1輪目 出会い
ああ なんて あたたかいのだろう
あなたが 笑っていてくれれば
わたしも 笑っていられる
あなたが わたしを 愛しているように
わたしも あなたを 愛している
こんな日々が ずっと
続いてくれたら いいのに
あなたは?
わたしと居て 楽しい?
わたしと居て 幸せ?
わたしと居て ×××?
ねぇ あなたは どう思う?
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
暖かい陽射しが肌に当たっている。室内の空気は乾燥していて、窓の外からは鳥の囀りが聞こえてくる。
今日は晴れのようだ。晴れというのは太陽が暖かい陽の光をわたし達に届けてくれる良い天気だって、お母さんが言ってた。
わたしは光をもっと浴びるためにベッドから上半身を起こそうとしていると、一階からお母さんの声が聞こえてきた。
「アンジュ! お母さん、お仕事行ってくるからねー!」
「はぁい! いってらっしゃい!」
お母さんは一人で生活費とわたしのお薬代を稼いでいる。お父さんはわたしが産まれてから事故で死んじゃったってお母さんは言ってたけど、わたしは嘘だと思う。だってお母さんが嘘を付く時、声が少しだけ高くなるんだもの。きっとお父さんはわたしの病気のせいで逃げちゃったんだわ。
両目に巻かれている包帯に触れると、瞼のあたりが大きく腫れ上がっているのが分かる。
包帯を取り替える時、それに少し触れると、皮膚がぽろぽろと取れる感触がしたことがあった。お母さんには崩れてしまうから触ってはいけない、と言われたけれど、わたしの顔は一体どうなっているのだろうか。
窓の外からは猫の鳴き声が聞こえてくる。
わたしは猫が四足歩行することを知っている。
猫が鼠を捕らえることも知っている。
でも、一度もそれを見たことがない。お母さんから聞いたのだ。
だって、わたしは生まれたときから目が見えないんだもの。
そろそろお母さんが帰ってくる時間かな。
外から吹いてくる風の感じが変わり始めた頃にいつも決まって帰ってくる。
しばらくすると、玄関の扉が開いた音がした。
わたしはベッドから立ち上がり、手探りで扉の取っ手に手を掛け、部屋から出た。手すりにしがみ付くようにして階段を下りて言った。
「お母さん、お帰り!」
わたしに気付いたお母さんは慌てた様子でわたしの両肩を掴んで言った。
「アンジュ! いつも言ってるじゃない! 危ないから階段を下りる時はお母さんを呼んでって」
「だって、お母さんと早くお話ししたかったんだもん」
「もう。アンジュは甘えん坊ね。お腹空いたでしょう? すぐ作るから、ここに座って」
わたしはお母さんの手を借りて椅子に座った。
お母さんがわたしのそばから離れると、台所から包丁で何かを切る音や鍋に水を入れ、火をつける音がした。
貧困街であるここは食料があまり多くはない。そのため料理の種類も豊富ではないので、何の料理を作っているかは音や匂いで大体わかる。
「今日は粥?」
「うん、そうよ。アンジュは凄いわね。まだ出来てないのに、当てられちゃう」
お母さんは笑い混じりに言った。
わたしもそれに釣られてか微笑が漏れた。
お母さんと話すのはとっても好き。あまり具のない粥だって、お母さんと一緒に食べれば美味しいもの。
お母さんはいつもわたしのために色々してくれる。包帯を変えてくれたり、トイレに行くのだって手伝ってくれる。
だから、そんなお母さんに苦労させているのがわかっているから、わたしも苦しい。いつもごめんねってお母さんに言うと決まってお母さんはアンジュのせいじゃないわ、と言って抱き締めてくれた。
お母さんはとっても良い香りがする。ずっとこうしていたいって思うけれど、お母さんを困らせたくないから言わないことにしてる。一人でなんでも出来るようにならなくちゃ。
わたしは明日で七歳になる。
次の日の夕方、わたしは窓際のベッドで横になっていた。今日も陽射しが窓から射し込み、わたしの身体を暖める。開いた窓からは風が穏やかに舞い込み、頬を撫でる。
今日はわたしの誕生日。晩ご飯はきっとわたしの大好物のシチューだわ。
気持ちを躍らせていると、窓の外に何かの気配を感じた。わたしは上半身を起こして、その何かに話しかけた。
「誰かいるの?」
何かが応答する様子は無いが、窓の外からそれが入ってきたのがわかった。
「にゃー」
「あれ? 猫?」
つい拍子抜けしたような声が出てしまった。可笑しいな、猫の感じはしなかったんだけど。
掛けている毛布に重みが加わった。猫がベッドの上に降りてきたようだ。
「にゃあ」
「⋯⋯ねぇ、あなただあれ? 本当に猫なの?」
わたしはどうしてもそこにいるのが猫だとは思えなかった。だって、何か暗く冷たい感じがするんだもの。
「にゃーお」
その猫の声は、わたしにはまるでついておいで、とでも言っているようであった。
毛布にかかっていた重みが無くなり、何かの気配が消えた。猫どこにいったのー、と呼び掛けたが反応は無く、どうやら外に出て行ったようだ。わたしはその猫がどうしても気になってしまって、慌ててベッドから立ち上がり部屋を出た。気が急いて手すりに掴まりながら階段を下りる足を早める。着ている白いワンピースが壁から出ている釘に引っ掛かったことに気付かず足を取られてしまい、そのまま階段の下まで転がり落ちた。その際、額を強く強打し、手や足にも痛みが走った。
「あくっ⋯⋯うぅう⋯⋯い⋯⋯いた⋯⋯い」
額の傷は心臓の拍動と等しい間隔で痛みをわたしに伝えてくる。その痛みは重く、焼けるように熱い。額に手を当てると、電気が走ったように痛みを感じ、暖かい液体のようなものが手に付いた。その液体は額の傷から絶え間無く流れ続け、わたしは体に力が入らなくなっていった。
ここで、わたし死んじゃうのかな。
お母さん悲しむだろうな。
お母さんの言い付けちゃんと守っていればよかったなぁ。
お母さんともっとお話ししたかったなぁ。
ああ、最後にお母さんのシチュー食べたかったなぁ。
お母さん、お母さん、お母さん、お母さん――。
そこでわたしの意識は途絶えた――。
暖かい――。
体がふわふわと宙に浮き、全身が温かい膜に包まれているような感覚にわたしはとても心地良かった。
ずっとこうしていたい。
そう感じた瞬間、わたしは無理矢理意識を呼び戻され、体全体に力が入った。
心臓の鼓動は大きく張り裂けそうな程で、飛ぶように脈打っている。
苦しい――。
わたしは胸の異様な痛みから顔をしかめ、動悸が治るのを待った。
しばらくすると、胸の苦しさから解放され、横になっていた体を起こした。額に滲んだ汗を拭おうと手を当てると、ある違和感に気が付いた。
それは階段から落ちた時に負ったはずの傷の痛みが無いのだ。わたしは顔の至る所を両手で触ったが、傷痕の感触や痛みが全く感じられなかった。
わたしは何が起こったのか思い起こそうとしたが、階段から落ちたところまでの記憶しかない。
わたしが思考にとらわれていると、何処からとも無く声が聞こえてきた。
「おはよう」
わたしはその声に驚き、背筋が伸びる。
一体誰が話しかけてきているのだろう。
「また会ったね、アンジュ」
聞き覚えの無い声に自分の名前を呼ばれたことにも驚いたが、それ以上に突如として目の前に現れた声の主が放つ独特の気配にわたしは驚きを隠せないでいた。
それは、階段から落ちる直前に窓から入ってきた猫のそれと全く同じものだったからだ。
「⋯⋯あなたは、誰なの?」
「ぼくは黒猫だよ。前にも会ったろ?」
「猫は話せないでしょ⋯⋯」
「そんなことないさ。猫だってにゃーって鳴くだろ?」
「馬鹿にしないで」
わたしは黒猫の茶化したような声色が気に入らず、少し強く言った。
しかし、黒猫は怯む様子も無く、淡々とした口調で言った。
「そうだなぁ、正確には猫の体を借りている悪魔かな」
「⋯⋯悪魔?」
わたしは聞き覚えのない言葉に思考を巡らせると同時に知的好奇心が刺激された。
「そう、悪魔。悪魔は人の如何なる願いも叶える存在だよ。アンジュ、君の願いはなんだい?」
「わたしの⋯⋯願い」
ふいにお母さんの顔が頭に浮かんだ。
「あれ、そういえばお母さんは? それに、ここはどこ?」
ベッドのようなものに座っているようだが、少なくとも自分の部屋ではないことはわかった。
いつも窓の外から聞こえていた鳥の囀りも風が窓を叩く音も部屋の少し埃っぽい匂いもしないからだ。
わたしは自分が知らない場所にいることに恐怖を覚え、心が一気に不安の波に押し寄せられた。
「君のお母さんはここにはいないよ」
「⋯⋯どういうこと?」
わたしの声はかすれていて、ひどく震えていた。
黒猫は声色一つ変えずに言った。
「君が階段から落ちて気を失った後、お母さんが帰ってきたんだ。君を見た瞬間、お母さんは驚いていたよ」
「当たり前じゃない! わたしのお母さんだもの」
わたしは自分のことのように自慢げに言った。黒猫は気にせず続けた。
「でも、君が倒れているのを見てもお母さんは駆け寄ろうとはしなかった。むしろ眺めていたよ。そして、君にゆっくりと歩み寄り、君の顔にかかる前髪を分けて、こう呟いたんだ⋯⋯」
わたしは黒猫の次の言葉を聞くのがとても怖くなった。耳を両手で塞ぎたいはずなのに、続く言葉を聞かなければいけない気がしてならなかった。
黒猫は感情が一切こもっていないひどく冷たい声で言った。
「⋯⋯よかった、って」
わたしは黒猫の言葉を受け入れることが出来なかった。
だって、お母さんがそんなこと言うはずがないもの。わたしが怪我してよかったなんて、お母さんが言うはずがないもの。何かの間違いに決まってる。そうだわ。この黒猫は嘘をついてるに違いないわ。わたしが困るのを見て楽しみたいだけなんだわ。
わたしは目の前にいる黒猫を睨みつけるように目に力を入れ、眉間に皺を寄せた。
「お母さんはそんなこと言わない! お母さんはいつもわたしを気に掛けてくれてたし。わたしのためにお仕事も頑張って、お薬も買ってきてくれてたもの!」
「お母さんはもう疲れたんだよ。目の見えない君を七年間も一人で働いて、育ててきてさ」
「違う! だってお母さんはいつもわたしを優しく抱き締めてくれてたもの!」
「君さ、お母さんに部屋にいるように何度言われても、一人で危ない階段を下りていただろう? そんな君にお母さんは頭を悩ませていたんじゃないのかい?」
「そんなことない! いつも心配そうにわたしの身を案じてくれてたし、笑って許してくれた!」
「それは君に呆れていたんじゃないの?」
「ち、違うわよ⋯⋯」
黒猫の言葉に反抗する度に、本当はどうだったのだろうと不安が募っていく。
「君は何でも一人で出来るようにならなくちゃと思っていたみたいだけど、お母さんはそんなこと望んでなんかいなかったと思うよ?」
「そんなこと⋯⋯ない。わたしが一人で何でも出来るようになれば、お母さんだって少しは楽になるもの⋯⋯」
「そうかなぁ? 君が一人で何かやろうとしても、それはお母さんにとって迷惑になるだけだよ。君は目の見えない子供なんだから」
わたしは黒猫の言葉に反抗する力を失い、憔悴し切っていた。
「君はお母さんに迷惑を掛けていたのを自覚していたのだろう? 君のせいでお母さんが苦しんでいたのを知っていたのだろう?」
黒猫は一拍置いてから容赦なくわたしに言い放った。
「君はお母さんに苦しんでいてほしかったんじゃないの? ずっと一緒に居続けられるように」
わたしは首を垂らし、長い髪が顔にかかる。目からは涙が止めどなく溢れ続け、頬を伝い、膝に落ちた。
黒猫はまるで手の平を返したように軽やかな口調で言った。
「ぼくは倒れている哀れな君を助けたんだ。ぼくは今まで不幸な人生を送ってきた君の願いを叶えたいんだよ」
わたしは頭に靄がかかったような状態になり、上手く思考することが出来ないでいた。
「⋯⋯わたしの、願いは⋯⋯」
わたしは黒猫がいる方に手を伸ばしていた。それに応えるように黒猫の中にある何かが大きく膨れ上がり、それはわたしを飲み込んだ。
わたしは、悪魔を受け入れたのだ――。




