22輪目 アムールの魔女Ⅰ
私の足元には砕けた花瓶の破片と生けられていた花が無惨に散らばっていて、赤い絨毯は水で湿っている。
「またやっちゃった……」
その場にしゃがみ破片を見ると、鋭く尖った先が睨む様にして私の方に向いている。それらを拾い始めると、先程屋敷内に響いた花瓶の割れる音を聞きつけた白髪混じりの執事が、怒りで目をギラギラと光らせながら早足で近付いて来た。私は思わず立ち上がった。
ああ、今日こそ殺される気がする。
執事は唾を飛ばしながら放つ怒号は屋敷全体に届きそうなほどに大きかった。
「貴様ぁ! まぁた割りおってぇ! これで何度目だと思ってる!?」
「え、えーと……三回目、ですか?」
「四回目じゃ! 四回目!」
執事の怒鳴り声に思わず目を瞑った。恐る恐る目を開くと、髭を撫でるように触る執事が、穏やかな口調で言った。
「普通なら一回で処罰するものだが。どうやら、領主様が貴様を大層お気に召しておられるようだからな。私の独断で処罰するわけにもいかん」
執事は髭をさする手を止めると、目をカッと見開いて言った。
「しかし! 次割りおったら、領主様に貴様の処罰を進言しよう。もう後がないと思うが良い!」
「は、はい……」
執事は怒りを露わにしたままその場をあとにした。
「はぁ……」
私は力無くその場にへたり込んだ。
私が領主様の屋敷で働くようになってからそれなりに日は経っているのだが、仕事には未だに慣れない。何かをすると、その都度執事が怒鳴り声を上げてくる。いつ殺されてもおかしくない。いや、本当なら既に死んでいた命だった。職を転々とし、行き場を無くした私に領主様は救いの手を差し伸べてくれた。召使いとして私に居場所を作って下さった。
あの方の為なら私は何でもする。右手を挙げろと言われれば、右手を挙げる。足を舐めろと言われれば、足を舐める。大衆の面前で裸になれと言われれば、喜んでそうするだろう。
私は自分のまだあまり大きくないお腹を優しく撫でて、微笑んだ。
「あなたとあなたのお父さんの為なら、私は何でもするからね」
私は再び床に散らばっている花瓶の破片を拾い始めた。
その日の夜、私は領主様の部屋に招かれた。領主様には奥様がおられるから、もちろんこれは密会ということになる。けれど、今回が初めてというわけではない。今までにも何度も呼ばれ、肌を重ね合わせてきた。
私は天蓋付きベッドの上で領主様の懐に身を埋めていた。領主様は私の頭を優しく撫でながら、語りかけてくる。
「今日も執事に怒られたんだって? 大丈夫かい?」
「私は大丈夫です! ただ……領主様の大事になされていた花瓶を……」
「いいや、構わないよ。私は君さえ無事ならそれでいい」
「……はい!」
領主様はいつも優しい。私を気遣ってくれるし、身分の低い私の話を飽きる事なく聞いてくれる。
私は自分のお腹に触れた。
この子の事を話したら、領主様は喜んでくれるかしら?
私は領主様の顔を見上げた。私の視線に気が付いた領主様は、微笑んで言った。
「どうしたんだい?」
「領主様、あの……お話ししたい事が、あります……」
「ん? なにかな、言ってみなさい」
私は生唾を飲み込んだ。
「実は……子どもが出来たみたいなんです!」
「……子ども?」
「はい! お医者さんに診て頂かないとはっきりとは分からないですけど……って言っても診て頂ける身分ではないんですけれど。それでも、この中に子どもがいるっていうのは、私には分かるんです!」
「……」
「この子は私と領主様の子どもです。私、とっても幸せです! 領主様の子どもが身籠れて……領主様?」
「……」
自分の話しに夢中になっていた私は、領主様の顔に視線を戻した。しかし、そこには先程の優しい笑顔とは違い、腐ったゴミに集る蝿を見るような目で私を見る領主様の姿があった。
「……せねぇよ……」
「はい?」
「産ませねぇよ、そんな子ども!」
「……え?」
言葉の意味がすぐに理解出来なかった私は、上半身を起こした領主様にベッドの上からはねのけられた。床に転がり落ちた私は、一体何が起きたのか分からず、頭の中が酷く混乱していた。ベッドから降りた領主様は、私の黒髪を掴み引っ張り上げると、私のお腹を拳で殴りつけた。
「うぐぅ……!」
痛みでその場に蹲る私に、領主様は容赦無くお腹に何度も蹴りを入れる。
「おらぁ! 子どもなんて産ませる訳ねぇだろ!」
「や……やめてっ……ください」
「私は私の為にお前を利用していただけだ! お前との子どもになんて興味もないし、存在することも許さない!」
「いやぁ……やめてください……!」
お腹を覆っている両手に走る痛みが、身を焼き切るような感覚になるほど私の両手は、限界を迎えていた。すると、領主様に手を無理矢理引っ張られ、私は部屋の外に投げ出された。
「きゃああああ!」
投げ飛ばされた勢いで廊下の壁に肩を打ち、痛みが生じる。扉の方に視線を移すと、領主様が冷たい視線を私に向けていた。
「もうお前に興味はない。失せろ!」
そう言うと、領主様は扉を勢いよく閉めた。廊下の端で蹲るわたしの体は恐怖で震え、至る所に打撲の痕が付いていた。目からは涙が溢れ出し、気が付くと私は走っていた。その場から逃げるように必死で走り、その振動で体中に痛みが走る。廊下を照らす月灯りは、まるで私を逃がさないとでもいうように照らし続けている。
屋敷から離れた別棟にある自室に駆け込んだ私は、小汚いシーツのベッドに潜った。シーツは私の涙で濡れ、肌は寒さで冷たくなっている。この日、私は一睡もすることが出来なかった。
翌日。私は屋敷の大広間を他の召使い数人と掃除をしていた。周りの召使い達は私の顔に出来た痣を見て、コソコソと何かを話している。
元々楽しくおしゃべりするような仲でもないし、私には何を思われようとどうでもよかった。ただ、領主様に見放された、それだけが私の心にぽっかりと穴を開けた。
私がモップで床を拭いていると、急に周りの召使い達の話し声が止んだ。私は不思議に思い、顔を上げると、目の前に昨夜私を蔑んだ目で見た時と同じ目をした領主様が立っていた。私は思わず、あっと声を上げ、手に持っていたモップを床に落とした。すると、領主様はさらに険悪な表情になり、私の頬を叩いた。私は叩かれた勢いと恐怖で後ろに倒れた。
「うっ……!」
「なあ、何でお前まだここにいんの?」
「え……」
「え、じゃねぇよ!」
領主様は私の左足首を踏み付けた。
「いっがぁ……!」
「お前、本当に頭悪いのな。普通あれだけされたら逃げ出すものかと思ったけど」
領主様は手を頭に当てて、わざとらしく惚けた。
「ああ、そうか! 逃げ出そうにも逃げ出せないのか! ここから逃げてもお前が生きていける所なんてないものな! 衣食住全て私が与えてやっているのだからな!」
「ぐふっ……!」
お腹に蹴りを入れられた私は、その場に俯せに蹲る。そして、お腹の子どもを守るように両手で覆った。領主様は高笑いしながら、私のお腹を集中して蹴り続ける。
「全く、どうして召使いとやらはこうも醜いのだろうな」
「や、やめてください……」
「領主様。業務に差し支えます。これ以上は……」
領主様の背後から執事が声を掛けた。領主様は振り上げていた脚をゆっくりと下ろした。
「ふむ、そうか」
領主様は私を見下しながら、冷たい声で言った。
「泣いて逃げ回れば、槍で一突きしてやったものを。つまらんな」
領主様は踵を返し、執事と共に大広間から出て行った。周りの召使いは再びひそひそと話し始めた。もちろん心配そうにしている者はいないし、声を掛けてくる者など尚の事ない。もししたら、私と同じ扱いを受ける事になるかもしれないからだ。厄介事は避ける、見て見ぬ振りをする、それがここでは暗黙の了解であり、生きていくには絶対だ。
私は零れ落ちそうな涙を堪えながらモップを拾い上げ、床を拭き始めた。
その後も私に対する領主様の罵倒と暴力は止むことはなく、むしろ酷くなる一方だった。
そして遂に、私の身体は悲鳴を上げ始めた。体全体を打撲の痕が埋め尽くし、口の中は傷だらけで、奥歯は何本か折れている。さらに、左足首が腫れ上がり痛みを伴っている。全身の痛みはじわじわと私の心に刻み込む。
私にはもう、ここに居場所がないのだと――。
けれど、ここから逃げ出したとして、果たして私は生きていけるだろうか。職も無く、路頭に迷っていた私に、生きる術はあるのだろうか。
私はカビっぽいベッドの中で、お腹にそっと手を触れた。
私ならここで我慢できる。けれど、この子は? どうやって生きていくの? ここにいたら絶対殺されるに決まってる。それに、この子には外の世界で生きて欲しい。こんな薄暗い所ではなく、青い空の下で。
――だとしたら、やる事は一つしかない。
私は自室を抜け出し、屋敷へと向かった。
灯りの消えた廊下を音を立てないようにゆっくりと歩いて行く。
屋敷のあるこの敷地内は高い塀で囲われている。とてもじゃないが、人が登るには高すぎる。門は警備が付いていて、倒せるほど私には力が無い。しかし、唯一ここから抜け出せる方法がある。それは、給水タンクのそばにある裏口だ。そこは、警備されていなくて、人気もないので、抜け出すには丁度いい。けれど、内側からも鍵が必要になっていて、そう簡単には逃げられないようになっている。鍵さえあれば、逃げ出すのは簡単なのだ。そして、その鍵の在り処を私は知っている。
私は金色の取っ手が付いた扉の前で立ち止まった。
ここは、執務室だ。領主様が書類整理など基本的にはここで仕事を行っている。
私は取っ手に手を掛け、そっと扉を開いた。扉の隙間から覗くと、室内は暗く、誰もいないようだ。私は体をスルリと部屋の中に滑り込ませ、扉をゆっくりと閉めた。
私はここに一度入ったことがある。領主様に連れて来られ、部屋の中で紅茶を頂いたのを覚えている。その時に色々と見せてもらった中に裏口の鍵があったのだ。
私は窓際にある机の引き出しを探り始めた。確かここから出していたはずだ。
しかし、そこには書類しか入っていなかった。書類の間に挟まっているのではないかと思い、探してはみるもののやはり無かった。
「あれ、確かここだったはず……」
「探しものはこれかな?」
声のした方を向くと、開け放たれた扉の前で領主様が鍵を突き出していた。月灯りに照らされた顔には、まるで悪魔が嘲笑っているかのように卑しい表情が浮かべられている。
「どうしてここにって顔をしているな。教えてやろうか?」
領主様は鍵を上着の内ポケットにしまった後、ライターで手に持つ燭台に火を点けた。部屋の中は明るく照らされ、火が小さく揺れ動く。
「お前に裏口の鍵を見せた事。あれは、意図的にそうしたのさ」
「……え?」
「召使いなんていつ、どこから逃げ出そうとするか分からないからな。裏口の鍵を一度見せる事で、逃げる手段に使おうとするだろう? そして、案の定お前はここにやって来た」
私は唇を強く噛んだ。
「いい顔だなぁ。そういう顔、嫌いじゃない」
領主様は不敵な笑みを浮かべながら、懐から銃を取り出し、銃口を私に向けた。
「くっくっくっ! もっと私好みの表情に仕立ててやろう」
領主様は銃の引き金に指を掛けた。
「いい声で啼いてくれよ?」
私は咄嗟に机の上にある電気スタンドを領主様目掛けて投げた。
「こんのっ!」
領主様は怯みながらも、その引き金を引いた。
「くっ!」
屋敷全体に乾燥した空気を切り裂くような鋭い音が響いた。放たれた銃弾は電気スタンドの傘を砕き、ガラスの窓を撃ち抜いた。私はすぐさま領主様に走り寄った。
「このぉぉおおお!」
「くそぉ!」
領主様が慌てた様子で放った銃弾は、私の脇腹と右脚を掠めた。私は構う事なく、領主様に体当たりした。領主様は勢いよく背中から床に倒れ、それに被さるように私も倒れた。領主様の手に握られていた銃は、すぐそばに落ちた。私はそれを手に取り、領主様の顎に突き付けた。領主様はひっと今までに聞いた事もない情けない声を上げ、怯え始めた。
「ま、待ってくれ! 悪かった! 今までしてきた仕打ちの全てを詫びよう! そ、それだけじゃない! お前の身分を召使いから上げてやる! それでどうだ!?」
私は構えている銃をさらに強く握り、引き金に指を掛けた。
「ちょ、ま、待ってくれ! 頼む! ……そ、そうだ! あいつとは別れて、お前を妻に娶ってやる! どうだ!? 悪い話じゃないだろう?」
領主様は冷や汗を額に滲ませ、笑顔のつもりなのか顔は引きつっている。そして、その口は止まることなく、次から次へと言葉を発する。
「だって、お前……私のことを好いているのだろう? なら喜べ! 私の妻になる事を約束してやるんだぞ!? だから……!」
私は突き付けている銃をさらに強く押し付けて言った。
「私を……」
「へ……?」
「母親を舐めるなっ! こんのぉ屑野郎っ!」
私は大声で叫ぶと同時に、銃の引き金を引いた。銃声は私の耳に突き刺さり、肩が外れそうになるほどの力が私を後ろに仰け反らした。態勢を立て直し前を見ると、顎から脳天を撃ち抜かれ横たわっている領主様がいた。頭からは大量の血が流れ、何か恐ろしいものでも見ていたかのような表情をしている。
緊張が途切れたせいなのか、一気に顔から汗が噴き出る。
「はあ……はあ……」
銃が力の抜けた私の手からすり抜け、床に落ちた。私は震える手で領主様の上着から裏口の鍵を抜き取った。
「これで……出られるのね」
すると、なんだか焦げ臭い匂いが漂っていることに気が付いた。
「げほっげほっ、何?」
振り返ると、床に落ちていた書類に先程領主様が持っていた燭台の火が移っていた。火はあっという間に床から机、そして棚にある本まで燃やし始めた。
「ま、まずい!」
私は燃え盛る部屋から廊下に出ると、どこからか近付いて来る声が聞こえてきた。
「今の銃声は何だ!?」
「どこからした?」
「領主様が見当たりません!」
私は声のする方とは逆方向に走り階段へ向かうと、下から上がってくる複数人の声が聞こえた。私は階段前を通り過ぎ、そばにある窓を開け、下を覗いた。
「行くしか、ないよね……」
私は二階の窓から地上の花壇に飛び降りた。着地直後、痛めていた左足首に激痛が走った。
「痛っ! ……けど、この子のためならこれくらいっ!」
私はすぐに立ち上がり、裏口へと向かった。幸いにも誰とも会う事なく裏口に辿り着いた。恐らく、執務室に集まっているのだろう。
私は震える手を押さえ付けながら、裏口の扉の鍵を開けた。取っ手を回すとすんなりと開き、緑生い茂る森が広がっていた。振り返ると、屋敷の中央辺りから火の手が上がり、凄まじい勢いで屋敷全体に広がろうとしている。もくもくと上がる黒い煙は、満天に輝く星々を覆っている。
前に向き直り、お腹に手を当てて囁いた。
「これからはこの子の母親として生きていくんだ」
私は痛む脚を引き摺りながら、森の中に足を踏み入れた。




