1 セアラ
その時、扉が開いた。
セアラはサンデリナに到着後オーブリー商会の宴にやってきた。ジルがいるのではないかと緊張しながらその姿を探したが、どこにも見つけることができず、ひどく落胆した。会いたくて、会いたくなかった。でも会えるかもしれないと思っていた。
あなたの姿がないことがこんなにも苦しい。会えないことに心のどこかでほっとして、だからこそ、会えない悲しさを存分に味わう。会えない間は、会いたいと思っていられるから。別れを告げなくてすむから。
ジル。やっとここまできたわ。あなたを罪悪感から解放してあげるために。全てを断ち切り思い出に変えるために。やっとその覚悟を決めて、あなたのいるこの場所へ。私は……。
セアラの旅は、ひとまずここで一区切りを付ける。
ジルに会えるまでここにとどまり、そして別れを告げた後は、憂いを断ち切り再び楽団と旅立つことになる。
セアラがサンデリナにとどまる間、楽団もまたここを拠点に近隣を回る事が決まっていた。
いつかサンデリナで公演をしたい。巡業をしたとき、ジルに会えるまでとどまることはできるか。
それは楽団に入る前、セアラが団長に確認したことだ。
『誰もが認めるセロームの歌姫としてその地位を築いたのなら、たやすく叶えられるだろう』
わがままを言えるほど実力を認められろ。セロームに歌姫セアラありと言われるようになれ。歌姫の存在が足を運ぶ理由になるほどの名声を上げてみろ。
挑発するような視線に、その時セアラはうなずいた。そのくらいでなければ、きっと彼の前に立つ覚悟などできない。何より、上を目指す間は何もかもを忘れていられる。
わずか四年という間に、セアラの歌声は、セローム楽団の見せ場として真っ先に上げられるようになった。
『そろそろサンデリナに向かおうか』
そう団長が声をかけてきたのは一年前。
団長が個人のためにそんな取り決めをしたのは初めてのことだった。けれど、それは団員達には伏せられている。余計な諍いを避けるためだ。代わりにサンデリナ周辺にそれなりに大きな町がいくつかあるのが理由として説明された。三月という長い期間同じ町に腰を据えるのは珍しい。しかし、サンデリナはオーブリー商会という国々を股にかけた大きな商会の本拠地がある町である。各地に拠点のあるオーブリーに支援を請うという団長の言い分に、別段不自然さはなかった。
ジルのいない宴の席でセアラはジルにいつか届くようにと祈りながら歌う。今彼はサンデリナにいないのかもしれない。
そう思いながら歌を披露していたその時、扉が開いた。
目を向けた先に、ずっと会いたかったその人の姿を見つける。
……ジル!!
最後に会った六年前より、ずっとたくましい大人の姿になっていた。真っ直ぐに見つめてくる瞳に心が射貫かれたようだった。
会いたかったと、そればかりが溢れてくる。
どれだけ会いたかったのか、私は分かっていなかったのだ。こんなにも胸が痛い。こんなにも愛おしい。この瞳に姿を映せるだけで幸せが溢れ出す。
ジルを見つめ、心のままに歌った。この心が、あなたに届くようにと。伝えられないこの心が、せめてあなたの胸の中で歌声として残るようにと。
歌が終わる。
立ち尽くしていたジルが我に返ったように動く。真っ直ぐにセアラに向けて。
その時セアラの胸にこみ上げたのは、喜びではなく、恐怖だった。
歌に没頭し感情だけにとらわれていた感覚から現実に引き戻された、とでもいうように。
団の演奏は終わった。
覚悟を決めていたというのに、今はもう、ジルに別れを告げる勇気など見当たらなくて、とっさに団長に、疲れが出たので控えさせて欲しいと告げる。
疲れているのは皆同じだ。セロームの歌姫が、こんな態度を取ってはいけないと、理性はそう告げるのに、怖くて泣きそうな感情で混乱してしまった。
しかし、尋常とは言えないセアラの慌てように、「顔が真っ青だ」と団長が下がるように指示を出した。
挨拶をして先にその場を退出する。
いぶかしげな顔で歩み寄ってくるジルから顔をそらし、足早に裏へ下がると、そのまま駆けだした。
ジルともう離れたくない。逃げながら正反対のことを思う。けれど逃げたかった。会ってしまえば、ずっと一緒にいたいという希望が断たれてしまう。会わなければ、会いたいと思い続けていられる。
さよならを言わずにすむ。
だから逃げた。
「……セアラ!!」
追いかけてくる声に、体が震える。けれど、なりふり構わず走り続けた。
舞台に映えるように作られた衣装ではうまく走れない。それをもどかしく思いながら必死で走って、そして腕を捕まれた。
「きゃあ!」
反動で足をもつれさせ転びかけた瞬間、体は後ろからぐっと抱き留められた。
「やっと、捕まえた……!!」
「……っ」
唇をかみしめて首を振るセアラを逃さないように、その腕はセアラを閉じ込めてしまう。
「逃げないでくれ。セアラ、頼むから……っ」
切羽詰まった声に、体がぴくりと反応した。
「セアラ、会いたかった」
怖い。でもうれしかった。恋しい相手にこうも切望されて……その意味がどうあれ。
つぶやかれる言葉と共に腕にこもる力。セアラの体から、逃れようともがく力が抜けた。
「謝るから、逃げないでくれ……っ あの時は、君の都合を考えずに、俺の気持ちばかり押しつけた。君が俺を避ける気持ちは分かる。すまなかった。だが、聞いて欲しい。頼む」
絞り出すように訴えかけてくる声に、セアラは驚く。
「……ち、違うの、ジルは、悪くないのっ」
ジルが自分を責めているとは思いもよらず、セアラは泣いてしまいそうな自分を抑え、それだけはと、何度も首を振る。
「君は、怒ってないのか?」
困惑した声に、セアラはジルの腕の中で混乱したまま何度もうなずく。
「怒って、なんてっっ」
振り返れば目の前にジルの顔があった。慌ててうつむいて後ろに下がろうとして、ジルの腕に阻まれる。
「……良かった。ずっと悔いていた。あの時は今度こそ君を助けると意気込んで、結局君を傷つけてしまった。すまなかった」
「違うの、私の方が、分かってなかったの! ジルは悪くない。私、あんな風に別れることになって、ジルが急いで隊から私を引き取ろうとしてくれてた意味が、ようやくわかって……ジルは、私を心配してくれてたのに、会えなくなる意味を、私がよく、分かってなかったからっ 私、ジルの気持ち、踏みにじっちゃってっ」
しゃべりながら、ボロボロと涙が溢れた。
「ご、ごめんなさいっ、あの時のこと、ごめんなさいって、ほんとは、ずっと、私、謝りたくてっ なのに、逃げちゃって……っ」
「いいよ」
ふわりと頭が撫でられた。リズムを付けて、ぽんぽんと手がはねて、そしてまた撫でて。
「セアラが、俺の気持ちを分かってくれたら、それで良い。俺はセアラを傷つけたいわけじゃなかった。それだけ分かっていれば。セアラが俺のことで悔やむことはない」
「………ジルっ」
彼の胸元にしがみついて泣く。今だけ、今だけだからと、自分に言い訳して。甘えるのは今だけだから。
ちゃんとさよならをするから。