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第8夜 【完結】 沈む夜、名を呼ぶ声

 ――《柊木蒼真(ひいらぎそうま)へ》という件名で届いた、差出人不明の一通のメール。


 本文には、日時と場所、そしてただひとこと。


「最後に、話をしよう。君の、正義についてね」


 差出人のドメインは匿名化されていたが、文体と語彙、そして文末のクセが、かつて自分に報告書の添削を返してきた人物と、全く同じだった。


 柊木はそれだけで悟っていた。




 低く冷えた光の中、廃ビルの屋上。


 霧のような街灯が差し込む中、柊木蒼真は、静かにその姿を現した男を見据えていた。


 ――結城玲司(ゆうきれいじ)


 数年前に“死亡”したはずの元刑事。


 柊木がかつて“結さん”と呼び、全身で敬っていた存在。


「……やっぱり、生きてたんですね。(ゆう)さん」


 柊木の声は静かだった。だが、肺の奥で焚かれた熱は、止めどなく滲み出ていた。


 結城は一瞬、口元を緩めた。


「その呼び方、懐かしいな。でも……もうお前に“さん付け”される立場じゃない」


「あなたがいなくなったあの日から、僕の中で、何もかも、すべてが崩れました」


 柊木は言葉を選ぶように、しかし確かな声で続ける。


「――あの事件、覚えてますか。富士見里町の連続殺人。犯人の国木田は表向きには慈善家だった。でも、その裏で若い女性を標的にしていた。僕たちは証拠を積み上げ、ようやく逮捕に持ち込んだ。あなたが、決定的な証拠を見つけたとき、僕は思った。“やっと終わる”って……」


 結城は、一瞬だけ目を逸らす。


 だが柊木はその揺れを見逃さない。


「でも……その証拠は、消された。そしてあの男は、“自殺”として処理された。――あなたの手で」


 結城の影が微かに揺れる。


「……柊木。もうその時には、手遅れだったんだ。お前もわかってただろう?」


「……それでも僕は、法に委ねたかった。信じてたんです。正義を。……そして、あなたを」


「お前は知らなかっただろうが、“国木田”の被害者家族は、俺に感謝の手紙を送ってきた。『あの人が死んでくれてよかった』『また生きていたら、自分が殺していた』と」


「……!」


「世の中には、“法に裁かれない正義”を望む人間がいる。そして俺は、代行復讐と、“正義とは誰が決めるのか”という問いそのものを、国家に突きつけたかった。俺の正義は、まだ誰かの中で生きてる」


 柊木が静かに呟く。


「……じゃあ、それは法の外に生きる正義……?」


「そうだ。“国家が見捨てた正義”は、俺が拾う。それが、俺の答えだ」


 沈黙。


 柊木は、目を伏せたまま、吐き出すように言った。


「あなたが深淵に堕ちたとき、僕の中の“正義”も死にました」


 結城の表情が、一瞬だけ揺らぐ。


 だが次の瞬間――口角をわずかに上げて言う。


「違うよ、柊木。……お前は俺を尊敬していたかもしれないが、あの男を殺すために、俺は最初からお前を利用していただけだ。お前は、俺の正義を執行する“道具”にすぎなかった」


 その言葉に、柊木の身体がわずかに震えた。


「……もう会うことはないと思ってました」


 柊木の声がわずかに掠れる。


「あなたは、亡霊です。僕にとっての、“正義の亡霊”だ」


 そのとき。


 倉庫の奥、影の中から、もう一人の男が姿を現す。


 ――堂島健斗(どうじまけんと)


 暗闇の奥で交わされたすべての会話を、聞いていた。


 柊木の正義。結城の歪み。それを裏切りと呼ぶ苦しみ。


 その全部を、彼は受け取った。


 そして、今。


 息を切らしながらも、その目はまっすぐに結城を捉えていた。


「……結城玲司」


 低く響いた声に、結城が目を細める。


「警視庁じゃ、とっくに“存在しない男”扱いになってる。なのにこうして“地上”に戻ってきたってことは……何か理由があるんだろ」


 堂島は、言葉を吐き捨てるように言う。


「……あんたは自分のやり方で人を裁いた。けどそれは、ただの人殺しだ」


 拳を握りながら堂島が言う。


「俺は……ずっと“柊木蒼真”を見てきた。だらしなくて、ゴミだらけの部屋にいて、でも、あいつの背中はずっと真っ直ぐだった」


 柊木が、一瞬だけ目を伏せる。


「――だから俺は、あいつの過去を知りたかった。今の柊木を作った結城玲司って人間を、俺の目で見たかった」


 柊木が、顔を上げる。


 堂島は言い切る。


「俺は、警察官として――あいつが信じた正義を、引き継ぐつもりです」


 沈黙が流れる。


 結城が、かすかに笑う。


「お前の相棒は……なかなか厄介だな、柊木」


「……僕の相棒ですから」


 結城は静かに両手を差し出す。


「連れていけよ。深淵にいるのも、飽きてきた」


 堂島が、手錠を構え近づく。


 そのとき――


「やはり、まだ青いな」


 次の瞬間、結城が堂島の腹に重い一撃を打ち込み、後方へ跳び下がる。


 暗闇に溶けるように。


「待て!」


「……っぐ!」


 数メートル吹き飛ばされた堂島が立ち上がる頃には、もう姿はなかった。


 柊木が、目を凝らす。


「逃げられたか……」


 堂島が柊木に詰め寄る。


「……何やってんだよ、あんた」


 柊木が驚いた顔で振り返る。


「……一人で全部背負い込んで、勝手に決着つけようとして……」


 堂島の声が、かすかに震えていた。


「壊れちまうんじゃないかって……ずっと不安だったんだよ!!」


 柊木の目が見開かれ、唇がかすかに震える。


「……ごめん」


 柊木が小さくつぶやいて目を伏せた。




 その後。


 掲示板は、翌朝には表のネットから姿を消していた。


 検索しても、リンクを踏んでも、404エラーが返される。


 だが、柊木は分かっていた。


  「“消えた”んじゃない。“沈んだ”だけだ。……もっと深いところに」


 ダークウェブの奥へ逃げ込んだその掲示板は、いまや誰が見ているかも分からない。


 リストの更新は止まったが、アクセスは生きている。


 一方、逮捕されたMASKの中には、かつて公安に所属していた者が複数いたことが密かに確認された。

 しかし――その事実は、一般に公表されることはなかった。


「国家の面子と、真実と、どっちが重いんだろうね」


 柊木はそう言って、苦く笑った。




 ある日の午後。


 23区内で、ある男の遺体が発見された。


 死因は薬物。


 自殺と断定。


 男の名前は、見覚えがあった。


 あの掲示板の“粛清対象”リストに、かつて並んでいた名前。


「……俺たちは、本当に終わらせたんですか?」


 堂島の問いに、柊木は一歩、歩き出しながら言った。


「……終わってない。けど――“止めようとした人間がいた”って記録だけは、残る」




 東京の夜景が広がる中、ふたりの背中が並んでいた。


 堂島が口を開く。 


「……本当は、俺も分からないんですよ。法治国家の正義が、いつだって正しいなんて、胸を張って言えない。でも――」


「でも?」


「それでも、俺は“誰かを殺さない正義”を信じていたい。……あんたが、そうだったように」


 柊木は笑わない。


 ただ、まっすぐ前を見たまま小さく頷いた。


「……答えなんて、出ないのかもしれない。だけど、君が隣にいてくれるなら。僕は――まだ、進める気がするよ」


 風が吹く。


 ふたりのコートの裾が、音もなく揺れた。


 柊木がゆっくりと足を進める。


 堂島も、言葉を交わさずにそれに続いた。


 寒空の下、ふたりの影が並ぶ。


 かすかに交わる歩幅の中に、まだ答えのない正義が、確かにあった。






「深淵を覗く者は、その深淵にもまた覗かれている」

 ― Friedrich Nietzsche





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― 新着の感想 ―
ブロマンス小説を探していてこちらの作品を見つけました。 若き熱血刑事と探偵のコンビ?による捜査、とても興味深く読ませていただきました。柊木に疑いを誘導するために仕込まれた小細工、下手をすれば堂島が引…
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