7輪目 覚醒
人間は
嘘つきで 哀れだ
醜く 愚かだ
裏切ることは 決別だ
許しを請う 必要はない
わたし のために
願い のために
君の 全てを 受け入れよう
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夢を見た。
何も見えない夢を見た。
上も下も、右も左も分からない。自分が前を向いているのか、後ろを振り返っているのかさえも。それほどまでに、そこは真っ暗だった。
わたしがまだ普通の人間だった頃、目の見えないわたしが見る夢は、当然何も見えることはなかった。今思えば、それはごく自然のことなんだ。けれど、その時のわたしはそんなこと知らなかった。目の見えないわたしは、夢で何かが見えることを期待していた。
鳥を見てみたい。
空を見てみたい。
お母さんを見てみたい。
わたしがどんな顔をしているのか見てみたい。
それでも、わたしの見る夢は何かの映像を映し出すわけではない。しかし、真っ暗というわけでもなかった。音と感覚だけがそこにあるのだ。わたしが感じた温度とそのイメージ、そして聞こえてくる音。それらがわたしの見てきた夢。
けれど、真っ暗なあの夢は何も無いのだ。何も聞こえず、何も感じない。立っているのか、それとも横になっているのかも分からない。
恐怖――。
わたしの中から溢れ出す感情はそれしかなかった。叫ぼうにも声が喉に引っかかり、上手く出せない。心臓の鼓動は高鳴り、息が苦しい。呼吸は肩でするほど荒く、額には汗が滲み出る。絞り出した声は酷くかすれていて、怖くて涙が頬を伝った。
そうだ、わたしは独りなんだ――。
目を開けると、暗く暖かい空間の一点から光が射し込んでいた。
「まだ寝てるの? いい加減起きなよ」
わたしは包まっていた羽毛布団から声が聞こえた方に顔だけを出した。ベッドの側には、呆れ顔の黒猫が座っていた。
「……酷い顔だね。そろそろ元気出しなよ」
「うるさい……」
わたしはベッドに顔を押し当て、蹲った。
酷い顔――。
体中が刃物で刺されたように痛む。
今のわたしにはあまりにも心が損なわれる言葉だ。
聞きたくない。
誰とも話したくない。
けれど、独りは嫌だ。
「君、ろくに食事もとってないだろう。顔色は悪いし、少しやつれて見えるよ」
「うるさい……」
「たまには外に出たらどうだい? 森の空気を吸うのは好きだったろう? それに花たちも心配していたよ」
「……」
「そういえば、最近あの少年来ないねぇ。名前はなんて言ったかな。確か、ロ……」
「出てって!」
わたしはベッドの上で膝立ちになって黒猫を睨み付けた。
黒猫はわたしの怒声に怯む様子も無く、やれやれと言った表情で扉に向かって歩いた。部屋から出る間際に、黒猫はこちらを振り返った。
「食事の準備は出来ているから、食べる気になったら食べて。コックも喜ぶと思うから」
黒猫はそれだけを言い残し、部屋から出て行った。わたしはそれを見届けると、ベッドに倒れ込んだ。暫く、まともに食事をしていないせいか体に力が入らない。自分のものとは思えないほど手足は重く、あの時の恐怖に満ちたロンの顔が頭の中にこびり付いている。
――化け物。
わたしは化け物なの?
わたしは魔女じゃないの?
魔女は化け物なの?
分からない。
ロン。
あの笑顔をもう一度わたしに見せてよ。
わたしを置いて行かないでよ。
この手をもう一度掴んでよ。
嫌だ。
やめてよ。
そんな目でわたしを見ないでよ――。
肌を刺すような冷たい風がわたしの頬に当たり、わたしは目を覚ました。いつの間にか寝ていたようだ。
窓の外は厚い雲が空を覆っていて陽が傾き始めているのか、森は薄暗く静かだ。ふと、さっきの黒猫の言葉を思い出した。
何か食べようかな。
別にお腹が空いたというわけではない。ただ、食べるという行為をしようと思っただけだ。
わたしはベッドから立ち上がり、あまり良いとは言えないほどの足取りで部屋を出た。扉の先にはすぐにダイニングルームがあり、いつも座っている暖炉の前の席に腰掛けた。同時に、奥の扉から料理を乗せた台車が現れた。側まで来ると、料理がテーブルの上に並び始めた。
もちろん、料理が一人でに並んでいるのではなく、姿の見えないコックが並べている。コックは恥ずかしがり屋でわたしは姿をほとんど見たことがない。たった一度だけ見たことがあるだけだ。
それはわたしがたまたま厨房に行ったとき、料理を作っているコックの姿を見たのだ。身長は二メートル以上はあっただろうか。顔は人間のそれとは思えないもので、腕は二本と背中から生えている二本を合わせて四本あった。
わたしが悲鳴を上げるよりも早く、コックが唸るような悲鳴を上げ、その後わたしの耳が丸一日痛かったのをよく覚えている。どうやら、背中から生えている腕を見られるのが恥ずかしかったようだ。それから、わたしは厨房には二度と入らないと決めた。
料理が並び終わると、台車と見えないコックは奥の扉に戻っていった。
テーブルの上にはやたらと豪勢な料理が並べられている。
こんなに食べられないんだけどなぁ。
わたしはフォークを手にして、ポテトをひとかじりした。口の中で咀嚼を繰り返すがなかなか飲み込むことが出来ない。
確か、あの日の翌日もこうやって食べようとして結局、食べられなかったんだ。あの日からどれくらい経っただろうか。
一日中ベッドの上で寝て過ごす日もあれば、行く当てもなく家中をふらふらと歩き回る日もあった。あの日はわたしにとって人間の醜さを目の当たりにした日であり、二度目の裏切りを味わった最悪の日でもある。
だめだ。今日も食べられなかった。
わたしはほとんどの料理を残した。
「ごちそうさま……」
コックには申し訳ないと感じつつ、わたしは席を立った。
部屋に戻ると、窓の外は暗く完全に陽が落ちたようだ。曇っているせいか星は一つも見えず、風は土の香りを運んでいる。
――化け物。
どうしても頭から離れない。思い出すだけで頭が痺れと痛みに襲われる。無常にもそれは不意に訪れ、わたしの身体を蝕むように日々強さが増していく。
痛みに耐えながらもふらつく足でベッドに向かう。途中、何もないところで躓き転んだ。起き上がりたくても体に力は入らず、何も出来ない自分がもどかしかった。
なんでこんなにも惨めなんだろう。
わたしが何かしただろうか。
わたしが嫌な思いをさせただろうか。
わたしはただ友達になりたかっただけなのに。
友達であり続けたかっただけなのに。
わたしだけがそう思っていたの?
わたしだけが望んでいたの?
ロンはわたしをどう思っていたの?
考えれば考えるほど体は熱を帯び、目頭が熱くなる。
ずっと一緒に居たかった。
払い退けられた手が痛かった。
心臓が掴まれたように苦しかった。
浴びせられる言葉一つひとつが胸に刺さった。
わたしはその場に立ち上がると、鏡に映る自分と目が合った。包帯が巻かれていないところの皮膚には、ひびが入っている箇所や既に剥がれ落ちている部分が見える。日に日に悪化しているのは一目瞭然だった。
嫌なんだ。
独りはもう、嫌なんだ。
友達と過ごす日々を知ったわたしはそれ以上に得たいものなんて無くなっていた。願いなんて叶わなくてもいい。ずっとこのまま続けばいいと思っていた。でも、やっぱりだめなんだ。わたしが望んでいたものとかけ離れた事実をわたしは身を以て味わい、そして、痛感した。
優しさは悪だ――。
それに触れれば、気を許し騙される。笑顔は幸福の証ではなく、空虚なものだ。
もう、わたしは何物も信じない。
何物にも屈せず、必要とはしない。
人間がわたしを裏切るなら、わたしはそれを受け入れる。
人間がわたしを化け物と呼ぶのなら、わたしはそれも受け入れる。
そして、哀れな人間、全ての悪をわたしに見せて。
もう離さない。
もう逃がさない。
わたしを拒んだお前の愚かさをわたしが示してやる。
そして、お前の魂を喰い尽くす――。
白いカーテンの掛かった窓の外では、しきりに雨が降っている。遠くには薄暗い空を裂くように稲妻が走り、雷鳴が轟いている。
わたしはベッドの上で天井に描かれた模様を眺めていると、家の扉をノックする音が聞こえてきた。軽やかな足取りで玄関に向かい、扉を開けると、そこには俯いている少年が立っていた。少年は顔を上げることなく、黙り続けている。わたしは何をするわけでもなく、ただそこに立ち竦んでいる少年を見続けていた。
すると、少年は意を決したのか、恐る恐る顔を上げた。わたしを見る少年の目は恐怖で支配されていて、拳を握る手は震えている。何か言おうとしているのか、口をパクパクと開閉しているが言葉になっていない。痺れを切らしたわたしは平静を装い、穏やかな口調で言った。
「どうしたの?」
わたしの反応が意外だったのか、少年は目を丸くした。
「え、えと……こないだはごめん!」
少年はわたしに向かって頭を下げた。
「よく考えたら化け物なんているわけないし、それにあの時薄暗かったから見間違いかもしれないと思ったんだ」
少年はわたしに一歩近づいた。
「アンジュは僕にとって、大事な友達だし。文字を教えてくれたことにも感謝してるんだ。あと、アンジュが抱えてる病気のことなんだけど、僕が力になれることはないかな? 僕、アンジュのためなら何でもするよ!」
少年はさっきとは打って変わって、目を輝かせている。わたしは一歩下がり、少年に言った。
「入って……」
少年はその言葉に嬉しそうに答えた。
「うん!」
わたしが歩く一歩後ろを少年が付いてきた。わたしが案内した部屋はピアノルームだ。
「うわぁ、もしかしてこれピアノ? 実物を見るのは初めてだぁ!」
少年は本でしかピアノを見たことはなく、この部屋に入ったのも初めてだ。
「弾いてみてもいい?」
少年は好奇心を抑えられないのか、わたしの返事を聞く前に鍵盤に触れてしまいそうな距離まで手を伸ばしている。わたしは二つ返事で了承した。
少年はさぞ嬉しそうに鍵盤に指を掛け、一音鳴らした。その瞬間、ピアノは大きく形を変えた。鍵盤はあらゆるものを噛み砕く歯となり、脚柱は獲物を捕獲する腕となった。
「うわああああぁ……!」
少年は頭から噛み砕かれ、噴き出る血の一部がわたしの頬に飛び散った。肉を噛み切る様は爽快で、骨を噛み砕く音は恍惚として聴き入った。残りの半分も一瞬にして飲み込まれ、ピアノは元の状態に戻った。残ったのは紫色の絨毯にできた赤い染みだけだった。
「ふ……ふふ……」
わたしに抑えることのできない感情が一気に押し寄せてきた。
「ふっ……あはははははははは!」
ああ、なんて晴れ晴れした気分なんだろう。
こんな気持ちは初めてだ。
なんて呆気なかったのだろう。
たかがこれだけのことだった。
簡単なことだったじゃないか。
どうして今まで気が付かなかったのだろう。
苦しんだわたしが馬鹿だったじゃないか。
傷付いたわたしが哀れだったじゃないか。
どうして早く殺さなかったのだろう。
殺せばわたしの願いが叶うというのに。
わたしはその場にしゃがみ込み、赤い染みを指でなぞった。
「お前の望んだことだろう? わたしの力になりたかったのだろう? わたしのためなら何でもするのだろう?」
指に付いた血をわたしは舐めた。
「良かったじゃないか。お前の身体はわたしのために力となり、そして、ずっとわたしと一緒なんだから」
願いが叶うその日まで――。
部屋の隅の花瓶に生けられている花の内、一輪の花が赤く染まっていた――。
何かが引き抜かれたような穴が開いている。そこを覗き込んでも夜の闇よりも真っ暗で何も見ることは出来ない。耳を澄ますと、何かが聞こえてくる。
――助けて。
頼りなく、か細い声がその穴の底から聞こえるのだ。
わたしは目を閉じた。
耳を塞いだ。
気が付かないふりをした。
そう。
わたしは自分を騙すことにしたのだ。
その穴は、わたしの心の中にある――。




