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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

比売神(ひめがみ)の花嫁

作者: 笹椰かな

 ぱんっ、ぱんっ。

 少女らしい柔らかな手のひらが互いにぶつかり合い、破裂音に似た音が生まれた。周囲には誰もおらず閑散としているせいで、それは存外によく反響した。


 つい先ほど二回拍手をした濃紺のブレザー姿の少女の目の前――そこには拝殿がある。拝殿とは神社の参拝者が本殿におわす神を拝む為に存在するもの。

 老朽化のせいで神々しさはあまり感じられないそれは、本当に神様が祀られているのかと疑う者がいても不自然ではない外観をしている。

 けれども彼女はしっかりと手を合わせ、強い念の籠もった声でつぶやいた。


「お母さんの病気が必ず治りますように」

 

 ここは雪比売(ゆきひめ)神社。

 その本殿に祀られている雪比売は、病魔を退ける比売神(ひめがみ)だと言い伝えられている。

 百日の間、途切れることなく参拝すれば、必ず病魔を退ける。この神社にはそんな噂が存在していた。要は古式ゆかしいお百度参りを行えば、神様が願いを聞き届けてくれるというわけだ。

 しかし通常のお百度参りとは違い、祈願の成就と引き換えに、祈願者の大事なものが奪われてしまうのだとも噂されていた。

 その大事なものというのは祈願者の財産であるとも、幸運であるとも、はたまた命であるとも言われている。

 それ故にお百度参りを実際に実行する者はほとんどいない。もし本当に願いが叶ったとしても、命を失ってしまっては本末転倒だからだ。

 つまりは己の命よりも大切な願望。強固な感情。死することへの覚悟。それらを持っている者だけが、百日という時間をかけて女神に祈りを捧げるのである。



 とある県立高校に通う、高校二年生の水戸(みと)鞠阿(まりあ)。彼女はそんな希少な人間の一人だった。

 難病に侵され、定期的な通院と治療を余儀なくされている母が元気になることを祈って、お百度参りを行っているのだ。

 インターネットでこの神社のことを知り、参拝を始めた日から今日で九十日目。つまり、あと十日で百日になる。


「また明日参ります、雪比売(ゆきひめ)様」


 そう告げた後、礼の所作を行い、彼女は拝殿を離れていく。

 するとさあっと涼やかな風が吹いて、高い位置で結われている鞠阿の黒髪を揺らした。境内に植えられている姫沙羅(ひめしゃら)の葉も、風に揺られてざあっと音を立てる。

 それがまるで比売神からの返答のように感じられて、少女の心を慰めてくれた。


 雪比売神社は、鞠阿の家から自転車で三十分ほど離れた場所にある。残念ながら近いとは言えないが、自力で通えない距離ではない。それが鞠阿にはありがたかった。


 鞠阿が自宅に帰り、寝室にいる母の様子をそっと伺うと、母はベッドの上で(すす)り泣いていた。

 病気のせいで不安定な精神状態になってしまった鞠阿の母は、今日のように度々涙を流しては己の運命を蔑むようになってしまった。

 笑顔の似合う優しい母は、いつの間にか嘆き悲しむだけの暗い女性に変貌を遂げていた。そのため母子の会話も大分減った。それが寂しくて、悲しくて、鞠阿は母を見るのが辛かった。

 どんなに慰めの言葉をかけても笑顔を見せてはくれない。病気の苦痛に耐えながら、ただただ悲しみの中で生きている。

 そんな母にまた元気になってほしい。少女の願いはそれだけだった。



 鞠阿がお百度参りを始めてから、ついに百日目になった。


「お母さんの病気が必ず治りますように」


 祈りの言の葉を口にするのもこれで百回目だ。鞠阿は真剣に比売神に祈った。

 ――どうかどうか、私の願いを聞き届けてください。

 他者が見れば哀れに感じるほどに彼女は願った。

 その時だった。祈りを捧げる少女の耳に、随分と年若く聞こえる女の声が届いたのは。


「そなたの願い、聞き届けた」


 鞠阿ははっとして目を開けた。辺りを見回したが、自分以外には誰もいない。社務所(しゃむしょ)は拝殿から離れた場所にあるため、そこにいる巫女(みこ)の声がここまで届いたとは考えにくかった。


「今の声……雪比売様(ゆきひめさま)ですか?」


 鞠阿は拝殿に向かってつぶやいた。しかし返事はない。

 空耳だったのだろうか。だとしたら、あまりにも自分に取って都合のいい空耳だと思った。

 訝しみながらも鞠阿は拝殿の前で恭しく頭を下げると、背を向けて参道を歩いて行った。



 翌朝、鞠阿は度肝を抜かれた。

 毎日毎日、飽きもせずに暗い顔をしていた母が、にこにこと微笑みを浮かべてダイニングキッチンに立っていたからだ。


「今日はなんだか、すごく身体(からだ)が軽いのよ」


 そう言って湯呑みに緑茶を注ぐ母を、鞠阿は信じられない気持ちで見ていた。

 彼女が驚いたのはそれだけではない。午後になり検査のために父の運転する自動車で病院に行った母は、帰宅するなり「病気がよくなってるみたいなの」と報告してきたのだ。


「先生が、色々な数値が正常値に戻ってるって。だから今後は症状がまた出てこないか様子を見ながら、定期的に検査を続けていきましょうって」


 嬉しそうに話す母に鞠阿は思わず涙した。目の前で涙する娘を抱き締めながら、母は申し訳なさそうに声を絞り出した。


「今までごめんね……自分のことばかりで、ごめんね」

「もう、いいの。いいの、お母さん」


 鞠阿は夢のような現実にただただ涙を流し、その身体を震わせた。



 父や母と会話を交わした後、自室に入った鞠阿は雪比売神社の事を思い出していた。

 ――雪比売様(ゆきひめさま)が、私の願いを叶えてくださったんだ。

 お百度参りの翌日に起きた奇跡を彼女はそう解釈した。

 ――雪比売様(ゆきひめさま)に早くお礼が言いたい。

 思い立ったが吉日。鞠阿は早速参拝の支度を整え、父と母に図書館に行くと告げてから外出した。


 鞠阿は今までお百度参りを、両親には内緒で行っていた。

 両親は非科学的なーーいわゆるオカルトと分類されるものを信じていない人たちだった。だから母が大変な時に非科学的な儀式を行っていると知られたら、叱られてしまうと考えたのだ。

 それにお百度参りを行っていたことを打ち明けたところで、オカルトに理解のない両親はそのお陰で自身や自身の妻の病状が良くなったなどとは思わないだろう。

 それがわかっているから、嘘の行き先を告げて雪比売神社に向かったのだ。


 自転車を漕ぎ始めてから三十分後。鞠阿は無事、目的地に到着した。駐輪場に自転車を停めてからしっかりと鍵をかける。


「ふう」


 大きく息を吐き出した後、トートバッグの中のペットボトルを手に取ってキャップを開け、飲み口を桃色の唇へと運ぶ。夏の蒸し暑さの中で自転車を漕いだ鞠阿の喉はからからになり、水分を欲していたのだ。

 ごくごくとレモンティーを飲みくだし、キャップを締めてから、中身が半分になったペットボトルをトートバッグの中へと戻す。

 そして御手洗(みたらし)まで行き、柄杓(ひしゃく)を使って手と口を清めた後、誰もいない参道の脇を静かに歩き始めた。その最中、鞠阿は緊張していた。


『願いの成就と引き換えに、祈願者の大事なものが奪われる』


 それを思い出して足が震えた。覚悟をしてお百度参りを行っていたはずなのに、いざとなると恐怖が襲ってきた。

 ――もしかしたら私、死ぬかもしれないの? 怖い、怖い、怖い。

 けれど元気になった母の姿を思い出して、自分を叱咤した。

 ――お母さんが元気になったんだから……死ぬことになってもいいじゃない。

 鞠阿は身体の震えを押し殺して、拝殿に向かった。

 荘厳とは言い難い、古めかしい地味な拝殿。その前に立った鞠阿は、昨日までと同じ作法で比売神に手を合わせた。しかし、昨日までとは違い、その心中は比売神への感謝と畏怖に満ちていた。


雪比売様(ゆきひめさま)のお陰でお母さんの病気が良くなりました。私の願いを叶えてくださってありがとうございます」


 心を込めて礼を告げてから鞠阿が目を開くと、強烈な視線を感じた。ぞわりと体毛が逆立つ。


「だ、誰っ!?」


 きょろきょろと辺りを見回したが、誰もいない。しかも、視線は明らかに拝殿の奥から感じる。

 鞠阿が不可思議な視線に恐怖を感じ始めてから数秒後、急に何も感じなくなった。

 ――雪比売様(ゆきひめさま)に見られていたの?

 疑問と畏怖を抱きながらも、鞠阿はぎこちなく一礼をしてその場を去った。

 自転車で自宅に帰る最中も神社で感じた強烈な視線を思い出して、その胸は早鐘を打っていた。



 帰宅後も鞠阿は、しばらく胸の鼓動を抑えられずにいた。

 緊張に顔を強ばらせる娘を心配した両親に、彼女は「なんでもない」とぎこちなく笑ってみせた。


「本当に?」

「うん。外が暑かったから、疲れただけ。隣(まち)の図書館は遠いしさ」


 隣町の図書館に行ってくる。そこじゃないと借りられない本があるからーーそんな嘘をついて、鞠阿は今日外出していた。


「部屋で休んでるね」


 両親にそう告げた後、自室のある二階に向かうため、階段を上がった。その間、鞠阿は不安に苛まれた。

 ――私はこれからどうなってしまうんだろう。だって、雪比売様(ゆきひめさま)は私の願いを叶えてくださった。だから、私は必ず何かを奪われる。一体、私はこれから何を奪われるの? 大きな財産も、大した幸運も持っていない私から奪えるものがあるとしたらーー

 不安に押し潰されそうな胸をTシャツの上から押さえながら、鞠阿はドアを開けて自室に入った。肩に掛けていたトートバッグを部屋の隅に置いた後、ベッドの上に身を投げ出して、ぼんやりと天井を眺める。


 そうしているうちに少しだけ落ち着いてきた鞠阿は、自身の身体が水分を欲していることに今更になって気が付いた。夏の高気温の中で自転車を三十分も漕いでいたのだから、喉が乾いているのは当然だった。だが、それに気付かないほどに今まで緊張していたのだ。

 部屋の隅に置いたトートバッグの中から、飲みかけのレモンティーが入ったペットボトルを取り出す。既にぬるくなってしまったことにも構わず、鞠阿はそれを飲むことにした。


 喉を潤し終えた鞠阿は、再びベッドの上に戻った。肢体を投げ出して無気力に天井を見つめる。すると急に激しい眠気が襲ってきて、堪えきれずに(まぶた)を下ろした。そのまますぐに意識が遠ざかっていき、深い眠りに落ちていった。


 眠りながら、鞠阿は夢の中にいた。

 荘厳な雰囲気の煌びやかな和室の真ん中。彼女は陽の匂いのする布団の上で仰向けに寝ていた。

 両目を開けた瞬間、鞠阿は自分の視界に入ってきた見たことのない板張りの天井に戸惑った。


「ここは……?」

「夢の中じゃよ、鞠阿(まりあ)


 鞠阿が声のした方へ顔だけを向けると、少し離れた所に世にも美しい少女が立っていた。十二歳前後の顔立ちで、長く伸びた髪は銀色に輝き、双眸は深い水色をしている。そして、その幼さを感じる身体は白く清潔な着物を纏っていた。


「これ、夢か……。それにしてもあなた……とても綺麗。それに、なんだか聞き覚えのある声をしているわ」


 知らない少女のはずなのに、鞠阿はどうしてか、この少女と初対面の気がしなかった。もうずっと前から知っている気がする。


「わしの声を覚えていてくれたのか!」


 少女はぱっと花が咲いたように嬉しそうに笑った。今にも飛び跳ねそうなくらいに喜びを露わにして、きゃっきゃっと可愛らしい声を上げている。

 鞠阿は少女の愛らしい反応に小さく笑みをこぼしながら、そのまま訊ねた。


「私、あなたのことを思い出せなくて。失礼だけど、名前を教えてくれないかな?」


 質問を受けた少女は、鞠阿の顔のすぐそばに移動して正座をした。そうして白く小さな手を伸ばし、黒い髪にそっと触れてくる。


「わしの名は雪比売(ゆきひめ)雪比売(ゆきひめ)神社に祀られし比売神(ひめがみ)じゃ」


 その名を聞いた途端、鞠阿の心臓が跳ね上がった。危うくパニックに陥りそうになったが、何度も何度も深呼吸をしてどうにか冷静さを取り戻す。


「本当に……? 本当にあなたが雪比売様(ゆきひめさま)なんですか?」

「わしは嘘などつかん。わしが雪比売(ゆきひめ)じゃ」


 きっぱりとした物言いに鞠阿は呆然とした。その声音に聞き覚えがあったのも当然だ。お百度参りの最終日に、神社で聞いたあの声なのだから。

 ――ああ。きっと私、このまま……眠りながら死ぬんだ。

 雪比売の名を聞いた鞠阿はそんな風に考えてしまった。諦観が心を蝕んでいく。


「あの、母を助けて頂いてありがとうございました。雪比売様(ゆきひめさま)のおかげです」


 神社で告げたお礼を再び告げた。死ぬのは怖いが、母を助けてくれたのは紛れもなく雪比売だ。だから、お礼だけはきちんと告げておきたかった。


「礼は拝殿で既に言われたぞ?」

「はい。でも、目の前に()本人……()神体? がいらっしゃるなら、改めてお礼をさせて頂くのが礼儀だと思いまして。ですが、仰向けになったままでお礼を言ってしまってすみません」


 この体勢のままでいるのは失礼だと理解していても、今の鞠阿は起き上がる気力がどうしても湧かなかった。現在、両目に映っている全てが現実ではなく夢の中のものであろうことも手伝って、起き上がろうとも思えない。

 けれど女神は怒りもせず、それどころかにこにこと微笑んで見せた。


「よいよい。そなたは礼儀正しいな」

「いいえ、そんなことありません」


 慌てて首を左右に振る少女を見て、雪比売は殊更に微笑んで見せた。その直後、信じがたいことを言い放った。


「うむ、やはり決めた。そなたをわしの嫁にする」


 嫁。そのひとことに鞠阿は言葉を失った。嫁とはどういう意味だろう。けれど、自分の知っている意味とは別であることは確かだと彼女は思った。何故なら、自分も雪比売も女性だからだ。


「あ、あの、(よめ)ってどういう意味ですか?」

「嫁の意味も知らんのか? そなたに、わしのところへ嫁いでもらうということじゃ。わしの伴侶になってもらう」

「ええっ!?」


 一般的な意味での『嫁』と雪比売の言う『嫁』が同じ意味だと知り、鞠阿は驚愕した。

 女性同士で、しかも雪比売は神だ。比売神の嫁になれ、とはどういうことなのだろうか。少しも理解が出来ない。


「あ、あの! 私も雪比売様(ゆきひめさま)も女性……ですよね?」

「なに、神にとって性別など些末なことじゃ。それにわしはそなたが気に入っておる。親思いで優しい、よいおなごじゃ」


 雪比売は美しい水色の(まなこ)を優しく細めて鞠阿を見た。その温かい眼差しに、鞠阿は僅かに頬を染めた。くすぐったい気持ちになりながら、もう一つ質問する。 


「神様と人間って、結婚出来るんですか?」

「可能じゃ。わしと結婚したら、そなたには神の伴侶として、これからを生きてもらう。つまりは人ではなくなり、神と同等の存在に格上げされるのじゃ」

「人じゃなくなる……?」

「そうじゃ。そなたもわしのように、雪比売(ゆきひめ)神社で暮らすのじゃ」


 その言葉に、鞠阿の心臓が大きく跳ねた。人ではなくなり、雪比売神社で雪比売と同じように暮らす。それがどのようなことなのか少しも想像が出来ない。未知の恐怖に少女は震え出した。


「そんなの……怖い……」

「怖がらなくともよい。神としての暮らしもなかなか楽しいものじゃぞ」


 雪比売のあっけらかんとした言葉を聞いても、身体の震えは止まらなかった。

 怯臆(きょうおく)が治まらない様子の人の子を見ながら、雪比売はひとつ溜め息を吐き出すとこう告げた。


「ならば、一年だけ待とう。一年経ったら、わしはそなたを伴侶とするために迎えに来る」


 その言葉に鞠阿は小さく頷いた。否、頷くしかなかった。雪比売の力を借りた人間には拒否権などないのだから。



 それから一年後。

 ある町から一人の女子高生が、忽然(こつぜん)と失踪した。警察による捜索活動が行われたが、その女子高生は発見されなかった。失踪に関する手掛かりが一切見つからないまま、やがて捜索は打ち切りとなった。

 女子高生の両親は酷く落胆しながらも、今も諦めずに娘の帰宅を待っているという。


 丁度その頃から雪比売神社の境内に植えてある姫沙羅が、夏季になると次々と花を咲かせるようになった。

 今まではほとんど花を咲かせることのなかったその樹が雪のように白い花を盛んに開花させるようになった理由。それはこの神社に祀られし比売神と、その花嫁だけしか知らない。

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