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猫と横浜  作者: のらしろ
第一部 猫に引っかかれて明冶にまいる …

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第27話 忍び寄る影と覚悟の天秤


 数日間、俺は研究に没頭した。明日香とイルサの協力もあり、青カビの培養からペニシリンの抽出、そして精製までの工程は、失敗を重ねながらも着実に形になりつつあった。   


 まだ不安定で、量も僅かだったが、透明なガラス瓶の中で静かに揺れる淡黄色の液体は、この時代を覆う病魔に対する、俺だけの反撃の狼煙だった。

 そんなある日の昼下がり、明日香が少し強張った表情で俺の元へやってきた。


「一様。鈴屋の楼主様が、至急お会いしたいと……」


 その声には、普段の快活さとは裏腹な、微かな震えが混じっていた。ただ事ではない。

 俺は直感的にそう感じた。研究の手を止め、俺は明日香と共に、懐かしいとも言える関内の小妓楼へと足を向けた。


 鈴屋の門をくぐると、昼間だというのに、そこには重くよどんだ空気が漂っていた。楼主は奥の帳場で俺たちを待っていた。

 彼の顔には、数日前に会った時よりも深い皺が刻まれ、その目には疲労の色が浮かんでいた。


「金田様、よくお越しくださいました。……単刀直入に申し上げます。この関内で、かの病が本格的に流行り始めました」


 彼の声は低く、絞り出すようだった。俺の背筋に冷たいものが走る。


「明日香から、病には周期があり、一度は治ったように見える時期があると聞き及んでおります。ですが、その話の真偽も、わしには分かりかねる。どうか、金田様から直接、この病の本当の恐ろしさをお教え願えないでしょうか」


 藁にもすがる、という表現がこれほど似合う目はなかった。

 俺は一つ頷き、覚悟を決めた。これは俺が背負うと決めた責務だ。


「楼主、落ち着いて聞いてください。この病……梅毒は、まるで狡猾な狩人のように獲物を追い詰めます」


 俺は、PCから得た知識を、この時代の人々が理解できる言葉に慎重に置き換えながら語り始めた。


「感染後、まず体に異変が現れます。ですがそれはやがて消え、多くの者は治ったと安堵する。これが第一の罠、『潜伏期』です。病魔は体を離れたわけではない。むしろ、体の奥深くに根を張り、静かに牙を研いでいるのです。この潜伏期間は数年から、長い場合は十年以上続くこともあります」


楼主は息を呑んだ。


「そして再び姿を現した時、病は全身を蝕み始めます。皮膚、骨、内臓……。ですが、ここにも第二の罠がある。この症状すら、再び消えることがあるのです。しかし、それは寛解ではありません。終焉への序曲です。第四期……最終段階に至れば、もはや治療は困難を極める。この時代では、不可能と言っていい。仮に命を取り留めても、心身に癒えぬ傷跡を残し、二度と元の体には戻れないでしょう」


 沈黙が部屋を支配した。

 俺の言葉は、希望ではなく、冷徹な現実を突きつける刃だった。

 やがて楼主は、震える手で茶を一口すすると、ぽつりと言った。


「うちの娘たち……数人が、一度症状が消えた状態にあります。どうか、その娘たちを診てはいただけないでしょうか」


 それだけではなかった。

 彼の口からは、他の小妓楼の主人たちからも、病に倒れる娼妓の治療について相談を受けているという、絶望的な事実が語られた。


 これはもはや、鈴屋だけの問題ではない。関内の遊郭全体を飲み込もうとする、巨大な災厄だった。

 奇しくも、俺の手元には完成したばかりのペニシリン水溶液がある。これは賭けだ。俺にとっても、彼女たちにとっても。


「……分かりました。その娘さんたちをここに。ただし、条件があります」


 楼主の顔にわずかに光が差す。俺は続けた。


「俺が行うのは、この国では誰も試したことのない、全く新しい治療法です。成功の保証はありません。万全の注意は払いますが、万が一……いや、最悪の事態も覚悟していただかねばならない」


 俺は懐から紙と万年筆を取り出した。


「治療のリスクを理解し、いかなる結果になろうとも異議を申し立てない」


 その旨を記した念書を楼主と、治療を受ける本人、双方から貰い受けることを条件として提示した。

 場の空気が一気に張り詰める。


 やがて、楼主に呼ばれた三人の娼妓が部屋に入ってきた。

 彼女たちの顔は一様に青ざめ、その瞳は不安と絶望の間で揺れていた。

 俺が治療のリスクを改めて説明すると、一人の若い娘がわっと泣き崩れた。


「怖い……死ぬのは嫌だ……」


 その嗚咽が、この場の重圧を物語っていた。

 だが、残る二人は違った。

 一人は静かに涙を流しながらも、真っ直ぐに俺を見つめて言った。


「お願いします。どうせこのままでは、二十を越せずに病で朽ちるのが私らの定め。ひと時の夢でも構わない。治るという光があるのなら、それに賭けてみたいんです」


 そうだ。彼女たちは知っているのだ。

 美しく咲き誇る花の命が短いように、自分たちの輝きもまた、病という名の嵐に容易く散らされることを。

 この時代、娼妓の平均寿命は二十代半ば。

 彼女たちは、仲間が次々と病に倒れていく地獄を、その目で見てきたのだ。


 怖気づいた娘を責める者はいなかった。

 誰もが同じ恐怖を胸に抱えているのだから。


「覚悟は、分かりました」


 俺は治療を望んだ二人に告げた。


「明日の昼、山手にある俺の屋敷に来てください。そこで治療を始めます」


 帰る前に、俺は二人の体を簡単に視診した。

 明らかな外傷や異常はない。

 本来なら採血して詳しく調べたいところだが、あいにくと、この手には聴診器と己の目しか持ち合わせがない。

 もどかしい思いを胸に、俺は立ち上がった。


 最後に、楼主に向き直る。


「他の小妓楼の件については、相談には乗りましょう。ですが、楼主。薬は決してタダではありません。これを作るには、相応の元手と手間がかかっている。治療を望むのなら、それなりの対価を頂くことになります。そのことを、しかとお伝えください」


 俺はビジネスマンとしての一線を引いた。

 これは慈善事業ではない。

 俺がこの世界で生き抜くための、闘いなのだ。


 明日香と共に鈴屋を後にする。

 夕暮れの横濱の空は、血を流したように赤く染まっていた。

 明日から、俺の本当の戦いが始まる。


 この手の中にある小さな希望の液体が、彼女たちの、そして俺自身の運命をどう変えていくのか。まだ、誰にも分からなかった。





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