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両親の財産全てが叔父に奪われてから、セアラの日常は一変した。
叔父は妻子を呼び寄せ、セアラを小間使いとして扱った。近所の者が助けようとしても、養っているのは自分だ、口出しするなと遠ざけた。
突然の環境の変化にセアラは戸惑った。食事を抜かれ、殴られ、泣きながら居間の隅でぼろ布をかぶって震えながら眠った。
まともに与えられない食事、こき使われ、ふらふらになって、近所の人たちにご飯を恵んでもらいながら生活をした。
八百屋のおばさんが、泣きながら「助けてあげられなくてごめんね」と抱きしめてくれた。
叔父は、確かに父の弟だった。優しい父は人のためにその頭脳と知識を使い、叔父は自分の欲望のために人を陥れることさえ躊躇わず、その頭脳と知識を使った。
善良な町の者たちは、セアラを助けるための知恵も力もなかった。
そんな虐げられる毎日が日常になった頃、久しぶりにジルが町へとやってきた。
うれしくてうれしくて、与えられた仕事も忘れ、ジルに駆け寄った。
「おにいちゃん!」
笑顔でセアラを抱き留めてくれたジルは、殴られて青くなったセアラの頬を見て表情をこわばらせた。そして誰よりも怒ってくれた。
「僕がセアラを助けてやる!」
抱きしめられて、グリグリと髪をなでられて、セアラは泣いた。
ジルが味方であることがうれしかった。助けると言ってくれたことがうれしかった。ほっとした。もう大丈夫だ、と。
その日は、仕事をするのも、辛くなかった。
だってジルが守ってくれるから大丈夫。ジルが助けてくれる。いつだってジルはセアラの出来ないと思うことを簡単に叶えてしまう、すごい人だった。そのジルが、助けると約束してくれたのだ。
みんな「助けてあげられなくてごめんね」と言った。泣いてくれた。抱きしめてくれた。食べ物をくれた。でも「助けてあげる」とは誰も言ってくれなかった。ジルがはじめてだった。ジルだけが「助けてやる」と言ってくれた。
すぐには無理だけど、次に来るまでには、必ず、そう約束してくれた。
町に滞在している間、時間の合間を見つけて、セアラはジルと会った。家に持って帰ると取られたり怒鳴られたりするから、お土産のお菓子は二人一緒にいる時に食べた。
そして帰り際、ジルが「次に会える時までの約束の印だぞ」そう言って、小さな花の形をした鈴をくれた。ジルと二人できれいな組紐を選んで、買ってもらったそれに鈴を通して首飾りにした。
「この鈴は僕が会いに来るまで、ずっと付けておくんだぞ。もし取られそうになったら、ジルの物だって言うんだ。これを取るって事はオーブリーの持ち物を盗むって事だって言うんだぞ」
「おーぶりー?」
「うん。僕の家の名前だ。僕の父上はいろんな国で商売をしている大商人だからね。セアラのおじさんも僕の家にはそう簡単に逆らえないよ」
でも見つからないにこしたことはないから、と、代わりに取られても言いようにお菓子も用意してくれた。
「じゃあ、僕が迎えに行くの、待ってろよ」
「うん! まってる!」
鈴は叔父家族には結局見つからず、セアラは一人になった時にだけ、こっそり胸元から取り出し、チリンと鳴らしてジルが迎えに来てくれるのを待った。
普段は鈴が鳴らないように中に綿を詰めておいた。そして辛い時だけ、こっそり鳴らすのだ。音を聞くとジルが慰めてくれているような気がした。この辛い日々がもうすぐ終わると思えるのだった。
ジルと約束をしてまもなく一月。ジルはこの町に長くても三月空けることなくやってくるから、もうあとひと月もすればジルが来てくれるはずだ。
水くみを終えて一休みしていたセアラに、いつも気にかけてくれる雑貨屋のお姉さんが息を切らして駆け寄ってきた。
「セアラ! やっと来たわ!! もう大丈夫よ!! 家を出られるわよ!!」
おにいちゃんのことだ!
セアラの顔がぱぁっと輝いた。そんなセアラをお姉さんは抱き上げて歩きながらゆっくりと話す。
「あのね、ハイメーヌ商隊と言って私が育った商隊なの。そこに私のおじさんがいるの。そこの商隊は才能のある孤児を商隊で引き取って育てながら旅をするのよ。普通の家で育つより、ずっと多くの教養を身につけさせてもらえるわ。文字も、計算も、立ち振る舞いも、私は全部そこで教わったの。厳しいけど、優しい人たちばかりなのよ」
どうやらそのハイメーヌ商隊というところにセアラは引き取られるらしい。よくわからないながらもセアラはお姉さんの話にうなずく。
きっとジルが話をつけてくれたのだろう、そう思うとうれしかった。
「セアラはとても賢いから絶対大丈夫よ。先生も、奥さまも、それはすばらしい人だったもの。その賢さをあなたはちゃんと受け継いでるものね。だから、大丈夫。ハイメーヌで引き取ってもらえるはずよ」
セアラが雑貨屋のお姉さんに連れて行かれたのは初めて入る宿屋の一部屋だ。そこで優しそうなおじさんと、優しそうだけれど偉い雰囲気のおじさんがいた。
「ちょっとお話をしようか」
お姉さんがうなずいたので、セアラは、聞かれるままいろんな話をした。ゲームだと言って教えられた遊びをおじさん達とした。
「言ったとおり、利発な子だね」
「ああ、商隊で育てるのに問題ない」
セアラの相手をしながら、おじさん達がそううなずきあった。その瞬間、お姉さんが涙ぐんでセアラを抱きしめた。
「良かった……!! これで、こんな良い子を、みすみす奴等に潰されずにすむ……!!」
セアラの叔父がセアラに残された財産を奪う事は周到に計画されていた。買収されていたのか役人達に訴えは届け入れられず、それどころか住民の方が叱責を受けた。近所の者たちがセアラをかくまえば、幼子を拐かしたとして罪に問われるよう手配されていた。セアラ経由で両親の財産を奪われないための措置だったのだろう。住民の伝手ではセアラを助けたくても、どうしても手出しが出来ずにいた。
だからこそ、ハイメーヌ商隊にセアラをあずけることを考えたのだ。
商隊が行っているのは実質は才能のある孤児の保護と育成に等しかったが、実際行われる取引形態は、人買いであった。
才能ある子供を、商隊に忠誠心のある人材に育てあげるのが目的である。
しかし買われた子供は奴隷のような扱いを受けるのではなく、あくまで「人」を育てることに重きを置いた商隊の姿勢は知られており、また普通に育つよりも知識や教養を与えられる環境を得られるとあって、子を育てられない親たちが一番にのぞむ子供の身売り先だった。
おそらくこのままあの叔父の元にいれば、遠くない未来、セアラは娼館へと売られてゆくだろう。あの家族がいつまでもセアラを養うわけがない。その前に、よりセアラにとって良い場所に。近所の者たちは、必死でセアラを救うための手立てを探していたのだ。
ハイメーヌ商隊にセアラを買ってもらう。
これが、ようやく誰もが納得出来た、最良の手立てだった。セアラが両親の残した物を受け取れなくなってしまうのは口惜しいが、これなら強欲な叔父家族も喜んでセアラを手放すだろう。
近所の者たちは示し合わせていたようで、叔父に内緒のまま、セアラが商隊に引き取られる手続きが、慌ただしく進んだ。
セアラの空き時間に近所の住人達がお別れをすましてゆく。わずかばかりの別れの品を携えて。それらもまた、大人達が示し合わせていたのだろう、別れの品が増える度に旅の準備品がそろっていった。
大事な物はこっちに全部移しておきなさいと八百屋のおばさんに言われて、叔父から唯一奪われていない両親の首飾りを荷物の中に入れた。後はジルからもらった鈴の首飾り。セアラの持ち物なんてたったそれだけだ。けれど、そんなことはどうでも良いことだ。
だって叔父さんとはお別れなのだ。だってジルが迎えに来てくれるのだから。
おにいちゃんは、まだかな。
セアラは楽しみにジルが来るのを待つ。なかなか来られないのは分かっているけれど、ちゃんとありがとうと、次のお約束をしなければいけない。
セアラは、きっとジルが町に来るのはハイメーヌ商隊が出る時に合わせているのだと信じていた。
これはジルが準備をしてくれたのだと信じ込んでていた。
商隊がこの町を発つ日、隊長がセアラを連れて叔父の元へと赴く。叔父に考える猶予を持たさないため、出立ぎりぎりになって交渉が行われた。
「なかなか賢い子だ。商隊で買い取りたい」
と。
買い取り金額は、ごく一般的な金額を提示されていたのだが、それでも子供の売値としては破格だった。にもかかわらず強欲な叔父はそれを渋った。
「考えさせて欲しい」と。
「今日の午後には発つのだ。今すぐ商談が成立しないのなら、この話はなしだ」
「いや、しかし、この子は本当に賢い子でその金額では……」
確実にハイメーヌ商隊が買い取ることを最優先し、なおかつセアラに以降一切を要求しない旨を書面に残させたことで、結局セアラは通常の倍近い金額で売り払われた。
叔父とはもう、それっきりだ。分かっていたことだが何一つ持たされず、その場で着の身着のまま縁が切れた。
契約が完了し、セアラがハイメーヌ商隊に合流すると、近所の者たちから別れを惜しまれながら見送られる。
まもなく隊が出発しようというとき、セアラはずっと思い続けていた疑問を口にした。
「……おにいちゃんは……?」
「え?」
誰もが首をかしげた。おにいちゃんとは何のことか誰もが分からない。
「ジルおにいちゃんは、どこ?」
きょろきょろとジルの姿を探すセアラに、八百屋のおばさんがはっとしたように、笑顔を浮かべた。
「ああ、ジルくんもずいぶん心配していたもんねぇ。大丈夫、ちゃんと言っておくよ」
「……え?」
セアラはようやく気がついた。これを計画したのはジルではなかったのだ、と。
呆然とした。
幼いセアラに分かったのは、ここで商隊について行くと、ジルに会えなくなる、ということだ。
「や、やだ!! いかない……!!!」
突然首を横にぶんぶん振りながら泣き出したセアラに、住民達はうろたえた。
「辛いだろうけど、あの家にいたらもっとひどい目に遭うだろうから、行くんだよ」
なだめられて、セアラは首を横に振った。
ちがう、ちがう、ちがう……!!
「せあら、いかないの……!! おにいちゃん、やくそく、した! じるおにいちゃん、たすけてくれるって! せあらのおむかえは、じるおにいちゃんがきてくれるの!!!! おにいちゃんがくるの!! せあら、おにいちゃんをまってるの!! これ、ちがう!! ちがうの!! せあらは、おにいちゃんといくの!!」
泣きじゃくりながらセアラは訴えた。
しかし契約は既にすみ、セアラの身柄は商隊の所有となっている。
何より、大商人の嫡男とはいえ十四の子供の口約束を真に受ける者は、大人達の中にはいなかった。大人達は、確実にセアラを守れる方を選んだ。選ぶしかなかった。
「セアラ、ジルくんには、ちゃんと言っておくから。今はこの商隊に入るのよ。大丈夫、ジルくんはオーブリーの御曹司だもの。セアラが立派な大人になれば、その時も強く望んでいたならば、必ず会える日がくるわ」
このときのセアラにそんな言葉を受け入れる余裕などあるはずもない。
「やだぁ!!! おにいちゃんがむかえにくるの!! せあらはおにいちゃんといく! おにいちゃん! おにいちゃん! おにいちゃん!! やあぁぁぁぁ!! おにいちゃぁぁぁん!!」
泣きわめくセアラは、雑貨屋のお姉さんに付き添われ、そのおじさんに抱えられてこの町を出た。七歳になる少し前の出来事だった。