12輪目 一時
「あなたは……誰?」
女の子はその場に立ち上がって言った。
「わたし? わたしは、アンジュ」
「アンジュ……」
綺麗な名前。
目の前に立つ小さな女の子にはぴったりの名前で、まるで死者を迎えに来た天使のように思えた。
アンジュは無言でわたしの顔を見ている。
「あ、わたしはフィユ」
「フィユ……。ふぅん」
「……?」
「待ってたよ……」
「えっ?」
アンジュは背を向け、歩き出した。
「え、あ、ちょっと待って!」
わたしはさっきまで動かなかったはずの体を起こし、アンジュの後を追いかけた。すると、そこには赤い屋根の大きな家が建っていた。
「ここ、アンジュの家?」
「そうよ」
「随分立派な家に住んでるのね。お父さんは何の仕事をしている人なの?」
「さあ?」
「え、知らないの? ……まあ、これだけ立派な家を建てられるくらいだからきっと凄い人なのね。お母さんは?」
「分からない」
「分からない? それってどういう……」
もしかして、アンジュが物心つく前からお母さんはいなかったのかもしれない。わたしの両親も同じようなものだし、わたし達ちょっと似ているところがあるのかも。
アンジュは迷いなく扉の取っ手を掴み、開けた。
あれ? そういえばさっきも――。
わたしは家に入るアンジュを呼んだ。
「ねぇ、アンジュ」
「……何?」
しかし、アンジュは止まることなく、家の中に入っていった。わたしはその後ろを付いていく。
「アンジュって、目見えてるの?」
「……どうしてそう思うの?」
「え、あ、いや。なんか、包帯巻いているのに動きに迷いがないというか、まるで見えているみたいだなぁって……」
「見えてるよ」
「えっ? でもどうやって……」
「なんとなく光が見えるの。わたしには何がどこにあるのか光って見え……」
「……?」
アンジュは立ち止まり、くすっと笑った。
「え、何?」
「ううん。まあ、要は勘、かな」
「勘、か……」
「あと、慣れね」
「慣れ……ってアンジュ、ここにどのくらい住んでいるの?」
「そうね……思い出せないわ」
思い出せないくらい小さい頃、ということだろうか。今も十分小さいけど。
アンジュは玄関の奥の扉を開いた。
「服を脱ぎなさい」
「え、なんで?」
「見て分からないの?」
「何が?」
アンジュは頭を抱える仕草をした。
「はぁ。あなた、頭が弱いのね」
「なっ!? ま、まあ確かに本は読めないし、ずっと外で遊んでいたけれど……。そういえば、アンジュって見た目の割に口調が大人びているよね」
「あなたと違って普段ずっと本を読んでいるからかしらね」
「うっ……。 アンジュ、本読めるんだ。すごいなぁ」
「そんなことはどうでもいいわ。フィユ、あなた自分の姿を見てみなさい」
わたしは自分の手や足、服を見て理解した。
ああ、そうか。お風呂に入らなきゃ。
わたしは服を脱ぎ、シャワーを浴びた。さっきまで打たれていた雨とは違い、わたしに付いた汚れをやさしく洗い流してくれる。湯船に浸かれば冷え切っていた体が温まった。
気持ちいい。
「ふふふ」
なんだか懐かしくて楽しい気分だ。なんでだろう。
体が綺麗になったから?
大きな家に来てわくわくしてるから?
どれも違う。
きっと大人以外の人と話すのが久々で嬉しいんだ。さっきみたいに会話できるのが楽しくて仕方ないんだ。アンジュがわたしのことをちゃんと見て、話を聞いてくれるのが心地いいんだ。
わたしと友達になってくれるだろうか。
気味悪がられないだろうか。
嫌われたりしないだろうか。
カーテンの向こうからアンジュの声が浴室に響いた。
「フィユ! 着替えここに置いておくから」
「うん。ありがとう!」
アンジュが浴室を出たのか扉の閉まる音がした。
「ああ、早くもっとアンジュと話したいなぁ」
わたしはアンジュが用意してくれた服に着替え、部屋を出ると、アンジュが壁に掛けられている絵を眺めていた。
「アンジュ、お風呂ありがとう」
「いいえ、どういたしまして。ところで、替えの服はどうかしら?」
「うん。着心地はいいし、デザインがシンプルだけど可愛いから気に入っちゃった!」
わたしは青いスカートをひらひらさせた後、その場で一回転した。
「そう。それなら良かったわ。フィユ、次はこっちに来て」
「うん? なになに?」
アンジュの後を付いて別の扉を通ると、そこは大きなダイニングルームだった。煉瓦造りの暖炉があり、テーブルの上には、初めて見る程の豪華な食事が置かれていた。
「え、アンジュ! これは?」
「あなたのために用意させたの。好きなだけ召し上がれ」
「ほんとに!?」
「ええ」
「わぁ! こんな料理見たことないよ! いただきまーす!」
テーブルを彩る料理の数々はどれも鮮やかで、食べたことのないものばかりだった。頬っぺたが落ちるくらい美味しいというのはまさにこのことだろう。
アンジュは正面の席からわたしが食べているところを見ている。わたしがアンジュに笑いかけると、アンジュもそれに応えるように微笑んだ。それも相まって、さらに美味しく感じられた。
「アンジュも一緒に食べないの?」
「わたしはさっき食べたからいいのよ」
「そうなんだ。そういえば、この料理用意させたって言っていたけど、他に誰かいるの?」
「ええ。コックがいるのよ」
「へぇ、さすがお嬢様って感じだね!」
「別にそんなことはないわ」
わたしはコップに入ったお茶を飲み干した。
「ごちそうさま!」
「ふふ。あなたの食べっぷりは見ていて楽しいわね。どう、満足してくれたかしら?」
「うん! すっごく美味しかった!」
「それは良かったわ。……ねぇ」
「うん?」
「話は突然変わるけれど、あなた、家族は?」
「……いないよ」
「……」
「お父さんもお母さんもわたしが物心ついた頃からいなかったの。でも、お婆ちゃんがわたしを育ててくれて⋯⋯。お婆ちゃんはね、凄いんだよ。身の回りのことは全部一人でこなしちゃうし、畑もやっちゃうの。わたしが手伝おうとすると、いいから遊んできなっていつも言われちゃって。だからせめて、薪拾いくらいはと思ってそれだけは欠かさずに続けていたけど……。その必要も無くなっちゃったかな……」
「……何があったかは知らないけれど、もう大丈夫よ」
「……?」
「そんなこと考える必要なんて無くなるから……」
アンジュの表情がさっきと少し変わったように見えた。
「それってどう……」
アンジュは席を立ち、扉に向かった。取っ手に手を掛けると、こちらに顔だけを向けた。
「フィユ。こっちにいらっしゃい……」
「ん? 何?」
アンジュは無言で扉の向こうに消えていった。わたしは慌てて、後を追いかけた――。




