1 セアラ
あの時、きっと私は恐れていたのだ。
サンデリナへ向かう道すがら、セアラは胸元を飾る鈴をチリンチリンと鳴らしながら、楽団に入ったあの日のことを思い返す。
セローム楽団の演奏を楽しんだ後、すばらしい音楽に誰もが興奮冷めぬままに帰って行た。浮かれたセアラ達もまた、足取りを弾ませ、そして高揚した気分のままに歌を歌いながら帰途についた。
仲間達は「セアラの歌なら、セロームの後に聞いても劣らないわよね!」などと、口々にはやし立てる。
そして食事を取った後、いつものように持ち上げられて街角で歌い始めた。
セロームが町に来ているため、ここ数日は街角での音楽の見世物は非常に少ない。誰も比べられて悪い評価を下されたくはないのだ。
なので見かける音楽の見世物は少ないが非常にすばらしい物が多い。セアラは歌で小遣い稼ぎはしても生業にはしていなかった気軽さで、そんなこと気付きもせずに高揚した気持ちのまま歌い始めた。
いつも以上に人だかりができた。その日は人通りも多かったが、ここ数日の見世物の少なさに興味をひかれた人も多かったのだろう。
歓声と共に、コインが投げられる。
「やっぱりセアラの歌は最高よ!」
仲間達とクスクスと笑いながら投げられたコインをあつめ、今度こそ帰ろうとしたその時だった。
「すばらしい歌声だったね」
そう声をかけてきた紳士が、セローム楽団の団長だった。
そこからの話はとんとん拍子だった。
団長の勧誘は熱心だった。まだ少し借金が残っていたのだが、その分は団長が払うという。会いたい人がいるため、楽団に入っても長くとどまることはできない話もした。
けれど、人心を掴むのがうまい団長によって詳しくその話を聞き出され、気がついたらオーブリーの御曹司が相手だと言うことまでぽろりと話してしまい、説得された。
一介の商隊の一員より、歌姫の方が会いやすいのではないか、と。
セローム楽団は国王の前で公演でき、時には抱えられることを求められるほどに人気があると自負していた。そして、そこで堂々としていられるだけのマナーも会話術も実地で身につけていくことができる。権力者からの認知度も高くなる。会いに行く時に、胸をはっていきたくはないかね、と。
血筋を重んじる貴族と言われる物の中では、歌姫などと言っても下賤な者と見る者も多い。けれど、商家となれば知名度の高い人間はもてなす物だ。
その時セアラは思ったよりも早く自分を買い戻せる所まで来ていた。ジルに会いたくて頑張って使えるお金は全て返済に充てていた。だから返済後は少し働いた後、それを元手にオーブリー商会のあるサンデリナでジルの帰りを待とうと思っていた。
けれど「自分なんかが、大商会の御曹司と」と思うと、尻込みをしていたのも事実だった。
がむしゃらに働いている間は良い。ジルに会うという目標だけを見つめていられる。けれどふと我に返る度に、恐ろしくてたまらなくなる自分を自覚していた。
会いたい。けれど、同時にセアラは逃げ道を探していた。
きっと今のままなら、サンデリナでジルを待つ期間が長くなればなるほど、立場の差に尻込んでしまうだろう。自分がジルに釣り合わないことを知っていた。
なにより自分は最後に会ったあの日、手を伸ばしてくれたジルの思いを踏みにじった人間だ。幼い頃の約束を守るためだけに手を伸ばしてくれたあの優しい人をなじるような真似をしてしまった。
彼はそれを、どう思っただろう。
勝手にしろと、疲れたようにつぶやかれた様子を、今も鮮明に思い浮かべることができた。思い出すだけで後悔に押しつぶされそうになる。
考えれば考えるほどに、セアラは自分がジルに会いに行くなどとおこがましいと思えてしまうのだ。自分などに、ジルのそばに行きたいと思う権利などないと。
何より、彼の気持ちは、きっと自分の抱く思いとは違う。
そのことも、とても苦しかった。
私は、きっとジルに恋をしている。
セアラはジルを思うだけで切ないほど痛くなり、けれどどうしようもなく温かくなる胸を押さえた。
最初は幼すぎて自覚すらない恋だった。
二度目は、会ってわずかな時間に感じたあこがれじみた恋。
そうしてささやかに積み上げたその想いは、再会の後会うことすらなく膨らんできた。
ずっと覚えていてくれた、だとか。幼い子供の戯言と切り捨てて良いような約束を、八年近くが経っても叶えようとしてくれた誠実さ、だとか。見知らぬ他人に近い自分を短いあの間にできうる限り気遣ってくれた、だとか。本気で心配して怒ってくれた、だとか。
理由を挙げれば切りがない。あの短い邂逅の間に、探せばいくらでも理由など見つけられた。あの人を好きだと思う理由など、あのひとときだけで十分すぎるほど存在した。
けれど、きっと、本当は理由などあってないような物なのだろう。ただ、その人がその人であるというだけで、全てが愛おしい。彼のなすこと全てが慕う理由となる。恋しい恋しいと乞い、逢いたさに胸を焦がす。それをきっと、人は恋と名付けるのだ。
だからセローム楽団に誘われて、心が揺らいだ。歌姫になれば、彼に釣り合うのだろうかと。そうすれば彼は、自分を女性としてみてくれるだろうかと。
私は恐れたのだ。今のままの私で彼に会うことを。
だから団長の勢いに流されるようにセローム楽団に入る話が瞬く間に進んだ。
そして翌日にはハイメーヌ商隊と別れ、セローム楽団と共に町を出るという時になって、オーブリー商会がこの町に来るらしいという話を聞いた時、会いたいと切望すると同時に、尻込んだのだ。
明日の夕刻、もしかすると、その中にジルがいるかもしれない。
流されていた気持ちが揺らいだ。会いたさに胸が焦がれた。心の中がジルのことで埋め尽くされた。ハイメーヌと別れる寂しさも、セロームでやっていくという不安も、ジルを想っている間は全てを忘れた。ジルにもう一度会いたいと思う気持ちだけを支えに、がんばれた。
ハイメーヌに残れば、出立を遅らせれば、会えるかもしれない。
どうしよう、どうしようと思いながら眠りにつき、そして夜が明けた。
眼が覚めて真っ先に思ったのは、やっぱりジルに会いたいということ。けれどセアラはこの日この町を発つ事を決めた。
次の目的地を聞いて、数日遅らせて出立することだって、できないわけではない。とても嫌がられるだろうが、心底願えばできる。でも、それをやる勇気が出ないのは、まだ、覚悟がついてないからだ。
会った後どうするのかを考えて、何の覚悟もできていないことに気付いた。
彼に会いたくて、会いたくて、けれど会うのがとても怖い事に気付いた。
今のセアラは胸をはってジルに会うことができない。彼の優しさに縋るような真似をしたくない。そもそも、恩しらずな態度のまま別れた自分のことを、彼がどう思っているか分からない。あの日拒絶したことが不安となってセアラを踏みとどまらせる。自分と彼の気持ちの差を思い、恐怖を覚える。
仮にジルがあの日のことを許してくれているとして、今でもあの頃と同じように思ってくれているとして……けれどそれはセアラが守るべき妹のような存在だからだ。ジルがセアラを気にかけてくれるのは、あの日守れなかった妹分を助けたい為だろう。
でも、私は彼に保護者となってもらいたいわけじゃない。
どれだけ大切に守られても伴侶として選ばれるわけではない。ジルは彼の隣にふさわしい女性を選ぶだろう。もしかしたらもう既にいるのかもしれない。
でも私はジルが自分以外と幸せになるのを祝福することなんてできない。もうかわいい妹分ではいられない。あなたを「お兄ちゃん」だなんて呼んで純粋に慕うことは出来ない。だから。
胸元で揺れた鈴を握る。音が鳴らないように包み込み、逃げる自分から目をそらすように。
ジルに会いたいと思っただけ、会うのが怖い。愛しいと思うからこそ、その思いの違いを思い知らされるのが怖い。愛しさは恐怖心をあおる。
でも、必ず、必ず会いに行くから。覚悟ができたら必ず、あなたのいる町をたずねていくわ。
だから、今はあなたから逃げましょう。
そしていつか……覚悟ができたその時は。
手の中の鈴を、ぎゅっと握りしめる。
あの日言えなかったさよならを、今度こそあなたに伝えよう。
まもなくオーブリー商会の本拠地があるサンデリナに到着する。ジルは今、どこにいるだろう。各地を旅しているだろうか、それともサンデリナにいるだろうか。
セロームの歌姫として名を知られるようになり、客のあしらい方にも慣れ、権力者を前にしても堂々と振る舞えるようになって久しい。
あれから、四年が経った。
大人になり、少しは自分に自信を持てるようになった。そんな自分を恥じることはもうない。セロームの歌姫として胸をはるのも仕事の一つだ。
なのに、ジルに会うに行くと言うだけで、そんな矜恃は萎え果てて、不安と息苦しさがセアラをむしばむ。
ため息をつき、胸元の鈴をチリンと鳴らす。ジルのことを考えながら小さく鳴らし、その繊細な音にため息をつくという一連の動作は、もはや癖のような物だ。
チリン、チリンと何度も鳴らして、沈んでゆく気持ちをごまかす。
これだけ経ってなお、怖いのだ。世界をより広く知り、いろんな人と出会いたくさんの男性に求められ、そんな歌姫としての四年という年月を経てなお、ジルが恋しい。
ジルとの再会と別れから六年。六年という年月は長い。
八年という年月を踏みにじった恩知らずだった小娘のことなど、ジルが忘れてしまっても仕方がないほどに。そして、六年前でさえ大人だったジルが、結婚をしていてもおかしくないほどに。むしろ、彼の立場を思えば、彼に妻がいるだろうと考える方が自然だろうか。
何もかもがセアラにとって不利に思える。
会いたくて会いたくてたまらないのに、会うのが怖くて怖くて、逃げ出したくなる。
それでも、私は彼に会わなければいけない。伝えなければならない。
セアラは何度目か分からない覚悟を、今一度心の中で繰り返す。
あなたに、あの日伝えられなかったありがとうとさよならを、今度こそ。