせず、嵐が通り過ぎるのを待つ。
しかし祈りは通じなかった。
白羽の矢が立てられ、公爵令嬢その人に呼ばれる。
(スミット様の嘘つき……!)
悪態を胸にしまい、ひたすら平伏する。
悪いことをしたつもりはない、子どもたちに罪はないと訴えた。
返ってきた言葉に耳を疑った。
謝罪だったのだ。
凜と澄んだ声音につられて、思わず顔を上げてしまった。
美しい人が、すぐ傍にいた。
地面についた拳に温もりが触れる。垢まみれの手に。
優しく包み込まれ、腰を抜かす。
「さぞ心細かったことでしょう」
続いて、次々と自分の人となりや、抱えている不安を言い当てられた。魚のようにパクパクと喘ぐ。
(ああ、もしかしたら、目の前にいるのは人ではないのかもしれないわ)
そう考えると、妙な納得があった。
手に触れる柔らかな肌も、宝石のような青い瞳も、上質な黒が織りなす長い髪も、この世のものとは思えなかった。
頭の中が見透かされているのも道理だ。
(スミット様への悪態も聞かれたかしら)
今になって後ろめたくなる。
いくら修道者でも、目の前の美しい人の行動は予測できなかっただろう。
ここまで埒外の存在を相手にすると、不思議と開き直りが生じる。
どうせ隠せないなら、吐き出しても一緒だと。
それと同時に、手の平から伝わってくる温もりに安心感も覚えていた。
膝を突き合わせて語られる内容から、彼女自身が心を開いてくれているのがわかる。
ぽつり、ぽつりと質問に言葉を返せるようになった。
幼子のような返事でも、美しい人は嫌な顔一つせず聞いてくれた。
悩みを全て打ち明けた途端、清々しさが胸を貫き、涙が溢れる。
フケや垢だらけの汚い体。自分のことで鈍化していても、悪臭を放っている自覚はある。
普通の人なら見向きもしない外見なのは確かだった。
なのに。
「ええ、よく頑張りましたね。子ども二人を連れて長距離を移動すれば、何度も心が折れそうになったことでしょう。でもあなたはやり遂げた。あなたはとても立派な母親よ。大丈夫、子どもたちも、ちゃんとそれを理解しているわ」
何一つ疑うことなく、真っ直ぐ目を見て、認めてもらえた。
(ああ、知ってくださっている)
自分がどれだけ苦労したか。大変だったか。
何の変哲もない普通の人間であることを。
美しい人の胸に抱かれて号泣した。
泣きはらした目に、水で濡らした布をあてられる頃には、身も心も軽くなっていた。
恥ずかしいところを見せて、すみませんと頭を下げる。
「いいのよ。でも、そうね、もし引け目を感じるときがあれば、一つだけやってほしいことがあるわ」
「何でしょう?」
「困っている人がいたら助けてあげてくれるかしら」
身近な人でもいいと言われ、首を傾げる。
「それだとクラウディア様には何も返らないんじゃあ……?」
「不思議なことに返るのです。巡り回って、あなたのおこないが誰かの助けになれば、やがてわたくしへも行き着きます」
そういうものなのです、と言われて頷く。
美しい人は自分とは違う視点で世界を見ている。この人が言うなら、そうなのだろう。
面談が終わると、次の人が呼ばれた。
美しい人が帰っていくのを見送り、集団幻覚じゃないですよね? と近くにいたスミットに確認する。
「現実ですよ。乱暴もされなかったでしょう?」
言われて、スミットの言葉が正しかったことに気付いた。
ならば手にした温もりも、現実のものだったのだ。
実感が湧いてきて、じわじわと胸が熱くなった。
ほう、と熱を吐き出して気付く。見慣れた浅黒い修道者の横顔が、疲れていることに。
当然だ、彼も自分たちと同じだけの苦労をしてここにいるのだから。むしろ病人やケガ人につきっきりだった彼のほうが疲弊しているはずである。以前より白髪も増えたように見えた。
どうして今まで気にせずにいられたのだろう。
「あの、スミット様はお疲れでないですか?」
「おや、他人を気遣えるほど回復されたようですね。自分は大丈夫ですよ」
笑顔を向けられるが、その目元にあるクマは色濃かった。
心配が伝わったのか、笑みが苦笑に変わる。
「気が昂ぶって少し眠れていないだけです。他の方もネリさんのように心の余裕を取り戻せれば、これに勝る安心はありません」
言われて、そうか、と納得する。
今まで無関心でいられたのは、自分に余裕がなかったからだと。
そしてどんな状況でも他人を気遣うスミットの姿に尊敬を覚える。
やはり自分たちのような普通の人間と、修道者であるスミットは違うのだと再認識させられた。
「スミット様は凄いです。わたしたちが負担じゃありませんか?」
「なんと寂しいことを。ネリさんをはじめ、皆さんの心の奥にまで寄り添えるのは、共に来た自分だけだと自負しています。むしろお役に立てて嬉しいくらいですよ。気兼ねなく任せてください」
「いつもありがとうございます」
感謝を口にしつつも、ようやく気付いた目の下のクマに、一日でも早く、彼が落ち着いて眠れることを願わずにはいられなかった。




