25輪目 路地裏の魔女
最後のページを読み終わると、アムールの魔女と書かれた赤い本が光の粒子のように形を変え、消えていった。わたしはその後も本があった場所を見続けたまま動くことが出来なかった。押し寄せる波のようにわたしの頭の中に入り込んできた本に綴られた数々の出来事は、わたしが全てを受け入れるにはあまりにも突飛な話すぎた。
「一体、どういうこと……?」
「どういうって、あの本の通りだよ」
顔を上げると、黒猫はせせら笑いをしていた。その青く光る目は、この薄暗い路地裏では不気味に感じられる。
「今のが……今の話が全部真実だって言うの!?」
「そうだよ」
わたしは拳を強く握った。
「やっぱり、嘘……だったんだ……。あの時、お前が言っていたお母さんの行動も言葉も全部! 嘘だったんだ……!?」
「そうだね」
「なんで……」
握っていた拳をさらに強く握り、爪の先が手に食い込んだ。
「なんで、嘘をついた……?」
「そんなこと、決まっているだろう」
黒猫は表情一つ変えずに、平然と言い放った。
「面白くなりそうだったからさ」
「な……?」
「人間ってさ、興味深い生き物だとは思わないかい? 物を運び、物を売り、物を買う人間。神を信じ、神を崇め、神に感謝する人間。研究し、技術を高め、暮らしを豊かに発展させる人間。どれも等しく人間だ。それなのに人間は、個を恐れ、個を差別し、個を消そうとする。それがまさしく、魔女狩りというわけだ。感情が渦巻く魔女狩りという争いの中心にぼく達悪魔がいる。けれど、人間は悪魔の存在なんて知りもしない。人間同士が疑い、憎み、悲しむ。その積み重なった負の感情は、やがて悪を生み出す。それは、悪魔以上に穢く、卑しく、浅ましいものだ」
「それは、お前たち悪魔が人間を誑かしているからだろう!」
「それは少し違うな」
「何が違うっていうの?」
黒猫は自分の手を何度か舐めた後、私を見据えた。
「知っているかい? 人間は身体のどこかに一匹悪魔を飼っているんだ」
「人間の中に……悪魔!?」
「そう。ぼく達は、人間ではなくその悪魔に語り掛けるんだ」
黒猫の周囲から這い出てきた黒い影のようなものが、わたしの胸に突き付けられた。
「君が最も求めるものはなんだい、ってね。ほぉら、ここにも一匹、悪魔がいるよ?」
私は自分の胸を見てから、生唾を飲んだ。黒猫は突き付けていた影を引き、それを地面の中に消した。すると、わたしの顔を見ていた黒猫が突然笑い出した。
「ははは! なんて顔をしているんだよ。君の怯えた顔はそそられるものがあるけれど、ぼくが見たいのはそれじゃない。……君が絶望した顔を見せてくれるには、何をしたらいいのかな?」
「悪趣味なやつね……」
「あ、そういえば君が飲んでいたあの薬。良かったね、お母さんのおかげで飲めていたんだよ?」
「そうみたいね」
「あれ、動揺しないの?」
「驚きはしたけど、わたしにはもう関係がないもの」
「……そうか、君の中にはもう、お母さんがいないんだね。ねぇ、君の壊れた心の中には、誰が住んでいるんだい?」
黒猫はニタニタと笑っている。
「目が見えるようになる為に、君は何人の人間を殺してきた? 何人の顔を覚えている? 目が見えるようになって、君の目には何が映っている? 孤児院の子ども達が眩しいか? 死んだお爺さんが愛しいか? 人間であることを捨て魔女だった君が、人間と馴れ合えるはずがないだろう」
「そんなことない……」
「欠落した感情が取り戻せるとでも思ったか? 殺してきた人間達と共に生きていけるとでも思ったか? 他人の体を持った君が、平然と暮らせる場所がこの世界のどこかにあると希望でも抱いていたか? ねぇ、繋がりを否定してきた君の中に、何が残っているというんだい?」
左手に持つナイフを強く握り締めた。
「わたしは……」
「君はもう人間には戻れない。況してや魔女でもない。……なら君は、一体誰なんだい?」
「わたしは……人間だ!」
ナイフを持った手を振りかぶり、目の前にいる黒猫の首に突き刺した。黒猫は身動き一つせず、体をだらりと下げている。
これでいいんだよね? こいつさえ殺せば、わたしはちゃんと人間になれるような気がする。孤児院の子達とも暮らせていける。あの温かい空間でわたしは何か大事なものを見つけられる、そんな気がするんだ。
わたしはナイフから手を放そうとした瞬間、黒猫の首がぐるりとこちらを向いた。その目は大きく見開かれ、不気味に感じられた。
「イタイジャナイカ……」
「ひっ!」
わたしは思わず後ろに飛び退き、背中が壁に当たった。黒猫の体から黒いどろどろとした液状のものが溢れ出し、抜けたナイフが金属音を響かせて地面に落ちた。
確かに刺した感触はあったのに。
「人間って本当にぼくの想像を遥かに凌駕してしまう生物だよネ。まさか刺してくるなんて思いもしなかったヨ」
黒い液体はまるで触手のように何本もの数がうねっている。
「なんで……?」
「なんで死なないのカって? 悪魔は死なないヨ。人間ガ生きている限り、そのそばで悪魔も生き続けるからネ」
黒い液体はこちらに向かって勢いよく伸びてきてわたしの首を絞め、壁に押し付けてきた。
「うっ……!」
「どウしたの? 辛いのかイ? 苦しいのカい? 君が今まで人間にしてきたことを事ヲ、ぼくが君にしてあげているだけダヨ?」
「かぁ……あぁ……!」
「いざ自分がその立場ニなった気分はどうだイ? 悔しいかイ? 屈辱カい? 自分の惨めな姿ニ、目モ当てられないダロウ?」
わたしの首を絞めつける力は増し、目尻には涙が溜り、口からは唾液が垂れた。
呼吸が出来ない。肺は空気を欲し、今にも暴れ出しそうだ。
顔全体は熱を帯び、張り裂けてしまいそうになっている。動かそうとした手足はすぐさま黒い液体に押さえつけられた。意識を失いそうになる中で、地面に落ちている銀色のナイフが目に入った。柄に装飾されている苦しそうに叫ぶ青い瞳の猫。
これは悪魔なんかじゃない。これは、わたし自身だ。人間を忌み嫌い、蔑み、憎んできたわたしだ。人間を殺し続けてきた力にわたしは殺されようとしているのだ。
わたしはもはや体が歪な形をした黒猫を睨みつけた。
認めたくない。屈したくない。こんな形で死を受け入れられるはずがない。アリサと約束したんだ。待ってるって言ってくれたんだ。わたしには、帰る場所があるから――。
わたしは締め付けられる喉を辛うじて開けて、声を発した。
「お、お前は……哀れな悪魔だな……」
「何だト?」
「お前は、寂しいんだ……。独りぼっちで、いることが……!」
「寂シイ? 何ヲ馬鹿ナ……」
「独りでいるのが、寂しいから、人間に近付こうとしているんだ……。生きるだけなら、その辺で死んだ魂を食べるだけで、いいだろう? それなのに、わざわざ人間を魔女に仕立てている。おかしいだろう……?」
「違ウ! 暇潰しだと言ったダロウ!」
黒い液体がお腹の傷口に伸び、体内に侵入してきた。
「がぁ……! はぁ……はぁ……お前は、羨ましいんだ、人間が。繋がりを持ち、家族を作り、子を育む。喧嘩をし、仲直りして、笑い合う。そんな人間のことが、羨ましくて、憧れた……」
「違ウ違ウ違ウ!」
侵入した黒い液体が体内で暴れまわった。傷口からは血が噴き出し、激痛が走った。
「ぐぁああ!」
「ぼくにとって、人間なんテ玩具のようなものなんダ……。羨マシイ? そんな……そんなことがあってたまるカ……!」
私は動揺しているように見える黒猫を見続けた。
「なんだヨ、その目は!? そんな目で……ぼくを見るナヨォオオ!」
わたしの首と手足には骨が砕けそうになるほどの重量がかかり、体内には杭が打ち込まれたような激しい痛みが襲った。
「あぁあああ!」
わたしは今にも意識を失いそうになる中で、お腹に伸びている黒い液体を掴んだ。
「何ノ真似ダ……?」
「不思議に思っていた、ことがあるんだ……。お前はどうやってわたしに、魔力を与えたんだろうって……」
「どういうことダ……?」
「魔女になったわたしは、悪魔と同じように魔力を使える。でも、他の人間に自分の魔力を渡すことなんて出来ない。それは悪魔だからといって、例外ではないと思うの……。そこで、わたしは一つの仮説を立ててみたの。それは、悪魔は人間の中にある何かを魔力として、それを呼び起こしているんじゃないかってね……」
「……」
「それでお前のさっきの話を聞いて分かったわ。この仮説は正しかった。お前達悪魔は人間の中の悪魔を呼び起こし、その悪魔がわたし達人間に魔力を供給しているんだ。そして、お前達悪魔が人間の魂を欲する理由は、単に食事の為じゃない。魔力の補充か増幅するためなんでしょ?」
「フッフッフ……それが分かって何だと言うんダ? 君ハもう死ぬというのニ……」
私は微かに表情を動かしただけの笑いをした。
「何がオカシイ……?」
「良かった、合ってて」
私は黒い液体を掴む手に力を込めた。
「だってそれって、魔力を供給する悪魔がその人間の魂と繋がっている、若しくはその中にいるってことだよね?」
「ま、まさカ……」
「それなら、魔女だったわたしの魂にこんな魔力の塊のようなものが突っ込んだら、そこに住む悪魔は自分の魔力にしようと引きずり込むんじゃないかって。……そうしたら、お前の存在はどうなるのかな?」
「ヤ、ヤメロ……!」
「人間と悪魔は共存し合う生き物なんだ。けど、強大になり過ぎたお前は、この世界には必要ないんだ」
黒猫とわたしの体が眩しく輝き、視界を真っ白に染め上げた。その瞬間、何かに引っ張られ、吸い込まれるような感覚に襲われた。頭が割れるように痛み、気が狂いそうになるのを抑えた。暫くして周囲が白い煙のようなものに覆われていることに気が付いた。そして、何かに体を掴まれ、路地の奥へと飛ばされた。
痛っ! 一体何が起きたんだ?
煙の外に放り出されたわたしは、現状を把握するのに頭がいっぱいだった。頭を抱える仕草をしようと手を動かすと、違和感に気が付いた。
あれ、なんか上手く動かせない。それに、目線がやけに低いような。
わたしは視線を下げ、自分の手を見た。すると、それは明らかに人間のそれとは異なっていた。人間のものと比べると、それはとても細く、全体が黒い毛で覆われていて、指先から鋭い爪が生えている。そして、この体からは肉が腐ったような死体の臭いがしている。
ま、待って! なんだ、なんだこれは!? どうなっているんだ!?
混乱していると、目の前の煙が晴れ、何やらそこに立つ人影が見えた。金髪に白いシャツ、青いスカートにそれと同じ色のリボンで髪を結っている。
後ろ姿だけでもそれが誰なのか、頭の中では否定したくても出来ない光景が目の前で現実として突き付けられている。
嘘だ! まさか、そんな――。
向こうの通りから、異端審問官とみられる男達が駆け寄ってくるのが見えた。男達はその金髪の少女に近付くや否や銃を向けた。
わたしは腐った脚を引きずりながら、叫ぼうとするが声が出ない。自分の耳に聞こえるのは、猫の鳴き声だけ。
こんなことがあってたまるか! こいつは、こいつは――。
金髪の少女は、にやりと薄気味悪く笑いながら口を開いた。
「やあ、コンニチハ。人間サン……」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
人間は 喜び
人間は 悲しみ
人間は 怒り
人間は 諦め
人間は 驚き
人間は 嫌い
人間は 恐怖し
人間は 憎み
人間は 嫉妬し
人間は 感謝し
人間は 憧れ
人間は 絶望する
人間は 斯くも美しく そして 儚い――。




