第3話 日本のベンメリア
梅雨が明け、夏の日差しが眩しい7月の終わり、図書館の自習室で、弓月がスマホを俺に見せてきた。
「サク、これ見て」
画面に映っていたのは、熱帯の強烈な陽射しの中、巨大な木の根に絡め取られ、石造りの壁が崩壊している遺跡の写真だった。木の根はまるで巨大な蛇のように、瓦礫を抱きしめている。アニメの世界みたいだ。
「これ、ベンメリアって言って、シェムリアップの郊外にある遺跡なんだ。アンコールワットよりも古くて、誰も修復してないから、めちゃくちゃに壊れてる。でも、木が全部繋ぎ止めてるだろ」
弓月は、画面をスワイプして、別の写真を見せた。木の根が這い回る回廊、崩れた天井から差し込む陽射し、苔むした石の階段。
「俺、ここ好きでさ。崩れてるのに、崩れきらない。不思議な場所なんだ。すっげーパワー貰えるし」
胸が激しく締め付けられた。弓月の大切な場所みたいな所が、俺にもあるんだよな。
「……これ、あそこに似てるかも」
俺は思わずそうこぼした。
弓月が、興味深そうに俺を見る。
「あそこ?」
「……俺の、秘密基地」
その言葉が、口から出た瞬間、俺はちょっと後悔した。ここだけは、誰にも教えたことのない、俺だけの秘密の場所だったから。でも、弓月になら見せてもいいと思った。
弓月の存在は、自分でも気づかないうちに、俺の中で大きくなっていたようだ。
俺の迷いを知ってか知らずか、彼は嬉しそうにニッと口角を上げる。
「見せてくれよ」
俺は迷わず頷いた。
次の土曜日、弓月を俺の秘密基地に連れて行くことになった。辺りには何もないから、いつもの道の駅でドリンクと菓子を買い込んでから向かう。弓月は詳しいことは何も知らない。言葉では上手く説明出来ないし、とりあえず連れて行こうと思って。ちょっとした遠足みたいでワクワクする。
辿り着いたのは、町外れの丘の上にある廃校の敷地だ。誰も手入れしないまま、校舎はツタに覆われている。特に体育館は、屋根が一部崩落し、そこから生えた大きな木の根が、建物を内側から無理やり繋ぎ止めている。
まさに、日本のベンメリア。
秘密基地の入り口となる錆びた非常階段の前で、俺は一瞬立ち止まった。
緊張で喉が渇く。ここに誰かを連れてくるのは、俺の心の鍵を渡すことと同じだから。
俺は意を決して、階段を登り始めた。弓月は、俺の表情の変化に気づいたようだったが、何も言わずにただ静かに俺の後に続いた。
この屋上の踊り場は、いつ来ても異世界のようだ。
崩れた屋根の隙間から、巨大な木の根が這い出している。その根は、まるで生き物のように、コンクリートの床を抱きしめている。ちょっと、おどろおどろしい。
ツタが壁を覆い、緑の絨毯のように広がり、風が吹くたび、葉が揺れて、サラサラと音を立てる。清々しいような、不気味なような。そんな世界観だ。
崩れた体育館の壁がここから見えて、木漏れ日の影が床に複雑な模様を描いている。
「ここ、俺の秘密基地。ここ教えるの……お前が最初で、たぶん最後」
弓月は、初めて言葉を失っているようだ。彼はゆっくりと周囲を見回す。崩れた屋根、這い回る木の根、ツタに覆われた壁を、まるで何かを確かめるように見つめた。
「……ベンメリアだ」
弓月が呟いた。
「マジで、ベンメリアみたいだ。崩れてるのに、繋ぎ止められてる」
俺は、この場所を見つけた時の事を話し始めた。
「小さい頃、親に怒鳴られて、もうどこにも帰る場所がないって思って家出したんだ。そのとき辿り着いたのがここ。崩れた屋根の隙間から、欠けた月を見てたらさ、また始められる気がして。すーっと心が浄化されて、あんなに腹立ててたのにどうでも良くなって。それから、ここが俺のお守りみたいになったんだ。もう死んでやろうとか思ってたのに」
弓月が屋上の縁に腰を下ろす。
「へぇ。サクって、意外と死にたがり?」
「……まあな」
「俺もちょっと、そうかも」
冗談めいているが、お互いに、その言葉が冗談でないことを知っていた。二人とも繊細な感性をもっているから。常々思っていたが、俺たちは似ていた。
「……なぁ。俺がいなくなったら、サクひとりで、ここで月見んの?」
「弓月がいなくなったら……仕方ないだろ」
「サク、寂しくても死ぬなよ」
「は? 死ねねぇだろ、弓月に怒られそうだし」
弓月は立ち上がり、木の根っこの束をぴょんと飛び越え、輝く笑顔で言った。
「こんな大事な場所に連れてくるの、俺が最初で最後の人間ってことか。上等だ。俺が、そのお守りを一生守ってやる」
◇
8月の初旬、夕方頃に、俺たちは再び「日本のベンメリア」の屋上にいた。
特に用事があったわけじゃない。遠足気分でまたやって来たのだ。ここは、夏でも不思議と涼しくて、太陽の光が大木で遮られるからか、外でも意外と過ごしやすい。
俺たちは、崩れた屋根の下に座り込んで、持参したドリンクとお菓子を拡げた。
夕陽がツタの葉を通して、茜色の不思議な模様の影を落としている。大木からはセミの鳴き声が響き、ため池からは蛙の大合唱が騒がしい。
弓月が、ドリンクを飲みながら口を開いた。
「なあ、ここって、本当に誰も来ないよな」
「うん。誰にも会ったことないし」
「じゃあ、ここは俺たちだけの世界ってことか」
俺はその言葉を否定しない。夕陽がすっかり沈み、辺りが暗くなり始めた頃、弓月は、崩れた屋根の隙間から見える空を指差した。
「あそこから見える月は、カンボジアから見える月と同じなんだ。だから、俺たち、繋がってる」
弓月の顔をチラ見すると、持参したランタンに照らされているからか、彼の表情がいつもよりもちょっと大人びて見えた。
俺たちは、それ以上何も語らず沈黙を楽しんだ。しばらく月を眺めていたら、すっかり夜も更けていた。残っていたドリンクを飲み干し、帰路についた。
◇
夏休み明けの9月初旬に、事件は起こった。
幼馴染の石井に、放課後、空き教室に呼び出された。実は、中3の卒業式に告白されたけど、断った相手でもある。気まずい。今度はなんなんだ。
弓月には、教室で待ってもらっている。他のクラスメイトの好奇の視線に耐えながら、恐る恐る、空き教室に向かった。ドアを開けると石井と目が合う。
「朔太郎くん、久しぶり」
「あー、久しぶり」
石井は満面の笑みで俺を迎え入れ、マシンガンのように話し始める。
「あれから、半年だね。最近、弓月くんと仲いいけど、もうすぐ帰っちゃうんでしょ? 朔太郎くん、きっと寂しくなると思うから、私のこともう一度考えてくれない? まだ、諦めてないんだよね……どうかな?」
うっ……まだ諦めてないのか。断ったのに。それに、今の俺の頭の中には、弓月と一緒にどう過ごしていくか、でいっぱいなんだけど。
「ごめん。今も、そういうの考える余裕がないんだ。弓月、もうすぐ帰っちゃうから……その前に、やっておきたいことが沢山あって」
俺の言葉に、廊下で覗き見しているクラスのやつらが盛大にざわついている。でも、俺の心には一点の曇りもなかった。石井は粘り強かったが、何とか断って安堵する。解放された俺は教室へ急ぐ。弓月を待たせちゃ悪いと思って。
その時だった。弓月が廊下の角から現れて、俺を人目のつかない体育館裏に連れていく。そして、顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。
「お前、何やってんだよ!」
「何って、お前も盗み聞きしてたのか? 真実を言ったまでだ」
「俺のせいで、断るのはダメだろ」
「いいだろー もう時間無いんだから、俺の自由にさせろよ」
「ばっ……か、お前……! そんなこと言われたら、俺、帰りづれーだろ……」
弓月は、そっぽを向いたかと思うと、肩を小さく震わせる。俺には、かける言葉が見つからない。弓月の後ろ姿を見つめていると、空が赤から紫へ変わっていく。
弓月はまだそっぽを向いたままだ。でも落ち着いたのか、肩の震えは止まっていた。俺はそれを黙って、ただ待つしかなかった。
寄り添う事が俺の出来る唯一の事だと思ったから。
しばらくして、弓月が鼻をすすって、こちらに顔を向けた。
「……帰るか」
「うん」
ぽつぽつと会話をしながら、帰路についた。




