第2話 太陽と月の距離
弓月といる日常は、水中にいた俺を水面まで引き上げるようだった。
ゴールデンウィークが明けた5月の放課後。弓月が突然、俺の机を叩いた。
「なあ、サク。お前、今日暇?」
サク。最初は違和感があったが、今ではこう呼ばれることが、自然に聞こえる。彼だけにこう呼ばれるのが、親しい関係みたいでなんか新鮮だ。
「……別に用事ないけど」
「じゃあ、ちょっと付き合えよ」
弓月は、教室を出るなり、まっすぐ校門の外へ向かい、俺は何も聞かずについていった。
彼が向かったのは、駅前の小さな本屋だった。店内に入ると、弓月は迷わず語学コーナーへ向かい、棚から日本語の文法書を引き抜いた。
「これ、買おうと思って」
「……日本語、もう喋れてるだろ」
「喋るのと、ちゃんと理解するのは違うんだよ」
弓月は苦笑した。
「クラスのやつら、俺が変なこと言うと、すぐ笑うだろ? 別に悪気ないのはわかってるけどさ。でも、言い間違え多いし、正しく伝えられないと、なんかさ……日本人なのにって思う」
弓月は文法書のページをめくりながら、ぽつりと呟く。
「半年しかいないにに、こんなこと勉強しても意味ないかなって思ったんだけど。でも、お前みたいに話せるやつがいるなら、ちゃんとしたいって思ってさ」
その言葉が胸を強く打った。
「いないにに、じゃなくて、いないのに、だぞ」
「いないのに、だな。ほら、さっそく間違えた!」
弓月は、ここに馴染めないと感じながらも、必死にここに留まろうとしている。
俺は、それまで自分が何も努力してこなかったことに気づいた。
俺たちは本屋を出て、特に目的もなく町を歩いた。ここはド田舎で、田んぼの畦道が縦横無尽に広がっている。人通りの少ない廃線跡の錆びたレールの上を歩いたりもするし、川にやって来る水鳥を見に行ったりも。
遊び疲れたら、寂れた商店街の片隅にある図書館で、ただ並んで本を読んだりした。言葉を交わさなくても、隣に弓月がいるだけで楽しいし。
弓月は親戚の家に下宿しているけど、家にいるのは気を使わせるからと言って、俺と放課後を過ごすことが多かった。
道の駅でドリンクやお菓子を買い、外のヤギ小屋のそばのベンチで座って話すことにした。コンビニなどはないから、いつもこうなる。たまに、鶏の声が煩くて思わず吹き出してしまう。
弓月が、文化の違いで起こった失敗談や、カンボジアでの暮らしについて笑いながら話すのを聞く。
「カンボジアってさ、めちゃくちゃ暑いんだよ。40度とか普通。だから、昼間は誰も外歩かない。みんな昼寝してる」
「……それ、学校も?」
「インターだから、冷房ガンガンで授業やるけどさ。でも、放課後は暑すぎて遊べない。送り迎えも、ドライバーの車で。治安も良くないのもあるけど」
「へー、そんな感じなんだ」
「ショッピングモールの中のコーヒーショップに行って勉強する時もあるけど、家と学校の往復。だから、こんな所でのんびり友達と話すだけで、幸せを感じる」
「俺も、ド田舎嫌だって思う時もあるけど、たまに都会行くと落ち着かなくて、たまにでいいな~って思う」
「うん、ここはいい所だぞ、サクはラッキーだよ」
思ったより、海外暮らしって大変なんだな。弓月はここが好きみたいで、俺も嬉しくなった。
「ずっと、ここにいればいいじゃん」
「そうなんだ、もっと長くいられたらな……て思うけどね」
弓月は、少しだけ遠い目をした。
「日本、好きなんだ。やっぱ日本人だし。カンボジアも好きだけど、やっぱり日本が落ち着く。将来は、日本の大学に行きたいって思ってるんだけど……」
なんか、日本にいることが難しいのかも……。まだ16歳だし、一人で決められないことも多いし、弓月なりに色々悩んでいるのかもしれない。
6月に入った、ある日の昼休み。教室で事件が起きた。
弓月が、クラスの女子グループに話しかけられていた時のことだ。
「ねえ、弓月くん。これ、どう思う?」
女子の一人が、スマホの画面を見せている。何かのSNSの投稿らしい。
弓月は画面を覗き込んで、少し考えてから答えた。
「えっと……いいと思う」
女子たちが、一斉に笑った。
「え、マジで? これ、普通ないわーって話なんだけど」
「あ、そうだったんだ? ごめん、よくわかんなかった」
弓月は、困ったように苦笑いを浮かべる。
女子たちは悪気なく笑いながら、そのまま自分たちの席に戻っていった。
弓月は、一人机に突っ伏すと、大きく息を吐く。
俺は、ほっておけず、弓月の背中をペンで突っつき、声をかける。
「おーい、気にすんな」
「……ん?」
「あいつら、悪気ないから。弓月が空気読めないんじゃなくて、あいつらが説明下手なだけだから。俺も女子のノリなんて、わかんねーし」
弓月は、少しだけ驚いた顔で俺を見た。
「……ありがとな」
「別に」
弓月が前を向いた時、その横顔が、小さく笑っているように見えた。
俺たちは、ずっと前からの友達みたいに、助け合うことも増えていった。
しかし、その数日後、弓月との関係に、小さな亀裂が入る事件が起こる。
6月中旬のある放課後、弓月は、親戚との用事で先に帰ったので、久しぶりに一人で図書館に向かった。ある本を探すために。
それは、カンボジアの公用語のクメール語の入門書だ。
司書に尋ねると、奥の棚から埃をかぶった薄い本を出してきてくれた。俺はその本を手に取りページをめくる。
クメール文字は、日本のひらがなとも漢字とも全く違う、ニョロニョロとした丸みを帯びたデザインだ。読み方も意味も全く分からない。
けれど、夢中でページを捲り、指でなぞっている自分がいた。
これが、弓月の国の言葉か――何故か惹かれるものがある。初めて見たのに変だよな。
家に帰ると、部屋の机でその本を開いた。一文字ずつノートに書き写してみる。何度書いても覚えられないし、発音もわからないけど、手を動かすことが楽しい。絵を描いたりするのと似ているのかもしれない。
弓月の育った国について勉強するのが、最近の俺の趣味だ。世界史の地図を広げて、カンボジアの地名や川の名前など記憶する。自分の知らない自分に、弓月と出会ってから良く遭遇する。誰かに興味を持つなんて、生まれて初めてだし。自分が日々変わっていくのを感じる。
梅雨が本格的に始まり、連日の雨で、空は鉛色に沈んでいる。俺は弓月に、クメール語の本を借りたことを言い出せずにいた。なんだか言いにくくて。勝手に弓月の国の事を勉強したりすることが、迷惑かもしれないと思っていたから。
しかし、ある日の昼休み。弓月が俺の方に振り向き、ふいに言った。
「なあ、サク。お前、何か隠してるだろ」
心臓が跳ねた。バレてる?
「……別に」
「嘘つけ。なんか、最近、サクのノートにクメール文字みたいなのが、書いてあったんだけど」
弓月は俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。隠し続けるのはもう限界か。
「まさか……勉強してんの?」
俺は観念して、頷く。
「……図書館で、本借りた」
弓月は、一瞬きょとんとした顔をする。それから、表情が少しだけ強張った。
「……なんで」
「お前のこと、知りたいと思ったから」
弓月は、視線を逸らした。
「……やめろよ、なんか重いし」
その声は、いつもより低く、どこか突き放すような響きがあった。嫌われるのかな、俺……せっかく出来た友達なのに。不安が頭を過って、どう対応すればいいのか分からない。弓月が小さく息を吐いてから口を開く。
「ていうか、俺もクメール文字とか殆ど読めねーし、もちろん書けない」
「え?」
俺は、驚きすぎて喉がつまった。
「だって、インターでも英語だし、クメール語は片言で、メイドやドライバーと、たまに話すくらいで全然なのに、俺より勉強するってどういうこと?」
弓月は、半笑いで俺に説教を続ける。
「それに、俺、半年しかいないにに。そんな、俺のこと知ろうとしても、意味ねーのに」
そう言って、弓月が笑ってくれたから、俺はほっとして吹き出す。
「そうなのか……ごめん重いことして。少しでも、弓月の国の言葉知りたくて……それと、今の、いないのに、だぞ」
「へへッ、のに、だな。勉強するなら、英語にしろ。教えてやるから」
「うん。そうする。でもクメール語って面白いぜ」
「だから~ なんで、サクの方が俺より熱心なんだよ!」
俺達は笑い合い、無事に和解した。最初、死ぬほど怒られて、もう友達じゃいられないのかなって思って焦ったけど。良かった……。
その日の帰り道、田舎道を歩いている時に弓月が口を開いた。
「……悪かったな。さっき、ちょっと怒ったりして。それに、重いとか……サクが俺のために何かしてくれるのが、嬉しくて、でも怖くて」
弓月は、ゆっくりと続けた。
「俺、半年で帰るじゃん。そしたら、お前が俺のために勉強したこととか、全部無駄になるじゃん。それが、すげえ申し訳なくて、それにクメール語なんて俺も知らない言葉なのに」
弓月の横顔を見てると、本心を伝えたくなる。弓月には嘘はつけないし、自分の想いを知ってもらいたくて。
「……無駄じゃねえよ。弓月のこと知りたいって思ったから、勝手に勉強しただけ。結局意味なかったけど。俺、初めてなんだ。誰かに興味持つとか、生まれて初めてだから。だから、無駄じゃねーよ」
弓月は、目を細めて、微かに瞳を潤ませていた。
「……ありがとな」
その声は、いつもより少しだけ震えてるようだ。弓月はそれ以上何も言わなくて、ただ、少しだけ歩くペースが落ちた気がした。俺もその歩幅に合わせる。
しばらくして、弓月がボソッと言う。
「……お前って、ほんと変なやつだよな」
「ヘヘッ、そうかも」
「でも、そんなお前も……悪くないよ」
なんだそれ。恥ずかしそうな弓月を見てると、俺も同じ気持ちだと心の中で零す。「どんなお前も、悪くないに決まってる」。俺たちは、ただ、並んで帰り道を歩いていく。
別れの時のことを想像すると、泣きそうになってしまった。
梅雨の合間の風が、青葉の香りを乗せて、俺達をやさしく包んでいく。




