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「おにいちゃん、おにいちゃん」
父に連れられその町にゆけば、いつもの女の子が僕を見つけるなり満面の笑顔になって駆け寄ってくる。
「セアラ!」
僕は腕に飛び込んできた自分よりもずっと小さなその女の子を抱き上げた。
それは、その頃のジルにとって、かけがえのない心の支えだった。
その町ドラッセアにはジルの母方の祖母がいた。母親はジルがずっと幼い時になくなった。そして父が再婚するまでジルの世話をしていたのは祖母だ。今は家から少し離れたこの町に住み、数ヶ月に一度、多い時は月に一、二度ほど、父親に連れられて祖母の元へ行く。それはジルの数少ない息抜きの時であり、癒やしの時間でもあった。
その女の子のことは以前から知っていた。父がこの町に来たついでに町の様子について話を聞くために寄る家があり、そこの家の子がセアラだった。
その女の子は歌が上手だった。会えばすぐに何かを楽しそうに歌いながら遊ぶ。ジルの知る幼児の一本調子な歌とは違う、とても胸に残る歌声だった。その歌を楽しみながら、幼児の訳の分からない決まり事にはいはいとうなずいて遊ぶのは、それほど嫌いじゃなかった。
そんな、ただ町に行けば少し顔を合わせるだけのかわいい女の子から、かけがえのない子に変わったのは彼女の両親が亡くなった後だった。
両親が死んだかもしれないことを知らされず、町の入り口で帰りを待つセアラの姿は、町のみんなから哀れまれていた。
以前はあんなにかわいらしく楽しそうに響いていたセアラの歌が、今は胸を締め付けるほどの切なさを聞く者に届けてくる。
声をかければ見たことのないほど寂しそうなセアラがいた。
帰ろうと手を伸ばせば、きゅっと小さな手が握ってくる。小さな手だった。こんな小さな子が、ひとりぼっちで暮らしているんだと思うと、胸が締め付けられた。何かしてあげたいと、こんなにも思ったのは生まれて初めてだった。
それから、ドラッセアへ来れば、時間の許す限りセアラと共に過ごした。ジルと一緒にいる時が一番楽しそうだという町の住人達の言葉が、とても誇らしかった。
ジルがせがむので、祖母の元へ行く機会も増えた。
ジルが両手を開けばうれしそうに腕の中に飛び込んでくる。ジルの言うことは全てが正しいと信頼し、素直にうなずいてくる。大好きだと、言葉と体全てを使って訴えてくる姿は、この子には自分がいないといけないのだと思わせるのに十分すぎた。
ジルには弟がいた。八つ離れた弟はセアラより一つ年下になる。新しい母とはそりが合わず、義母とも異母弟ともあまり関わることがない。わずか四歳の弟はとても頭が良かった。ジルもそれなりに利発だ、立派な跡継ぎになれると言われてきたが、おそらく頭のできでは比べものにならない。わずか四歳でジルが読む物とそう変わらない書物を読め、ジルには及ばないまでも、ある程度を理解できている。相手は幼児だ。ジルは弟に対し、自分の居場所が奪われるような空恐ろしいものを感じていた。
父親はジルを後継者として扱っている。弟は補佐にと考えているようだった。父はどこへ行くのにもジルを連れて行った。人脈を築けと大人との会話をさせ、商談を見せた。
ジルは必死でそれを身につけようと頑張るしかなかった。物流を考えるのはおもしろかったし、どこに何が必要なのか、どれが売れるのかと考えるのはパズルのような楽しさがあった。会話でそれを探るのもおもしろい。おそらく、商売という物がむいていたのだろう、だから苦ではなかった。それでも、賢すぎる弟への劣等感は膨らむばかりで、学ぶ合間にももっともっと身につけないとという焦りや恐怖があった。ちゃんとできないと、自分の居場所がなくなってしまうのではないかと。
そんなジルが息を抜けるのが、セアラといる時間だ。
セアラはジル自身を必要としていた。彼女の前では「立派なオーブリーの後継者」である必要はなかった。
彼女が必要としているのは、両手を広げてだっこをせがんだときに抱き上げるジルだ。どこかへ行くときに手を繋ぎ、「かわいい僕のセアラ」と呼んで髪を撫でるジルだ。
他の大人達が代わりに手を伸ばすと「おにいちゃんがいいの!」と、誰よりもジルを望む。
それがどれほどの救いになっていたのか、ジルに自覚があったわけではない。ただ、セアラといるとほっとした。かわいくてかわいくて、何だってしてやりたいと感じていた。ジルが何かしてやるたびセアラが笑うことが、とてつもなく幸せだった。
僕がセアラを守ってやるんだ。
そう決意したのは、両親を恋しがってジルの腕の中で泣き尽くして眠った日のことだ。
それから一年が経つ頃、セアラの両親の死亡が確認され、セアラをどうするかという話が再燃したことを知った。ジルはセアラの様子を見てから、父親にうちで預かることはできないか打診しようと考えていた。
まだ大人の社会ではジルの立場は子供でしかないが、もう十四で来年には成人する。父親の力を借りることにはなるが、セアラのように聞き分けの良い子なら、自分が何とかできるかもしれないと考えたのだ。
けれど、ふたたび町へ行った時、事態は一変していた。
「おにいちゃん! ジルおにいちゃん!!」
二ヶ月ぶりにドラッセアをたずねれば、いつものようにジルを見つけたセアラが声を弾ませてかけてくる。
「よお、元気だったか」
うちにおいでという話をするつもりで機嫌良く話しかけたジルだったが、セアラを抱き上げようとして、笑顔が固まった。
「その顔、どうした」
セアラの口元がわずかに腫れ、青くなっていた。
これは、殴られた痕ではないだろうか。
こわばったジルの顔を見て、セアラが慌てて言い訳をはじめた。
「あのね、あのね、がんばったんだけどね、せあら、がんばったの、ちゃんとやったのっ でも、おじさんがちゃんとはたらけって……あのね、せあら、ちゃんとやってたの……」
ジルは言葉を失っていた。
必死で取り繕う姿に、この幼い少女が殴られたのだと分かった。おじさんとは誰だ。あの近所にはセアラを傷つけるような、使い走りさせて怒るような者はいなかったはずだ。
この町の住人達は誰もがセアラをかわいがっていた。自分たちの生活だってあるだろうに、幼いあの子を地域ぐるみで守っている、本当に善良な住民達だったはずだ。あの子に関しては、父がひどく感心するほどに。「利益だけではなく、情でも人は動く物だと、あそこへ行く度に思い出すな」と。
なのに、この子の、この様子は何なのだ。
こわばったジルの表情に、叱られるとでも思っているのだろうか、脅えていて必死に説明をしている。
無邪気に人を慕う子が、ほんのわずかな時間でこんなになるとは、どういうことだ。
頭を撫でようと手を伸ばすと、セアラはびくっと体をこわばらせた。
それは、よその家で見る、折檻され慣れた使用人の反応を思い出させた。
誰がこの子をこんな風にした……!!
悔しさに怒鳴りたい気持ちを必死で押さえながらジルは小さな体を抱きしめた。
「大丈夫だよ。セアラ、僕がいるから、大丈夫だよ」
僕が守るから。君のことは絶対に僕が守ってみせるから。君が無邪気にまた笑えるよう、僕が何とかしてみせるから。
僕のかわいいセアラ。君にはずっと笑顔でいて欲しいから。
僕が必ず君を助けるから。