24輪目 アムールの魔女Ⅲ
埃っぽい空気が私の心を落ち着かせる。暖かい風が私の思考を鈍らせる。
睡魔によって閉じられていた目を開けると、私の頭は枕にしていた腕の中に埋まっていた。伏せていた顔を上げると、窓から西陽が差していて、部屋全体を赤く染めていた。
「あれ、寝ちゃってた……?」
未だ眠い目を擦っていると、台所から鍋が吹きこぼれる音がした。
「あっ、ちょっ!」
私はすぐさま椅子から立ち上がり、火を消した。安堵のため息を吐いていると、背後から元気の良い可愛らしい声が聞こえた。
「お母さん! 大丈夫?」
振り向くと、包帯を両目に巻いたアンジュが、テーブルに手をついて立っていた。私は慌てて駆け寄り、床に膝をついてアンジュの両肩を掴んだ。
「アンジュ。いつも言っているでしょう? 階段を下りるときはお母さんを呼んでって」
アンジュは口を曲げ、不満そうに言った。
「えぇ、さっき呼んだけど来なかったじゃん!」
「……あっ、そっか。お母さん、寝てたもんね、ごめんね」
アンジュは腕を組み、少し偉そうにした。
「もう! しっかりしてよね?」
「はーい……ごめんなさい」
「はいは伸ばさない!」
「はい……」
「よろしい!」
私はお母さんにでもなったかのような態度をとっているアンジュの脇の下をくすぐった。
「このこのこのぉ!」
「やぁあああ! くすぐったいぃ!」
アンジュは手をばたつかせながら、楽しそうに笑っている。
こんな風に今を過ごせているのは、黒猫が現れたからだ。
あれから目が覚めた時、私達は既にここにいた。この家は黒猫が私達に与えたもので、私の病気も治してくれたようだ。そのお陰なのか仕事も見つかり、鉄屑拾いの生活よりも大分安定している。今ではアンジュもこんなに大きくなり、可愛い笑顔を向けてくれる。
ただ一つ、気掛かりなことがあった。それは、突如発症したアンジュの目の周りの皮膚の剥落だ。始めは自分で強く掻いちゃったのかなと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。顔を洗っただけで皮膚はぽろぽろと剝がれ落ち、剥がれた箇所からは血が滲み出ているのだ。私はそれを防ぐ為にアンジュの両目に包帯を巻いた。もちろん顔を洗わないわけにもいかないので、包帯を取り替える度に濡らしたタオルでアンジュの顔を丁寧に拭いた。
けれど、それも功を奏さずアンジュの顔は日に日に悪化していった。私は少しの貯金を手にアンジュを連れて、医者を訪ねた。しかし、原因は分からず治療法もないという。
その日の夜、アンジュを寝かし付け、二階の部屋を出ると、あの黒猫がそこにいたのだ。
「やあ、随分と災難なことになっているじゃないか」
私は扉の向こうで眠っているアンジュを起こさないように、小声で言った。
「あ、よかった! また来てくれたんですね! 大変なんです! アンジュが……!」
「事情は分かっているよ。アンジュを助けたいんだよね?」
「はいっ!」
「でも、ぼくの力だけではアンジュを治せない」
「私に出来ることなら力になります!」
黒猫の口角が少し上がったように見えた。
「そうだね。けど、君とぼくでは治せないんだ。ただ……その進行を遅らせることは出来る」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。但し、君にやってもらいたい事があるんだ」
「何ですか? 出来ることなら何でもやりますよ!」
黒猫はニタニタと笑みを浮かべ始めた。
「人間を……殺して欲しいんだよね」
「え……」
私は目の前にいる黒猫から目を離すことが出来なかった。
今、なんて言った? この猫は。
黒猫は私から目を逸らすことなく、繰り返し言った。
「あれ、聞こえなかった? 人間を殺して欲しいんだ、君に」
「な、なんで人間を殺さなくてはいけないんですか!?」
「言ったでしょ? 君の願いを叶えるためだよ」
「人間を殺すことと私の願いを叶えること、どう関係するのですか!?」
「……悪魔はね、人間の魂を食らって生きているんだよ。そして、それは力の源にもなる。つまり、君が人間を殺してその魂をぼくが頂くことで、アンジュは少しでも助かるんだ」
「私が……人間を殺す?」
私は自分の震えている両手を見た。頭の中であの屋敷の出来事が、フラッシュバックのように鮮明に思い出された。眩暈に襲われ倒れそうになるも、足を前に出し踏ん張った。
その様子を見ていた黒猫は、いじわるそうな顔をした。
「なに、経験でもあるの?」
「ま、まさか……」
「ふぅん。まあ、いいけどさ」
突然感情を失ったかのように無表情になった黒猫は、階段のそばまで歩き、顔だけをこちらに向けた。
「それで……やるんだよね?」
妙に強制力のあるその目に気圧され、私は頷いた。黒猫は、月灯りによってできた影に入り込むと、その姿を晦ませた。
その次の日から私は人間を殺すようになった。体を使って男を暗がりに誘い、隙を見て殺した。ナイフで首を切ったり、自分の唇に毒を塗って接吻したりとあらゆる手段を使った。昼間は働き、夜はアンジュを寝かしつけた後に人間を殺した。何人も何人も。殺した人間の顔なんて覚えていられないほど殺した。そして、人間を殺す度に、黒猫はアンジュの病気の進行を抑える薬をくれた。今では、それは私にとって日常的なことで、怖くなんてなかった。人間を殺すことに抵抗なんてなかった。だって、私はこの子の母親なのだから。子どもの幸せの為なら、何だってやる。苦しいのは私じゃない。この子なのだから――。
もうすぐ七歳の誕生日を迎えるアンジュは、本当に元気に育ってくれている。病気の進行も黒猫の薬のお陰で抑えられている。アンジュはその薬を苦いと言いつつもしっかりと飲んでくれる。幼いながらも病気に負けないように頑張っているのだろう。あの子は甘えん坊で私を困らせるのが大好きな悪戯っ子だけれど、元気な姿を見られて私は幸せだ。でも、あの子自身はどう思っているのだろう。あの子は幸せなのだろうか。あの子が見せる笑顔は本物なのだろうか。どこかで不満を抱いているのではないだろうか。あの子に問いただそうとした時もあったが、結局出来なかった。あの子に本当の気持ちを聞くのが怖くなったからだ。だから、私はそれらを全て飲み込んだ。あの子の笑顔は幸せだからこそなのだと、そう自分に言い聞かせた。
アンジュの七歳の誕生日の前日の夜、私は一階で椅子に掛けていた。灯りを点けず、雲で見え隠れする満月を眺めていると、部屋の隅の影からあの黒猫がひょっこり現れた。大きく見開かれた目だけが青く光っている。
「やあ。今夜は満月が綺麗だね。まるで心が洗われるようだよ」
「こんばんは。悪魔に心なんてものあるんですか?」
「ひどい言い草だなぁ。もちろんあるさ!いつも君達二人を快く助けているだろう?」
「人間を殺す必要が無ければいいんですけどね」
「それじゃあ契約の意味がないだろう? 君とぼくはお互い気持ち良く生きる為に契約を結んでいるんだから」
「まあ……いいですけど。それで、今日はなんのご用ですか? 今日はもう外に出るつもりはありませんし、薬はこないだまとめて頂いたばかりですよね?」
黒猫はテーブルの上に軽やかに飛び乗り、その場に座った。
「……今日は別の用事で来たんだ」
「別? 一体何ですか?」
黒猫は不敵な笑みを浮かべながら口を開けた。
「……君との契約を終了しようと思うんだ」
「……それって、どういう……」
「フフ、そのままの意味だよ。君は魔女では無くなり、ぼくは君との関わりを絶つ。良かったじゃないか! これでもう、人間を殺さずに済むんだよ?」
「ちょ、ちょっと待って! それじゃあ、薬は? あの子の薬はどうなるんですか?」
尻尾を左右に振っている黒猫は、軽い口調で言った。
「もちろん、薬の供給は無くなるよ?」
「そ、それじゃああの子が苦しむだけじゃないですか! なんで、急に……」
頭を抱える私を御構い無しに黒猫は続けた。
「大丈夫だよ」
「……大丈夫って、何がですか?」
「君の代わりにアンジュが魔女になるからね」
「なっ……何を言ってるですか! あの子が魔女? なんでそんなこと……」
「だって、君の願いはもう叶っているじゃないか」
「え……?」
「君はアンジュが幸せになることを望んだ。そしてぼくは君の病気を治し、住む家と薬を与えた。それでどうなった? 幸せだっただろう? アンジュも君と同じ気持ちだよ。本当に幸せだった。……ほら、君の願い……もう叶っているじゃないか」
私は吸い込まれそうになる黒猫の青い瞳から視線を落とした。黒猫は続けて言った。
「ぼくはね、アンジュの願いを叶えたいんだ」
「アンジュの……願い……?」
顔を上げる黒猫を見ると、にやりと笑う黒猫の瞳を恐ろしく感じた。
「そう。確かにアンジュは君のお陰で幸せだったけれど、それとは別に強い想いがあるんだよ。なんだと思う?」
私は困惑している頭で必死に考えようとするが、本音を聞くのが怖かった私には、アンジュの願いなんてものは想像することも出来なかった。私が言葉を発する前に、黒猫が口を開いた。
「君と笑顔で暮らすこと? 違うな。美味しいご飯を食べること? それも違う。では一体何なのか? それはね……目が見えるようになることだよ」
「目が……見えるようになる……」
「そうだよ! アンジュが魔女になれば、目が見えるようになるんだ! 母親としてもそれは喜ばしいことだろう?」
私は天井を見上げ、二階で眠っているアンジュのことを思い浮かべた。
確かにアンジュの目が見えるようになったら、それは素晴らしいこと。あの子の世界も広がるし、感動している姿が目に浮かんでくる。
私は嬉しそうにはしゃぐアンジュの姿を想像していると、ふとある事を思い出した。
「あの……目が見えるようになったとしても、病気はどうなるんですか?」
「もちろん病気も治せるよ」
「……あれ、でも、前に治すことは出来ないって……」
「君とぼく、ではね。けどアンジュとぼくなら、病気も治せるんだ。……さあ、もう話はお終い! 君には魔女から退いてもらうよ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私が……私がもっと人間を殺しますから! だから! あの子を魔女にするのはやめてください……!」
私は縋り付くように黒猫に頭を下げた。黒猫はそれを払うかのように冷たい声で言った。
「うるさいな。君に出来ることはもうないんだよ! あの子に必要なのは君ではなく、ぼくなんだから」
顔を上げると黒猫と目が合い、青く光る目はじっと私を見据えていた。そして、その目に私の意識が吸い込まれるように目の前が真っ暗になった。
刺すような光が、私の網膜を刺激する。ぼやけた視界は、焦点を合わせるように徐々に鮮明になっていく。
「朝……もしかして、夢……だった?」
私は部屋の中をゆっくりと見渡しながら、黒猫との会話を思い出そうとした。
「あっ! アンジュは!?」
私は慌てて立ち上がり、階段を駆け上った。そして、ノックをする事なくアンジュの部屋に飛び込むようにして入った。
「お、お母さん? どうしたの?」
ベッドに半身を起こしたアンジュが、こちらの方を向いて驚いた顔を見せている。私は拍子抜けしてその場に尻餅をついた。
「はぁ、よかったぁ……。なんともないんだね」
「何が?」
「ううん、何でもない!」
「それよりお母さん。今日は随分と朝がゆっくりだけど、お仕事は大丈夫なの?」
「え?」
壁に掛けてある時計を見ると、仕事に行く時間が既に過ぎていた。
「ああ! もうこんな時間だったの!?」
「どうしたの、お母さん? 今日はなんか変だよ?」
「え、ううん! 大丈夫よ!」
「そう? それよりお母さん! 今日は……」
「もちろん、分かってるわよ!」
私はその場に立ち上がり、座っているアンジュをそっと抱き締めた。
「アンジュ、誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとうね」
アンジュは私の背中に手を回し、ぎゅっと身を寄せてきた。
「ありがとう。わたしもお母さんの子に生まれてこれて幸せだよ」
アンジュの言葉を聞いた瞬間、私の胸が大きく高鳴り、酷く痛んだ。それをアンジュに悟られぬようそっと離れた。
「それじゃあ、夕飯はご馳走にするからね!」
「うんっ! 楽しみにしてる!」
アンジュは嬉しそうに笑っている。私は部屋を出て閉めた扉に背中を預けた。
――幸せ。
アンジュのあの言葉は本当なのか、それとも――。
私の頭の中では、黒猫とアンジュの言葉がぐるぐると巡っていた。
夕焼けが街並みを赤く染め始めた頃、私は夕飯の食材を手に家路についていた。
「ふふ。今日はあの子の大好きなシチュー。喜ぶ顔が目に浮かぶわね」
私は一人で笑みをこぼしながら足を速めた。
あの笑った顔が見たい。あの子の嬉しそうな顔を見るだけで私の心は満たされる。けれど、こんな生活がいつまで続けられるだろうか。次の年も、その次の年も、そのまた次の年もあの子は、私のそばで笑ってくれているだろうか。
あの子の待つ家に帰ってきた私は、まだ真新しい扉を開けた。
「ただいま!」
家の中はいつもと変わらず静かだった。普段ならアンジュが二階から下りてきて、おかえりと言って迎えてくれるのだが、今日は来ないようだ。寝ているのかもしれない。まあ、危ないから一人で下りてきて欲しくはないというのが本音ではある。
荷物をテーブルの上に置き、アンジュの顔を見に行こうと階段に向かった。すると、階段下の床に何やら赤い液体が付いていた。私はその場にしゃがみ、それを近くで眺めた。
「これは……血? どうしてこんなところに……。まさか!?」
私は即座に立ち上がり階段を上がろうとすると、背後から聞こえた声に引き留められた。
「アンジュならもうここにはいないよ?」
振り返ると、憎たらしい笑みを浮かべた黒猫が、尻尾を高々と上げくねらせていた。
「……アンジュに何をしたの?」
「そんな怖い顔しないでよ。怪我ならちゃんと治してあげたからさ。それにぼくは大したことなんてしていないさ。ただ少ーしだけあの子を導いてあげただけさ」
「導いた? どういうこと?」
「あれ? 昨晩言ったよね? アンジュを魔女にするって。ちゃんと聞いてた?」
「ちょ、ちょっと待って!」
私は頭を抱え、昨晩のことを思い出そうとした。
やっぱり夢なんかじゃなかったんだ。アンジュを魔女にする話は本当だったんだ。あの子は人間を殺すなんてこと出来ない。優しい子だもの。魔女になったってあの子が苦しむだけ。そんなことさせるわけにはいかない。
私は両手を前に出し、目の前の黒猫にゆっくりと近付いた。
まだ間に合うかな。こいつを殺せば、アンジュはそんなことしなくて済むのかな。
黒猫に殺意を向ける私の頭に、黒猫の言葉がよぎった。
――あの子に必要なのは君ではなく、ぼくなんだから。
「ふざけるな……」
「……何?」
「あの子を救うのは、お前じゃない! 私だ!」
私は勢いよく黒猫に走り寄り、その首を掴もうとした。すると、黒猫の影は大きく伸び、鞭のように撓った。私はそれに弾き飛ばされ、背中を壁に打ち付けた。
「がはぁ……!」
打った背中の痛みとその衝撃によって呼吸が苦しくなる。その場に蹲った私は、目の前の黒猫を睨みつけた。黒猫はそれに動じることは無く、平然と言った。
「今更何をしても無駄だよ。あの子はもう魔女になったからね」
「ま、まさか。そんな……!」
「本当のことだよ。あの子自身が了承したんだ。願いを叶えたいってね」
「そんな、そんな……」
「気に病む必要は無いさ。あの子はきっと自分の願いを叶えられる。悪魔の見立てを信じてよ。それと、母親なら子どもを信じてあげることくらいしないとね」
「アンジュ……アンジュ……!」
私の目は涙で溢れ、床に零れ落ちた。その場から立ち去ろうとしていた黒猫は何かを言い忘れていたのか、こちらを振り返った。
「あ、そういえば、君に出来ること、一つだけあるよ」
「え……?」
涙を拭い前を向くと、開いていた窓から黒いカラスが一羽飛んできて、椅子の背もたれに留まった。黒猫は不敵な笑みを浮かべている。
「あの子が飲んでいた薬ね、このカラスから買っていたんだ。もちろん人間の魂と引き換えにね。それで君が出来ることっていうのはね、君がカラスと契約して、あの子に薬を届けるってことなんだ」
「私が薬を……?」
「まあ、届けるのはカラスなんだけどね。君が人間を殺し続けることで、あの子は少しでも長く生きられる。これが唯一、君があの子の為に出来ることだよ」
そう言い残した黒猫は、影の中に消えていった。椅子に留まっていたカラスが私の目の前に降りてきた。
「おい、お前。俺と契約するか?」
私は迷うことなく答えた。
「当たり前でしょ! あんたと契約してあの子を救う!」
「……それで、お前の願いは?」
「私の願いは、あの子の願いと同じよ! アンジュの目が見えるようになること!」
「おいおい、薬じゃないのかよ?」
「もちろん薬もいただくわ! けど、一番の願いはあの子の望みだもの! どっちも譲れないわ!」
カラスはやれやれといった顔で、翼をばたつかせた。
「まあ、いいだろう。その代り、魂もそれなりに頂くぜ?」
「構わないわ! 何人だろうと食べさせてあげる」
息巻いている私を見たカラスは、うっすらと笑った。
「カッカッカ! 楽しみにしてるぜ? ……そうだ! お前、名前は?」
「私? 私は、メル」
「そうか。メル、宜しく頼むぜ?」
カラスは黒い翼を広げると、それは大きく私の体を包み、飲み込んだ。
待っててね、アンジュ。お母さんが助けてあげるから――。




