第3夜 正義の亡霊
室内の空気が、少しだけ重くなる。
柊木はカップを置き、深くソファに体を預けた。
「富士見里町の事件――君もさっき言ってた通り、犯人は表向きは慈善家だった。でも裏では、複数の若い女性を強姦し、殺していた。僕らは証拠を集め、追い詰めた。……つもりだった」
堂島は黙って聞いていた。言葉を挟むタイミングがないくらいに、柊木の声には、普段とは違う“静かな圧”があった。
「……最終的に、起訴には至らなかった。裏に資金と政治が動いてた。証拠は潰され、検察は動かず、上は“忘れろ”って」
柊木は目を伏せる。
「でも、その直後に、そいつは死んだ。自殺……そう報道された。僕が現場に駆けつけたとき、彼はもう倒れてて、その横にいたのが――結さんだった」
「……結城玲司」
堂島の声が落ちる。
柊木はゆっくりと頷いた。
「彼は言った。“これは事故だ”って。でもその目は……迷いがなかった。正義のために、彼は人を殺したんだと、僕はすぐにわかった」
堂島の手が、グラスを軽く握る。
この男が、“法を捨てた正義”に触れていたこと――
それが、彼をどう変えたかを想像しようとしていた。
その日の午後、柊木の事務所には珍しく静けさがあった。
テーブルの上には、過去の不審死事件の資料が広げられている。
堂島はプリントアウトした掲示板の断片を睨んでいた。
「この書き込み……犯行前に対象の名前を晒して、投票まで取ってる。“誰を殺すべきか”って……そんなの、もう立派な犯行予告だろ」
「警察が動けない限界を、皮肉のように突いてるね」
柊木はそう言いながら、無造作にコーヒーを啜る。
堂島はさらにプリントをめくりながら、眉をひそめた。
「複数人の関与はほぼ確実だ。なのに、“運営者”が誰かって情報が一切出てこない。組織名もない。単なる匿名の集団なのか……それとも」
「あるよ、名前」
柊木が静かに言った。
「“MASK”」
堂島が顔を上げる。
「……なんですか、それ」
「掲示板内やダークウェブの一部で使われている通称。“Manifold Anonymous Syndicate for Karma”――略してMASK。意味は“因果を正すための匿名の集合体”ってところかな。まあ、後付けっぽいけどね」
「……つまり、“MASK”ってのは、あいつらのコードネームか」
「コードネームというより、“肩書き”に近い。誰でも名乗れる。“MASK”を名乗った時点で、その思想に加担したことになる」
堂島は手元の資料を見つめたまま、呟くように言った。
「つまり――“正義の仮面”をかぶっていれば、誰でも人を裁けると。……どこまで腐ってんだ」
柊木は、にやりと笑った。
「そう思うなら、深く覗き込まない方がいいよ。正義って言葉は、案外、底なし沼だ」
数日後。
堂島と柊木は、掲示板関係者とされる人物を尾行していた。
場所は神田。午後の雑踏に紛れて、男が商業ビルへ入っていく。
「……今のが、 “MASK”ってやつか?」
堂島が小声で尋ねる。
柊木は歩きながら、ポケットから皴だらけの紙を広げた。
「可能性はある。正確に言うと“MASK”は個人名じゃなくて、思想に共鳴したネットワークの総称。中心にいるのは結さん……結城玲司。でも彼一人じゃここまで大規模にはならない」
「……ネット掲示板で私刑の対象を炙り出して、それを“正義”だと信じてるわけですか」
「そう。“法じゃ裁けないなら、我々がやる”って。中には元警察官、司法系、報道系、民間の情報業者もいるって話」
「マジで……思想犯のネット版みたいなもんだな」
「うん。でももっと面倒なのがね、彼ら、自分を“破壊者”だとは思ってないの。むしろ“補完者”だと思ってる。法が拾えなかったものを、自分たちが拾うって信じてる」
堂島の表情がこわばる。
「……それ、正義じゃない。ただの暴力だ」
「うん。僕もそう思う。でも、彼らにとっては“真っ当な補完”なんだ。社会を良くするための、最後の手段。……だからこそ、話が通じない」
男の姿が建物に消えたのを確認し、堂島が目を戻すと、いつの間にか柊木が道端の立ち食い牛丼屋の前に立っていた。
「……え?」
「ちょっと早いけど、昼にしよっか。僕は大盛り。君は……並でいい?」
「今、尾行中なんですが……」
「うん。でもね、これ、尾行っていうより観察だから。見てるだけでいいの。尾行してるの、君だけだよ。僕は“昼ごはんを食べに来ただけ”だから」
「あんた、事件を完全にナメてます?」
「いやいや、信頼してるんだって。“堂島くんが見てくれてるなら大丈夫”って」
「そういうの、信頼じゃなくて“丸投げ”って言うんですよ」
柊木は笑いながら、ポケットから折り畳みの割引券を出す。
「……ねえ、これ使えるから。牛丼、80円引きだって」
「……もう、わかりましたよ。行きましょう。どうせなら味噌汁もつけてください」
「わぁ、いいねえ」
牛丼屋に消えていくふたりの後ろで、さっきの商業ビルの屋上に立っていたひとりの男が、双眼鏡を下ろす。
フードをかぶったその男の手元には、スマートフォンの画面。
そこにはこう表示されていた。
> MASK-03:尾行中の捜査員、確認済。警戒を継続。