4輪目 カラス
あなたは どんな顔を しているの?
わたしは どんな顔を しているの?
ねぇ 教えてよ
わたしに 見えないんだもの
あなたには 見えているの でしょう?
ねぇ わたしって どんな顔?
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
鼻腔を刺激する紙の匂い。
揺らめく小さな蝋燭の火。
壁一面を覆い隠す程の本。
図鑑。
歴史。
宗教学。
童話。
この書庫にはありとあらゆる本が置かれている。
赤い絨毯の上に横になりながら、わたしは本を読んでいた。文字を読むことのできなかった、そもそも見たこともなかったわたしに黒猫は文字を教えてくれた。カエルの目を通して、わたしに見える文字の数々は、わたしの頭の使われていなかった部分を強く刺激した。
初めは理解出来なかった。
何故人は話す事が出来るのに、文字を使うのだろう。文字を書き、読む必要があるのだろうか。
目の見えなかったわたしにとって文字はとても不思議なもので、本を読めるようになるのが楽しくて仕方がなかった。
国の歴史。
この世界に住む生物。
本の中でしか描けない物語。
知らない事を知る、そういうのがわたしには快感と呼べる程に胸が熱くなった。
「また本を読んでいるの?」
気怠そうに声を発した黒猫がわたしの目の前に突如として現れた。黒猫は本から目を離さないわたしに向かって続けて言った。
「本ばかり読んで飽きない? 最近ずっと読んでるよね」
そう、わたしは黒猫にこの書庫に案内されてから食事や睡眠の時間以外はほとんどここで過ごしている。ここにある本の量は膨大で、知識もかなり増えた。
「本って素晴らしいと思うわ。著者の考えや意見、空想と想像、事実と真実、これらが織り交ぜられて本という形になる。魔女にならなかったら本の存在すら知り得なかったのね」
「随分と本に執心しているんだね」
「当然じゃない! 本には全てが書いてあるもの」
わたしは本当に信じていたのだ。本の中には世界の全てが記されていると。
黒猫は興味の無さそうな調子で言った。
「ふぅん。でも、あくまで本は過去の事でしかないよ。君に必要なのは今の外の世界だと思うけどな」
「あなたがわたしに文字を教えたのよ?」
「まあ、そうなんだけどさ」
黒猫は本棚を眺めながら、扉に向かって歩いている。すると、何かを思い出したようにこちらを振り返った。
「そろそろ時間だから戻ろうか」
「そう」
わたしは開いている本を閉じ、立ち上がった。
窓から吹き込む風は心地良く、わたしの赤髪を靡かせる。貧困街にいた頃とは違い、吸い込む空気は体全体に沁み渡る。
気持ちいい。
書庫に篭っていたわたしの身体をベッドが解すように包み込んでいる。
模様の入った天井を見つめていると、窓を突く音がした。そちらに顔を向けると、小さなショルダーバッグを提げた黒いカラスが窓のへりに止まっていた。
「おい、持って来たぞ!」
乱暴な口調で話すカラスはバタバタと翼を広げている。わたしは立ち上がり、カラスの傍まで近づいた。
「いつもありがとう」
「別に構わねぇ。これが俺の仕事だ」
カラスは翼をしまって言った。
「ほら、包帯を外してくれ」
カラスに言われた通りにわたしは両目に巻かれた包帯をゆっくりと外し始めた。脆くなっている皮膚が床に落ちる。外した包帯には黒ずんだ血が付いていた。
カラスはわたしの顔、主に目の周辺を凝視している。
このカラスはただのカラスではない。話せる時点で普通ではないのだが、このカラスは黒猫と同じように悪魔なのだそうだ。見た目では分からないが、カラスからは黒猫とはまた違う気配を感じられる。
カラスはわたしに薬を届けに来る。どこから薬を調達してきているのかは教えてくれないが、いつもわたしのために持って来てくれている。
「今回もこの薬だ」
カラスはバッグから嘴で薬を数種類取り出して、その場に置いた。
薬は苦手。薬の独特な苦味にむせ返りそうになる。水で流し込んだ後も口の中は不快で、いつも水をたくさん飲んで紛らわす。
そういえば、お母さんが買って来てくれていた薬も苦くて、飲むのが大変だったなあ。
「この薬苦いから嫌なのよね」
「我儘言うな。飲まないと、もっと顔が崩れるぞ」
「そうだよ。せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
わたしの足元に座っている黒猫は抑揚の無い声で言った。
「お世辞はいらないわ」
「そんなことないよ! アンジュは可愛い女の子だよ。澄んだ空のような青い瞳。夕焼けに染まったような赤い髪。目鼻立ちのいい顔。それらを併せ持っているアンジュはとっても可愛らしいよ」
「やめてよ。本当はそんな風に思ってもないくせに……」
わたしは薬を持って黒猫から離れるようにしてベッドまで行き、腰掛けた。
黒猫に見透かされているようで嫌だった。心情が読み取れない気味の悪い声が嫌だった。わたしは未だに黒猫に気を許せずにいる。
「怒らないでよぉ。本当のことなのに……」
黒猫は落ち込んだ様子で両耳を垂らしている。カラスはその様子を見て黒猫に言った。
「お前、なんでそんなに嫌われてんの?」
「ぼくが知りたいよ」
「前の主はこんなんじゃなかっただろ。契約の時、何て言ったんだよ?」
「君の願いを叶えたいって」
カラスは眉をひそめた。
「それだけで嫌われないだろ。どうせ心を抉るようなことを言ったんだろ。お前、昔からそういうところがあるからな」
「……ねぇ。前の主って、わたしの前にも魔女がいたの? 」
わたしは会話に割って入った。わたしの言葉に黒猫とカラスはこちらをじっと見ている。
窓から吹き込む風は止み、鳥の囀りも今は聞こえない。聞こえるのは、わたしの呼吸と心臓の鼓動だけ。
少しの沈黙の後に黒猫は口を開いた。
「……いたよ。君が魔女になる前、ぼくは別の魔女と契約していた」
黒猫の声は酷く静かでどこか刺々しいように感じた。
「その魔女は願いを叶えられたの?」
「ああ。でも、彼女は……いや、今は止めておこうか。いずれ知ることになるから」
黒猫はこれ以上は話せないといったようにわたしを目で制した。カラスは翼をバタつかせて今にも飛び立とうとしている。
「俺はそろそろ行くからな」
「うん。ありがとう」
「じゃあな」
「またね」
カラスは大きく翼を広げ、あっという間に空高く飛んで行った。わたしは見えなくなったカラスの姿が見えなくなるまで空を見続けた。
空は紅く染まり始め、森からは動物の声が消えていった。
そばに寄ってきた黒猫が不服そうに言った。
「なんか、ぼくとカラスに対する態度が違いすぎない?」
「そんなことないわ」
「ぼく、君にありがとうなんて言われたことないよ?」
「そうだったかな。じゃあ、文字を教えてくれてありがとう」
黒猫は納得いかないといった様子で床を爪で引っ掻いている。わたしはぶらぶらと揺らしていた足を止め、さっきカラスが届けてくれた薬を飲んだ。粉末状の薬は水で流し込んだ後も、口の中に僅かに残っている。
やっぱり苦い。
わたしはその独特の苦さから顔を顰めた。
「薬には慣れない?」
その様子を見ていた黒猫は不敵な笑みを浮かべている。
「別に……そんなことないわ」
「またまたぁ。強がらなくてもいいのに」
わたしは黒猫との会話を終わらせるように立ち上がった。すると、側にあるドレッサーに目が行った。それに近づき、鏡に視線を向けると、自分の顔がはっきりと見えた。
目の周りは腫れていて、皮膚はボロボロに剥がれ落ちている。そこには黒ずんだ血が付着していて、別のところからは血が滲み出ている。
なんて醜いのだろう――。
暫くの間、わたしは鏡に映る自分の顔から視線を外すことが出来なかった――。




