23輪目 アムールの魔女Ⅱ
山のように積まれたゴミに集る蝿。
そこから鼻が曲がるような異臭を放っている。
布を巻いただけの様な服を着た私は、売れそうなものがないかゴミを漁っていた。ここのゴミ集積場は都市部から運ばれて来たゴミを捨てている。そのため、ここ貧民街ではそのゴミが多少お金になる。
陽が傾き始め、私はその場を後にした。今日の収穫は螺子が四つに錆び付いた鉄屑が一つ。もちろん、大した金にはならないが、ここでの生活資金としてはやりくりすれば二日は暮らせる。
私はそれらを換金した後、あの屋敷とは比べ物にならないほど小さな家に帰った。家と言っても、木の棒でできた骨組みに布を被せたテントのようなものである。
私は握り締めていたお金を寝床のそばに置き、横になった。すると、疲れが溜まっていたのかすぐに眠りに落ちた。
火にかけられている鍋。
半分に切られた野菜。
出しっ放しの水。
私は台所に一人で立っていた。ふと、下を向いてみると、綺麗に編まれたセーターにエプロンを掛けている。私は目の前の水道から出ている水を止めると、後ろから声を掛けられた。
『お母さん!』
その声の方に振り返ると、椅子に座っている女の子が、私に向かって手を伸ばしている。私はその光景に微笑んだ。しかし、様子がおかしい。私はその女の子に問い掛けた。
「ねぇ……あなたは今笑っているの? それとも泣いているの?」
こちらに顔を向ける女の子の表情は、何故かぼやけている。その女の子は変わらず私に手を伸ばし続けている。私はその手を掴もうと、近付いた。私の手が女の子の手をとろうとした瞬間――。
目を開けると、辺りは真っ暗ですっかり夜になってしまったようだ。私は上半身を起こし、先程の光景を思い出した。
「夢……か」
顔に手を当てると、濡れた様な感触がした。
「え?」
掌を見ると、月灯りに照らされて光る水のようなものが付いていた。
「泣いていたのか……」
私はお腹にそっと手を当てた。
私には――子どもがいない。もしいたら、きっと先程の夢のような幸せな時間を過ごせていたかもしれない。いや、あんな綺麗な家には住む事は出来ないだろう。たとえ、住めなくても、子どもと一緒に暮らせたらどれだけ幸せだっただろうか。しかし、今の私にはそれを想像するだけで心が痛む。
あの日、屋敷から逃げた私は、森を抜け、ここ郊外にある貧民街に辿り着いた。私はすぐに医者にかかろうとしたが、お金なんてものは持っているはずもなかった。
だから、私は――体を売った。この子の為なら何でもする。この子にとっては少し痛いかもしれないけれど、無事に産むにはそれしか方法がなかった。
しかし、私は絶望した。なぜなら、お腹の子どもは死んでいたのだ。原因は腹部の過剰なまでの殴打によるものだった。屋敷から逃げ出したあの日、すでにこの子は死んでいた。生きることが困難な外の世界に、私は何の為に逃げ出したのか。
私は発狂した。そして、この狂った感情をぶつけた先は――男だった。
ひたすらに求め続けた。すると、貧民街の腐った男達と交わってきたことで、私の体からは病気の臭いを発していた。その代わり、ひと月は暮らせるほどの金が私の元にはあった。しかし、私はそれを全て使った。食事に、酒、今までまともに食べることのできなかったものを沢山食べた。けれど、お腹は満たされても、どこか惨めな気持ちになった。病気が身体を蝕み、子どもの産めなくなった体を持つ私は、一体何の為にここにいるのか。私には何もかもが、分からなくなってしまった。
私は寝床から這い出て、そばにある鍋の中を覗き込んだ。そこには、ゴミの山から取ってきた魚の骨をダシに作ったスープが入っている。私はおたまで掬い、それを一口飲んだ。それは、複雑な味と酸っぱい匂いの中に微かな魚の風味のするスープだった。私はその後すぐに床に就いた。
また、あの夢が見たい――。
そう願いながら、私はゆっくりと目を閉じた。
今にも倒れそうになっている骨組み。
シミのついた天井代わりの布。
陽の光は朝であることを告げるように、布の隙間から私目掛けて射し込んでくる。私は目を開け、半身を起こした。すると、気付いた事がある。今日はなんだか体が軽いのだ。しかも、いつになく目覚めが良く、時間も早い。
今日は少し遠くまで行ってみようかな。
私はいつも通り集積場に向かい、ゴミの山を登った。遠くの方を見渡すとゴミが地平線まで続いているかのように広がっている。それを眺めていると、前方から何かが聞こえてきた。
声、だろうか。
私は足場の悪いゴミの山を飛ぶようにして聞こえる声を辿った。それが近くなってくると、その正体がようやく分かった。
それは――赤ん坊だ。
私は泣き声が発せられる場所を探した。近くのはずだが、見当たらない。私は辺りを見渡し、ふと足元にある木組みの箱に目が行った。恐る恐るそれを開けてみると、白い肌着を着た赤ん坊が泣いていた。手足は小さく、頭には薄っすらと赤毛が生えている。
「か、かわいい……」
透き通るような白い肌のした頬を指で突くと、それは驚くほど柔らかく弾力があった。
「おお……!」
私は赤ん坊の両脇の下に手を滑り込ませ、持ち上げた。すると、赤ん坊はより大きな声で泣き叫んだ。
「えっ、ええっ!? ど、どうしたらいいの? えっと……こ、こんな感じかな?」
左肘の辺りに赤ん坊の頭をのせ、右手でその背中を支えた。すると、赤ん坊は泣き止み、笑い出した。私は安堵のため息を漏らした。
「よかったぁ……」
私は笑っている赤ん坊をまじまじと眺めた。小さな瞳は透き通った青色をしていて、見ていると吸い込まれそうになる。
「綺麗……」
私はふと周りを見渡すと、人のいる様子は無かった。
「捨て子……なの、君?」
視線を戻すと、赤ん坊は無邪気に笑ったままだ。
「君も、私と同じで……独りなの?」
赤ん坊は何かを求めるように、空に向かって両手を挙げ、それを掴もうとしている。私にはそれが何となく自分のことのように見えた。
「そっか。なら私の所に来る? 美味しい食事も立派な家も無いけれど……それでもいいなら……」
赤ん坊はそれに応えるように、私の服を掴んだ。それが、私には自分が望まれているように思えた。私は赤ん坊を空高く上げた。
「よし! 今から君は私の子どもだ! そうだね、名前は……アンジュ。アンジュでどうかな? これはね、天使っていう意味なんだよ。私にとって君は、天から召された恵みの子ども。私には君が幸福を齎してくれる天使のように見えたんだ。その代わり、君も幸福でいっぱいになれるように、私ももう一度……頑張ってみるよ。よろしくね、アンジュ」
アンジュは元気良く手足をばたつかせ、愛嬌良く笑った。
アンジュは本当に元気が良かった。何にでも興味を示し、やたらと動き回るのだ。その度に何かにぶつかり、怪我をするような子どもだった。
しかし、育て始めて数ヶ月が経った頃だろうか。私はある違和感を感じていた。
それは――この子は目が見えていないのではないか?
そう思うようになったのは、数日前にアンジュがどこか天井の隅を見ていた時のことだ。私はアンジュにこっちに来るよう呼び掛けた。けれど、アンジュはこっちの方を見て四つん這いで近付いては来るものの、目が合うことがないのだ。目の前で手を振っても反応は無く、ただ目がどこか泳いでいる。
心配になった私は、数日間ゴミ山で鉄屑を集めた。そして、それを換金して得られた金と家に置いていた全財産を持って医者の元へ向かった。しかし、私の見て呉れはさぞ汚らしかったのだろう。こんな病気臭い女の子どもなんて診てくれるはずもなかった。
どうすればいいのだろう。このままでは、この子は世界の一片も見る事なく死んでしまうのだろうか。今あるこの子の笑顔は、いずれ消えてしまうのだろうか。
私には何も出来ない。無力で、ちっぽけで、あやす事しか出来ない私は、この子の為に何をしてやれるだろう。この子は独りでは生きていけないのに、私は何もしてやれないのだろうか。
私の中に渦巻く感情は次第に膨れ上がり、やがて私に幻覚を見せ始めた。
「やあ、こんばんは」
アンジュを寝かし付けた私の背後に、言葉を話す黒猫が現れたのだ。
「あなた……が喋っているの?」
黒猫は口角を上げて笑った。
「もちろん! ぼくと君以外にここにはいないでしょ? あ、アンジュちゃんは違うよ? まだ赤ん坊だから、喋れるはずないからね」
「いや、あなたも猫なんだから喋れないはずでしょ?」
「ははは! それもそうだね!」
雲に隠れていた月が顔を出し、月灯りが黒猫を背後から照らした。
「……でも、それは、ぼくが猫だったらの話だよね?」
「……まるで自分が猫ではないみたいに聞こえるんだけど」
「そう言ったつもりだけど?」
闇の中で光るその目は、とても威圧的で不気味に感じられた。私は身の毛もよだつ雰囲気を壊そうと、頭を振った。
「これは、私が作り上げた妄想だ! 幻覚だ! ……そうだ、夢なんだきっと!夢なら早く覚めて、お願い……!」
私は祈るように目を強く瞑った。しかし、それを無駄だと言わんばかりに黒猫の呆れた声が聞こえてきた。
「心外だなぁ。これは現実だよ。疲れ果てて幻覚を見ているわけでも、君の妄想が作り出したわけでもない。ぼくは、ちゃぁんとここに実在しているよ」
ゆっくりと目を開け、そのぼやけた視界でも黒猫の姿はしっかりと捉えていた。
「そうみたいね……」
「よかったぁ。やっと信じてくれたんだね!」
「……それで、あなた、黒猫じゃなかったら一体何なの?」
黒猫は待ち望んでいたかのようににやけ顏で言った。
「ぼくはね……悪魔なんだよ」
「……あ、くま?」
「そう、悪魔! ぼくなら君の望みを何でも叶えてあげられるよ」
「な、何でも……?」
黒猫はにやけた顔のまま目を細めた。
「そう、何でも……。例えば……アンジュちゃんの笑顔を絶やすことのない生活を求めてくれても、ぼくはそれも叶えるよ」
「えっ!? ほ、本当に?」
止まっていたように静かだった私の心臓の鼓動が、破裂しそうなくらい大きく打ち付けた。そんな私とは反対に、黒猫は落ち着いていた。
「うん、本当だよ。……それで、どうする? その子の幸せを願うのか、それともこのままの生活を望むのか」
私は眠っているアンジュの頭をそっと撫でた。
裕福な生活なんて望まない。この子が幸せになれるのなら、私はどうなっても構わない。そこに縋れるものがあるのなら、私は迷うことなくそれに縋る。
私はこちらを見据えている黒猫を真っ直ぐに見返した。
「この子が笑顔いっぱいで生きていけるようにしてほしい……!」
黒猫は不敵な笑みを浮かべた。
「確かに聞き届けたよ……」
黒猫の体からゆらゆらと出てきた黒い影のようなものが、私とアンジュの体を一瞬で飲み込んだ。そこは、何も見ることは出来ず、意識が徐々に何かに吸い取られそうになる感覚があった。私の意識が遠退く寸前、黒猫の声が微かに耳に届いた。
「願いを叶える魂は一つだけ……さあ、準備はいいかい……?」




