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路地裏の魔女  作者: 蒼メ
19/25

19輪目 共生

 人間の 体は 脆い


 人間の 心は 尊い


 人間の 命は 儚い


 生を受け 死を拒み 生を生み出す 人間と


 生を奪い 死をもたらし 生を搾取する わたしは


 死を 受け入れた時 一体何を 目にするのだろう



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「これが牛?」

「そうじゃ」


 わたしの目の前には、小さな囲いの中でのんびりと草を食べている黒くて角の生えた牛がいる。お爺さんは牛の角に引き綱を付け、囲いから出した。のっそりと歩き、わたしのそばまで来た黒い牛は、わたしの何倍もの大きさをしていた。


「そんなに怖がらんでもいいぞ?」

「はぁ!? 怖くなんかないわよ、こんな生き物!」


 お爺さんはわたしの反応が可笑しかったのか声を上げて笑い出した。


「はっはっは! お前さんは面白いのぅ!」

「はぁ? 何がよ」


 お爺さんはニヤリと笑い、わたしの顔を見て言った。


「お前さんは子どもの割には大人のように物事を捉えているように見える。冷静に状況を把握し、他人をすぐには信用しない。子ども離れした思考をしとる。かと言って、大人というわけでもない。この程度の牛に驚くくらいじゃあ、まだまだ世間知らずのお子様じゃ」

「あんたねぇ……!」


 拳をプルプルと強く握ると、お爺さんはあからさまに怖がってるような素振りをした。


「おお、怖いのぅ。お子様と言ったのが気に入らんかったか?」

「別に……」


 わたしはこれまで沢山の本を読んできた。それくらいしかやる事が無かったからだ。この世界の生き物や宗教、歴史、様々な本を読んできたが、それらを実際に見たり、体感するといったことは全くしたことがなかった。知識はあるはずなのに、この世界にはまだまだ知らないことが星の数程あるのだろう。それでも、わたしにとって世間知らずと言われるのは、無知と言われていることと同義だった。それがわたしには腹立たしかった。

 牛を連れたお爺さんの後に続き、畑の方に向かった。畑の目の前まで来ると、お爺さんは引き綱に犂を取り付け、それを持った。牛はゆっくりと畑に入り、前に歩き始めた。お爺さんは犂の刃を地面に挿し、土を切り起こした。それを歩きながら繰り返しているのを、わたしは隣で眺めていた。


「これは?」


 お爺さんは動かす手を止めずに言った。


「こいつで下に溜まっている養分を表面に持ってくるんじゃ。そうすることで、作物は育ってくれるのじゃ。じゃが……」

「……?」


 お爺さんの顔が曇り、今まで見てきた表情とは全く違う暗い表情をした。


「三年前、婆さんが死んでからどうも不作でな。麦が全く育たないのじゃ。どうしてなのかのぉ……」

「ふぅん。でも、さっきパン沢山あったじゃない。生活は苦しくないんでしょ?」

「まあ、最低限の食事くらいはなんとかなるが、領主に納付する麦が足りないんじゃ。このままでは、この畑も家も無くなってしまうわい」

「……今回も駄目だったらどうなるの?」


 お爺さんは渋い顔をするも、笑顔を見せた。


「そうじゃのぉ……。行き場を無くした死に損ないの老いぼれになるしかないのぉ」


 お爺さんは声を出して笑うが、その笑い声には力が無かった。

 畑を耕し続けるお爺さんを眺めながら、わたしはその隣を歩いている。

 ――わたしには関係ない。勝手に死ねばいい。

 いつもそんな風に考えてきたのに。なんだろう、この感じ。あの時、感じたのと似ている気がする。あの少女達と出会ってから、胸の辺りが苦しいんだ。これが何なのか、わたしには分からない。この人は知っているのだろうか。この人と一緒にいれば、その理由が分かるだろうか。わたしは知りたいんだ。傷の無いこの苦しみが、一体何を意味しているのかを――。



 畑を耕し終えたわたしたちは、牛を囲いの中に連れて行き、家に戻り一息ついていた。

 向かいに座ってお茶を飲むお爺さんにわたしは言った。


「納付出来ないなら、畑を手放したらいいじゃない。こんなに広い土地、麦が育たないんじゃ持っていても意味ないじゃない」


 お爺さんはわたしの言葉を聞くと、どこか違う遠い目をした。


「この畑は、婆さんとの思い出が沢山あるんじゃ。簡単には手離せん」

「でも、このままだとあなた自身が困るのよ?」


 お爺さんは急に顔色を変え、強い口調で言った。


「そんなことは分かっとる! じゃが、儂はどうしてもこの畑からは離れられないんじゃ」

「……そう」


 わたしはお茶をすすり、手に持つカップを置いた。


「……ねぇ、しばらくここにいてもいいかしら?」


 お爺さんは目を丸くして、理解できないといった表情を浮かべた。


「何故そんなことを言う? ここにいてもお前さんのような子どもが楽しいことなんて一つもないぞ?」

「あら。あなたさっき、わたしは思考が子ども離れしていると言ったじゃない?」

「確かにそうは言ったが……」

「ならいいじゃない!」

「じゃが、あくまで思考がであって、お前さんはまだ子どもじゃろ」

「そんなことないわよ? こう見えてわたしは、あなたと同じ歳くらいなのよ?」


 お爺さんは唾を飛ばし下品な笑い声を上げながら、テーブルを叩いた。


「ぶわっはっはっは! 面白い冗談じゃ! 気に入ったぞ! 気の済むまでここにいるといい」

「理由は聞かないのね」

「そんなこと儂が聞いても、お前さんは答えてくれそうにないしのぉ。たとえ答えたとしても、お前さんの考えてることは、儂にはちょい難しそうじゃからな」


 お爺さんは歯並びの悪い歯を見せて笑った。わたしもそれに釣られて笑みが溢れた。



 それから、わたし達は同じ場所で、同じ時間を過ごした。畑に種籾たねもみを撒き、草むしりをした。芽が出てからも、ひたすら草むしりをした。芽が伸びてくると、麦踏みをした。

 地味な作業ばかりで、楽しいとは感じなかった。けれど、お爺さんがお婆さんのことを話す時の顔を見たり、あの下品な大笑いした時の声を聞くと、なんだかふわふわとした温かい何かがわたしの身体を包み込むんだ。それでいて、胸の辺りが苦しいんだ。

 この気持ちの正体を分かる日が来るのだろうか。



 お爺さんと出会ってから、いつの間にか半年以上が過ぎていた。畑には金色に輝く麦が一面に広がっていた。

 隣に立つお爺さんの顔を見ると、この景色に見惚れているようだった。


「凄いぞ! こんなに育ったのは、婆さんが生きていた時以来じゃ! 今年は豊作じゃ!」


 お爺さんは子どものように顔をほころばせた。

 その後、刈り入れして脱穀し、家のすぐそばにある小さな塔の中に麦を保管した。

 日が沈み、月が畑を明るく照らし始めた頃、お爺さんは窓の外に広がる畑を眺め、わたしは出会った頃よりも痩せ細ったその後ろ姿を見ていた。この半年でお爺さんの脚は筋肉が衰え細くなり、頬は痩こけた。死が近付いている、そんな風に見えた。

 外は物音一つせず静まり返ったこの空間に、時折聞こえる床が軋む音。窓から穏やかに吹き込む風は、わたしの頬を撫でてから、その行方を眩ませる。

 こんな風に落ち着いた気持ちでいるのはいつ以来だったろうか。

 そんなことを考えていると、お爺さんが口を開いた。


「……ありがとうな」

「なにが?」


 お爺さんが何の礼を言っているのか分からなかった。

 畑仕事を手伝ったこと?それなら随分前からやっていることだから、今更礼を言う必要はない。それ以外何かあったかしら?

 お爺さんはこちらを振り返り、わたしを真っ直ぐに見て言った。


「婆さんが死んでから不作が続いておった。そこにお前さんが来てくれたことで、今年は豊作だったんじゃ。礼を言わずにはいられんよ」

「そんなの偶然でしょ。あなたが自分の手で豊作に導いたのよ。わたしはあなたを手伝っただけだもの」


 お爺さんは再び外に目を向け、空に輝く月を見ながら言った。


「座敷わらしというのを知っておるか?」

「聞いたことないわね。何なのよ、急に……」

「極東の国に伝わる守り神らしいのじゃがな。見た者には幸運が訪れ、家に富をもたらすという話じゃ」

「それがどうしたっていうの?」


 お爺さんはわたしを見て、真剣な表情で言った。


「アンジュ、お前さんは儂にとって座敷わらしのようなものなんじゃ。じゃから……ありがとうな」


 お爺さんはわたしに向かって軽く頭を下げた。


「な、何よそれ……。馬鹿馬鹿しい!」


 お爺さんは頭を上げ、わたしと目が合うと笑顔を浮かべた。わたしはお茶を啜った後、お爺さんに言った。


「……ねぇ。あなたに聞きたいことがあるの……」

「なんじゃ、改まって」


 わたしは胸に手を置いて言った。


「わたしね、苦しいの……」


 お爺さんは慌てた様子で近付いてきた。


「大丈夫か? 胸か? 胸が苦しいのか?」

「そんなに慌てなくても大丈夫よ! 多分病気とか、そういうのじゃ無いと思うから」

「じゃあ、なんなんじゃ?」


 わたしは一度視線を外し、目を瞑りながら胸に手を当て深呼吸した。そっと目を開き、お爺さんを見て言った。


「わたし……あなたといると苦しいの……。お婆さんのことを話すあなたやこんな風にわたしを心配してくれるあなたを見ると、この辺が温かくなって心地良いの。それでいて締め付けられるように苦しいの……。ねぇ、教えて? これは一体なんなの?」


 わたしから一切目を逸らさず真剣な表情で話を聞いていたお爺さんが、微笑を洩らした。


「それはきっと、人の心をお前さんは受け入れられないんじゃ。その心地良さはお前さんにとって異物であり、その免疫のない身体を苦しめるのじゃろう。お前さんの過去に何があったかは知らないが、それは辛く残酷なものだったのだろうな。……時にアンジュ。お前さん、母親は?」

「死んだ……と思う」


 お爺さんは酷く悲しそうな顔をして、わたしの頭をそっと撫でた。


「そうか……。お前さんがこんな立派に育っているのを見たら、さぞ喜んだじゃろうな」


 わたしは思わず目を伏せた。


「……わたしはあなたが思ってるほど、立派なんかではないわ。だってわたしは……人間を憎み、否定し、嘲笑い、拒絶した。わたしが感じて、素直にその感情に従っただけ……。わたしは、我儘で傲慢な……ただの子どもだもの……」


 お爺さんはわたしの体を覆うように上から抱き締めた。

 骨がごつごつと出ていて、それが硬く少し痛かった。お爺さん独特の匂いが鼻につき、息が苦しかったけれど、温かかった。


「お前さんは確かに我儘で傲慢でいつも儂に噛み付いてくるような娘じゃが、お前さんは優しく、孫のように愛しい。我儘で何が悪い? 傲慢では不満か? 子どもとはそういうものじゃろう?」


 わたしを抱くお爺さんの手にさらに強く力がこもった。わたしはそれに応えるように、お爺さんの背中に手を回した。

 なんだか楽になった気がする。苦しみがこの温かい何かに溶けて消えていったかのように、わたしの身体は軽くなった。けれど、許されたわけじゃない。人間を殺してもいい。そんなルール、この世界には存在しない。わたしに償う資格があるのだろうか。この世界で生きていく居場所があるのだろうか。知りたいよ、この世界を。だって、わたしをこんな気持ちにしてくれる人間が住んでいる世界だもの。

 お爺さんの懐の中に顔を埋めた。わたしは呟くような小さな声で言った。


「……ありがとう」


 お爺さんは聞こえていたのかそれに反応して、さらに強く抱き締めてきた。外は静けさを増し、夜はだんだんと更けていった。



 窓から射し込む光がわたしの眠りを阻害し、鶏の鳴く声で完全に目を覚ました。鳥は囀り、空は青く、太陽が燦々と輝いていた。

 上半身を起こし横を見ると、お爺さんはまだ横になっていた。


「珍しいこともあるものね。わたしが先に起きるなんて」


 わたしは物音を立てないように立ち上がり、台所でパンを作り始めた。

 きっと昨日の収穫で疲れちゃったのかな。あの体で畑仕事をするなんて、もう無理なのかもしれないわね。

 そんなことを考えながら、わたしはパンを焼き始めた。

 それにしても遅すぎる。わたしはいつもお爺さんの焼くパンの香りで目が覚めるのだが、今の時間ならとっくに畑に出ている時間だ。


「お爺さん?」


 お爺さんのそばに寄り顔を覗き込むと、まだ起きてはいなかった。

 おかしい。呼び掛けても動じず、寝返りすら打たないなんて。


「お爺さん……?」


 反応がない。


「お爺さん!」


 お爺さんは眉ひとつ動かさず、静かに眠り続けていた。胸に耳を当てると心音は聞こえず、頰に触れると夜の地面のように冷たく硬かった。


「何してるの? 眠った振りなんでしょ? もう分かってるからさ、早く起きてよ……」


 釜戸から焼けたパンの芳ばしい香りが鼻腔を刺激した。わたしは釜戸に駆け寄り、そこから取り出したパンをバスケットに入れた。


「ほら、もうパンが焼けたよ?」


 お爺さんの口に焼きたてのパンを近付けた。しかし、お爺さんの口は開かない。


「早く食べないと、冷めちゃうよ? ほら……」


 わたしは持っているパンを一口食べた。


「あれ、おかしいな。あんまり美味しくない。あなたに教わった通りに作った筈なのにね……」


 お爺さんは変わらず、目を閉じている。


「つまらない冗談はやめてよ! 面白くないよ……」


 もう一度お爺さんの顔を見ると、どこか幸せそうな表情に見えた。


「なんで……なんで笑っていられるの? なんでそんな……満足そうな顔をしているの? わたしには分からないよ……」


 目の奥はじりじりと痛み、そこから熱を帯びたものが頰を伝い、お爺さんの顔にポタリと落ちた。


「ねぇ、これはなんなの? 今までとは何か違うの。こんなに胸が張り裂けそうに痛くなったことなんてないもの……」


 お爺さんの冷たくなった手を両手で握った。


「知っているなら教えてよ。昨日みたいにこの手でまた抱き締めてよ……。わたしをこんな気持ちにするあなたなんて……大嫌い」


 窓から吹き込む風はゆるりとわたしとお爺さんを包み込んだ。



 烏が時刻を告げるように鳴き、見渡す限り夕暮れと化していた。

 お爺さんの遺体を埋め、立てた小さな墓にはパンを供えた。目を瞑ると、瞼の裏にお爺さんと過ごした日々が浮かび上がる。目尻はヒリヒリと痛み、目を開けるのが辛かった。

 これは人間の性なんだ。生を受けたものは、同時に死を受け入れなければならない。お爺さんは最後に死を受け入れたから、あんな顔をしていたんだ。

 死を恐れていた人間を殺し続け繋がりを断ち切ってきたわたしは、あんな風に死を受け入れることが出来るのだろうか――。

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