21輪目 齟齬
人間は 何かを失い 何かを得ている
時間と体力を 使い働くことで 金を得る
金を 払う事で 食料を得る
光を 失う事で 絶望を味わい
四肢を繋ぐ鎖を 断ち切れば 自由を得る
ならば問おう
大切な人を失う事で 人間は 何を得るのだろうか
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
わたしは震える手をお母さんの方に伸ばして、ゆっくりと近付いた。手から滴り落ちる血は、床を赤く彩った。
お母さんは気味悪そうにわたしを見下している。
「お母さん。わたしだよ。アンジュだよ? あなたの娘の……」
「何を言ってるの?」
「そうだよね。分からないよね。だってこれ、わたしの体じゃないものね……」
「言っている意味が分からないわ。あなたは私の娘じゃない」
お母さんは鋭い眼光でわたしを見た後、何か考え付いたような顔をした。
「そうか! 分かったわ! お前は私に取り繕ってこの場から逃げようとしている、そうだろう?」
「そんなことしないよ。顔体は違うけど、中身はわたしなの! 信じて、お母さん!」
「その醜い声で私をお母さんと呼ぶな!」
お母さんの怒声にわたしの体はビクッと動きその場で止まったが、すぐにまたお母さんの方に歩き出した。
「お母さん、覚えてる? 窓の外に鳥の巣があって、雛の鳴き声が合唱みたいだねって話したよね?」
「……」
「お母さんに髪を結ってもらった時、わたしの髪を触るお母さんの手が気持ち良くて、じっとしないわたしを優しく叱ってくれたよね?」
「……」
「具の少ない粥でも、お母さんと一緒に食べれば、なんでも美味しかった。だってわたしは……」
両手を大きく広げたわたしは、お母さんに抱き付いた。
「わたしは……お母さんが大好きだから……!」
ドスッ。
体に衝撃が走った。足に力が入らない。手足が震え、お腹の辺りに違和感がある。
何が起きたのだろうか。
理解するにはあまりにも一瞬のことで、わたしの頭は追い付かない。顔を上げると、お母さんがニタリと笑っている。わたしも笑おうとするが、歪ませることしか出来ない。すると、突然お腹の底から込み上げてきた痛みが、わたしの体を沈めていった。その場に膝立ちになるわたしは、自分のお腹に刺さっている包丁に気が付いた。
「なに……これ……?」
出した声は掠れていて、痛みで気が遠くなりそうだ。白いシャツはお腹の辺りから下が赤く染まり、床には滴り落ちる血がポタポタと音を立てている。
すると、お母さんの呆れたような声が聞こえてきた。
「いきなりで驚いたけど、私はそんなものに騙されないわよ。お前は私の子なんかじゃ……」
――何が起きたのだろう。
急に音が止んだ。自分の鼓動の音も滴る血の音も目の前で何かを叫んでいるお母さんの声も。
視界に広がる風景は色を失ったように白と黒で彩られ、まるで時が止まったかのような。そんな感覚になってしまうほどに静かだった。
血に染まった手の震えは治り、混乱していた思考は、今では非常に冴えている。
喜び、怒り、哀しみ。何一つ感じる事無く、わたしの心の中は波一つ立たない凪のような状態になっていた。
そんな状態の中で、わたしの中に一つの意思が芽生えた。
この女を殺したい――。
それは、わたしにとって怒りでもなく、憎しみでもない。ただの殺戮衝動だった。この体、いや、この魂に深く刻み付けられた本能に近いものが、わたしの中の全てを支配した。
――瞬きをした。目を閉じ、開く。そんな一瞬といえる時間で目の前の光景は一変していた。
徐々にわたしの目に色が戻り、音が近付いてきた。目線を落とすとわたしの足元にお母さんが転がっていた。そのお腹からは血が滲み出て、顔には複数回刺した跡が付いていた。その証拠に、先程までわたしのお腹に刺さっていた包丁が、お母さんの顔に突き刺さっていた。顔は原形を留めてはおらず、血が噴き出た跡が床や壁、天井にまで付いている。
わたしの頬は熱を帯びているように熱い。もしかしたら返り血が付いているのかもしれない。
その場に立ち竦んでいたわたしは、お母さんの顔を覗き込むようにしてしゃがんだ。
「もう、あなたがいけないのよ? わたしを殺そうとしたから。わたしを信じてくれないから。わたしを愛してくれなかったから」
冷たくなったお母さんの頬にそっと触れた。
「あの日、わたしを見捨てたお母さんが許せなかった。お母さんにとってわたしという存在は何だろうって考えてきた。もしかしたら悪魔がついた嘘なのかもしれない、そういう風に考えたりもした。……けどね、わたし、今日お母さんに再会して分かったよ……」
わたしは横たわるお母さんの上半身に抱きつくようにして覆い被り、目を閉じた。
「わたしに……お母さんはもう……必要ない。わたしを殺そうとするお母さんは、わたしにとって邪魔なだけ。だって、わたしには帰る場所が出来たから。あなたのところじゃない、また別の……」
瞼の裏には孤児院の皆が笑いながらわたしを呼んでいる。
わたしは閉じていた目を開き、その場に立ち上がった。眼前に転がっているお母さんを見下ろしながら言った。
「さようなら……」
わたしは椅子の下に落ちていた銀色のナイフを拾い上げ、血の匂いが充満したこの家を後にした。
外に出ると、どこからか数人の怒声が聞こえてくる。まだわたしを捜しているようだ。
おぼつかない足取りで路地を歩くわたしの姿は、周りからは一体どのように見えるだろうか。腹部からは血を垂れ流し、赤く染まったシャツはわたしの皮膚に張り付いている。手には銀色のナイフを持ち、霞む目はおそらく少ししか開いていないだろう。しかし、幸いな事に周りには人っ子一人おらず、わたしは路地の奥へ奥へと歩いて行った。
煉瓦の家の角を曲がるとそこは行き止まりで、薄暗くじめじめとした場所だった。常に鈍器でお腹を叩かれているような激痛は、わたしの意識を遠のかせようとしている。ぼやけた視界ともう歩くことを放棄した足は、わたしに死の恐怖を植え付けようとしている。
「言うこと聞いてよ、わたしの体……」
発した声はか細く掠れていて、わたしの心を弱気にさせる。わたしは壁に寄り掛かり、その場に腰を下ろした。乱れた呼吸を整えるようにわたしは深呼吸をするが、お腹の痛みがそれを邪魔する。
ああ、苦しい。ここで、死ぬのだろうか。
すると突然、背中が凍り付くような寒気がするのと同時に、どこか懐かしい気配を感じた。
「久しぶりだね、アンジュ」
この生意気な口振りで、まるで感情を持っていないかのような声は――。
「あら、どうしてこんなところにいるのかしら? 黒猫」
足音もなく現れた黒猫はニタニタと笑みを浮かべながら、わたしに歩み寄ってきた。
「君のことが気になってね」
「あの子はどうしたの? わたしの代わりに魔女になったでしょ? あの子のそばにいなくていいの?」
「あー、あの子は死んだよ。君が出て行った後、すぐにね」
「そう、良かったわ。もしあのまま生きていたら、わたしに復讐しようとするものね」
黒猫は未だに気味の悪い笑顔をわたしに向けている。
「そんなことよりさ、どうなの?」
「どうって何が?」
わたしの目の前で立ち止まった黒猫は、いつにも増して冷たい声で言った。
「……その手でお母さんを殺した気分だよ。ぼくにはそういうの分からないからさ」
「随分と悪趣味なのね」
「長年共に過ごしてきた仲だろう? 何を今更……。それで、どうだった? 憎しみは晴れた? 気持ち良かった? 唯一の肉親を自分の手で殺して後悔してる? ねぇ、どうなのさ?」
「……今の気分はその饒舌な舌を引き抜いてやりたい気分なんだけどね」
「恐いこと言わないでよぉ!」
「……わたしは、後悔なんてしてないわ。お母さんを殺したこと……」
「へぇ……」
「七歳まで育ててくれたことには感謝してる。けど、魔女になってからは、お母さんの手を借りなくてもここまで生きてこられた。これからだって、きっとそう……」
「そうかい……。ところで、アンジュ」
「なに?」
突如、黒猫とわたしの間に赤い本がどこからともなく現れた。
どこかで見覚えのある本だ。これは、確か――。
すると、思い出すよりも先に黒猫が答えた。
「アムールの魔女って知っているかい?」
「それって、前に私の夢の中に出て来た本……」
「そう。これは、今までぼくと契約した魔女の中のとある一人の魔女の物語さ」
「やっぱり、あなたその本のことを知っていたんじゃない! 知らないふりをするなんて」
「あの時は、まだ見せるべきじゃないと思ったんだよ。でも、今なら見せてあげるよ。悲しき魔女の物語を」
黒猫の合図で触れる事無くめくられたページには、以前読む事が出来なかった文字がびっしりと並んでいた。鮮やかな赤色で描かれたそれは、どことなく寂しそうに感じられた――。




