2 ジル
「セローム楽団が来たぞ!」
どれだけこの日を待っただろう。
セアラを傷つけたまま別れたあの日から、六年が過ぎていた。結局、四年前に会い損ねて以来、セアラに会うことはできなかった。セローム楽団は各国を回りながら公演している。オーブリーも広く交易をしているが、ジルがそれほど遠くまで足を伸ばすことはまれにしかない。
四年前のあの日、セロームが旅立った方角は、大陸を大きく回るような巡業になるだろう事が想像できた。セロームが中央の内陸国に戻ってくるまで数年かかるだろう事も。
そして、自分はそれを追いかけることのできない立場であることも。
早々に異母弟のジョエルに立場を譲っておけば良かったと何度思っただろう。
しかし、父がジルを後継者として扱っている以上、譲渡のめどがなかなか立たなかった。何より、外に出てばかりのジルでは、うまくその根回しを出来ずにいた。
しかし、その点はジョエルの方がうまく根回しをしているらしく、ジル側の人間はそれなりに取り込まれて行っているらしい。しかし旅を共にする人間達のジルへの支持は大きい。
セアラへの想いを自覚してから、ジョエルへ後継を譲る考えは決定的になった。
ジョエルの資質が経営者向きなのは確実だ。いつも無邪気なフリしてジルになついているが、それだけではないことは分かっている。まるっきり嘘というわけでもなさそうだしかわいいので好きにさせているが、半分ぐらいは演技だろう。ジョエルは人を使うのが非常にうまい。使われる側を気持ちよく思わせながら動かしてゆく。
「お前は、そのままでいてくれよ」
そんなジルの言葉の意図をどう受け取っているかは知らないが、そのまま後継者に適した性質をのばしてもらいたい物だと思っている。自分はふらふらと交易に出ているからその間にうまいこと自分の立場を不動の物にしてくれれば良い。できれば何の諍いもなく後継者の座を明け渡せるように。
何より自分はこれからも商人として旅を続けたい。仮にセアラを諦めて適当に妻を娶ったところで、ろくに家に帰らない自分では簡単に愛想尽かされるだろう。後継者として身を落ち着けるなど、ジルにはどだい無理な話だ。
ならばいつ来るか分からないセローム楽団の巡業を待つか、追いかけるか。
最悪の場合はオーブリーから離れ、身軽になって一介の商人として追いかけることを視野に入れているのだが、なかなか思い通りにならず四年が過ぎた。
そこへ舞い込んできた、セローム楽団の巡業の話。
数ヶ月前から話は届いており、ジルはそれ以降交易に出ずに、オーブリー商会に残って到着を待っていた。
久しぶりに、交易に出ることなく腰を据えて本拠地で仕事をすることにしたジルに、父と、そして異母弟のジョエルは容赦なく仕事を持ってきた。
曰く、ここに腰を据えてやるべき仕事があるだろう、と。
今まで半ば逃げるように交易にのめり込んでいたツケを支払わされ、一向に、セローム楽団の公演に向かうことができない。二日馬を飛ばせばたどり着ける場所まで来た時は、無理矢理にでも休日をもぎ取ろうとしたのだが、やるべき仕事を次から次へと詰め込まれ、まとめて休みを取るのは無理だった。
半ばイライラしながら、どれだけ首を長くして、セローム楽団が到着するのを待ったことか。しかし、今日は夜まで商談があり、商会を離れる事ができない。
全てを放り投げて楽団の元へ駆けてゆきたい衝動がないわけではない。けれど、セローム楽団の歌姫の名は、今や楽団の看板とも言える存在となっている。突撃して会えるわけがない。
故に、オーブリー商会の名を使い、正面から歌姫への面会を求める必要がある。こういうとき、肩書きとは役に立つのだと、しみじみと思う。
そして、その段取りは既にできている。
今夜、セローム楽団はオーブリー商会の宴に招待され、公演することが決まっているのだ。
それまでのがまんだ。
急遽入ってきた、今日中に何とかしなければいけない依頼に取りかかる。
ジルは一息つき、今夜に備えて、駆け出したい気持ちを抑え仕事を続けた。
漏れ聞こえてくる音色、そして、その音色の中で美しく伸びやかに奏でられる旋律は、美しい女性の声。
ジルは駆けていた。
楽団が広間に到着し次第挨拶に向かおうと思っていたが、外せない取引にかり出され、ようやく終わった頃には、楽団到着はおろか、宴が始まっていた。もしこれが仕事先を招いての宴ならば、こちらがもっと優先されたかもしれない。しかしながら、もっと内輪的な宴だったために、後継者でありながら遅れることとなった。
なぜ、こんな時に限って。
いつも、いつもそうだった。セアラと幼いときに引き離されてから、まるで何かに邪魔をされるようだった。けれど、やっと、ようやく会えるのだ。あの扉の向こう。今、確かに彼女はそこにいる。漏れ聞こえてくるかすかな歌声を響かせる、その主に、ようやく。
今日こそ、今度こそ。
扉を開く。その瞬間、伸びやかにその場を包み込む音が溢れた。
セアラの歌声だった。
初々しさよりも、大人の女性が纏う洗練された美しい音。苦しくなるほど胸に迫る、深みのある情感こもった歌声は、その響きだけで聞く者の心を捉える。
ジルの知っているセアラの歌声とは格の違う美しさ。けれどその姿を目にする前に、響くその歌声でジルは実感する。
間違いなくセアラの歌声だと。技巧ではない、込められた心がそこにある。ずっと聞き続けていたいと思わせる響きは何も変わっていない。あの幼い頃から、何一つ。
そして、会いたいと思い続けていたジルの感情そのもののように、切なく苦しく、けれどどこまでも愛おしく響く。
美しく花開いた女性がそこにいた。きれいに飾ったその姿は華やかで、手の届かぬ天上の花を思わせた。
なのに、幾重にもかけられた首飾りの中に、花の形をした小さな鈴が一つ。
セアラ。
叫びたいその声を飲み込んだ。駆けてゆき抱きしめたいその衝動が沸き上がる。
その時、いっそう深みを増したセアラの歌声が、広間を埋め尽くした。
美しさに声を忘れる、衝動を忘れる。代わりにあふれ出す愛おしさに胸がきしんだ。
ようやく見つけ出した愛おしい姿に、ジルは声も衝動も忘れて立ち尽くした。