暗黙の声
「元気ないね。何かあった?」
いつも彼は初めに必ずそう言う。私が泣いているときはともかく、笑っているときでも。
少し掠れた、そして何よりも優しい声で。
彼の声が、沈黙を守るエメラルドグリーンの穏やかな湖と溶け合い、優しい空気の波となって、繊細な私の心に入り込む。
一瞬、私の心は満たされたが、心の奥で彼の声を再び欲しいという衝動に包まれた。
《暗黙の声》
ささやかな風が私の体を包む。冷え冷えとした、手のかじかみを、自らの吐息でけしてゆく。
まだ十一月とはいえ、空気は冷たい。
「……ううん。何にもないよ」
私は、小さく笑って言った。でも、私が今、心の底から笑えていないことを、彼ももちろん知っているはずだ。
意地悪だなぁ。私は肩を揺り動かした。
「元気出してよ。俺、出来るだけ傍に居るから」
酷い。私は、いつの間にか握りしめていた右手に、満身の力を込め、ゆっくりと拳を開いた。だって、彼はいつもそう言って私を期待させるから……、私をその気にさせる。
でも――
その気にさせておいて、一番彼に傍にいてほしい時に、彼はその姿を消す。期待させては裏切り、また期待させては裏切る。
惚れてしまった宿命っていうのかな? それでも私は、彼を信じている。だから、私はさっきよりも自然な笑顔で言う。
「ありがとう」
私の両目が熱くなっているのを感じた。
泣くなんてカッコ悪い。私は、小さくかぶりを振った。
「良かった。また笑顔を見せてくれて」
「うん。……そうだ、明日映画に行かない?」
だんだん風が強くなっているのがわかった。穏やかであった波が、まるで純白の雲を取り込んだような飛沫を立てて、荒々しく波打ち際に流れ込む。
「先週発表された新作の映画……名前なんて言ったっけなぁ。とにかく、凄く面白いらしいんだって」
嘘ではなかった。発表以前からテレビで噂になっていたし、ストーリーも彼好みだと思う。
何より、二人でどこかに行きたい。
「……」
彼の声は、強風や荒波によってかき消されていた。
それでも気にすることなく話し続ける彼の、どこかか弱くて、それでいて芯の強い声が、私を惹いていく。
「……聞こえないよ。もっとはっきり言って」
「だ……俺、……の。……」
とぎれとぎれにしか聞こえない彼の言葉。
届かないのが相当に物悲しい。でも、彼が私に向かって、必死に何かを伝えようとしてくれている。
幸せ。
彼は、声の大きさを変えずに、何を言っているのか解らない位に、聞き取れない言葉を話し続け、喋り切った。
沈黙が私たちを包む。
普段ならそんな気まずい空気を消すために、無理にでも何かを話す彼は、何も言わずに、静寂を破ることすらなかった。
彼がここにいたら、――彼が今この場にいたら、彼は何かを悟ったように、ただ私を痛々しく見つめていただろう。
でも、彼はここにはいない。高校を卒業した時から、今まで。そしてこれからも、私のそばに彼がいることはおそらく、無い。だから、彼の視線も、匂いも、温かさも、ここにはあるはずがない。
砂嵐が巻き起こり、砂浜の粒が私の顔にぶつかる。彼はここにはいないけど、この微かな感触が、私がここにいることを教えてくれている。
その刹那――
海面に彼の影が映ったような気がした。気配もした。
「行かないで……!」
私の願いは空しく、空に散っていった。それと同時に、ラジカセのスイッチが切れ、彼の声は虚空に飲み込まれていった。
風も、波も一瞬止み、静寂が私の心を揺るがした。
私は出来るだけ強く、目を瞑る。暗黒が私の体を包む。
暗黙の喪失感。
冷風が、私の顔に当たる。目が火照りで焼けるほど熱くなっている。水滴が私の目に溜まっているのが分かる。
慣れた手つきで、目を閉じたまま、テープの巻き直しボタンを押す。巻き終わったのを確認して、目を開ける。
果てしなく続く大海原。憎たらしいほどの青空。一点の曇りもない、浮雲。
海は無理でも、彼はこの空を見ているだろうか。彼がこの空を見ていてくれれば、私と彼は間接的にでも繋がっていることになる。
それが、私の今の願い。
私は、再生ボタンを押した。
『元気ないね。何かあった?』
いつも彼は初めに必ずそう言う。私が泣いているときはともかく、笑っているときでも。
少し掠れた、そして何よりも優しい声で。何度聞いても同じように優しくて、同じ音程のその言葉。
最近、少し掠れてきたので、いつかは消えてなくなってしまうかもしれない。でも、彼は毎回私のことを呼んでくれている。
それでいい。
たとえ、心の底から笑えなくても――
私はどんな時でも、必ず笑ってこう言うことを決めている。
「ううん。何にもないよ」
いつのまにか、強風から微風に変わっていた。潮風が私の顔に当たる。その冷やかな風が、私の頭を冷やした。
頼りないそよ風だけど、この想い、あなたに届きますように。
愛しています。
私の頬を、限りなく透明な涙が、一筋伝った。