第1夜 沈む正義
都内・文京区、老朽化したマンションの一室。
冷え切ったフローリングの上、遺体がうつ伏せに倒れていた。
傍らには睡眠導入剤の空シート。
台所には、未開封の郵便物と、テレビのリモコン。
物音一つない、生活の名残だけが転がる空間だった。
捜査一課・第七係。連続不審死事件捜査本部。
会議室では、すでに三件目の“類似死”が議題に上っていた。
手段はそれぞれ異なるが、いずれも自殺とされ、被害者はすべて“過去に不起訴となった事件関係者”だった。
「動機なき死。遺書なし。偶然か、それとも何かの意図か」
堂島健斗――警視庁捜査一課の刑事は、その中でも最年少に近い立場だったが、事件の関連性にいち早く疑問を抱いていた。
上司は「繋がりがあると断定するには証拠が薄い」と渋る中、堂島は独自に調査を進めていた。
「……不起訴になった事件。判例データ……。この名前……」
手元の資料をスクロールする指が止まった。
複数の不起訴事件の捜査資料に、ある一人の警察官の署名が残っていた。
柊木蒼真――元捜査一課刑事。現在は退職。
堂島はさらに裏を取った。
柊木は三年前、ある事件を最後に退職し、現在は風俗街近くの一角で探偵事務所を構えているらしい。
現在の住所は、築40年超の雑居ビル最上階。
「なぜあんたの名前が、こんなに残ってる……?」
堂島はコートを掴み、椅子を蹴るように立ち上がった。
「……行くか」
風俗街の一角。
色あせた看板と、外壁に沿った垂直の非常階段。
夜でも人の出入りはあるが、決して“活気”とは言えない薄暗い通り。
その奥――築年数の読めない雑居ビルの最上階に、その事務所はあった。
白いプレートに、黒字で小さくこう書かれている。
「柊木探偵事務所」
ドアをノックすると、数秒の沈黙の後、がちゃりと内側から鍵が回る音がした。
「はーい……はいはい、どうぞー」
現れた男は――寝癖がついた髪を手ぐしで押さえながら、ヨレた白シャツの上に古いベストを羽織り、ネクタイはゆるゆる。
探偵、柊木蒼真。
かつて“警視庁の観察眼”と呼ばれた元刑事とは、思えない姿だった。
「……堂島健斗と申します。警視庁捜査一課の者です」
堂島は名乗ると同時に、室内を一瞥した。
積み上げられた資料、空になったカップラーメン、脱ぎっぱなしのジャケット、テレビのリモコン、そして灰皿――。
「……あなた、もう少し部屋を片付けたらどうですか」
「君、そんな小言を言うために来たわけじゃないでしょう?」
堂島の口が、わずかに引き結ばれた。
「俺は、あなたを今回の事件の関係者だと見ています」
その言葉に、柊木は口元だけで笑った。
「さあ、それはどうかな」
柊木はソファにくたりと腰を下ろし、机の上から水入りのグラスを手に取る。
「ま、座ったら? 客は久しぶりだから、せめて水くらいは出すよ」
「……失礼します」
堂島が腰を下ろすと、椅子がきしんだ。
空気が少しだけ張り詰める中、堂島は言った。
「俺たちは、連続する不審死事件を追っています。被害者はいずれも、過去に不起訴となった事件の関係者。その複数の案件に、あなた――柊木さんの名前が記録されていた」
柊木は口を閉じたまま、指先でグラスを回す。
「……調べたんだ、僕の過去」
「ええ」
「そしてこんなところまで単身で来た。無防備だねぇ」
堂島はその視線を逸らさず、続ける。
「俺だって、命を賭けて捜査してるんですよ」
柊木はグラスの中を覗き込み、それからふっと息をついた。
「……ふぅん。面白いね、堂島くん」
「何が、ですか」
「その目だよ。“まっすぐすぎて、すぐに擦り切れそう”な目」
堂島が何も言わずに睨むように見つめ返すと、柊木は肩をすくめて笑った。
「安心して。僕は“君の敵”ってわけじゃない。今のところは、ね」
「で、具体的には僕に何を聞きたいの? “何か知ってるんじゃないか”ってだけじゃ、質問が雑すぎるよ」
柊木がテーブルの上の書類をどけ、代わりに自分の足を載せかける。
堂島は反射的に目をしかめた。
「ごめんごめん、癖でね。リラックスしないと喋れない体質なんだ。――で?」
堂島は一度深く息をつき、懐からタブレット端末を取り出した。
掲示板のキャプチャ画面と、過去の不起訴者リストが表示されている。
「あなたが関与した複数の事件に共通して、不自然な自殺や変死が相次いでいます。……正直、偶然とは思えない」
「じゃあ、“元刑事が復讐代行をやってる説”でも立てる? ……でも残念、僕の体力じゃ二階建ての階段でも息切れするよ」
「笑い事じゃありません」
堂島がピシャリと返すと、柊木はグラスを置き、軽く首を傾げた。
「……君、本当に真面目だね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「いや、半分は心配だよ。“正義感強すぎて早死にする刑事”って、昔から一定数いるから」
堂島は返す言葉を探して口を閉じかけたが――
ふと、何か思いついたように問い返した。
「じゃあ、あんたは違ったんですか? 正義のために動かなかった?」
柊木の目が一瞬だけ動く。
だがその次の瞬間には、いつもの揶揄するような笑みが戻っていた。
「うーん……どうかなあ。僕、昔から“ちょっと人を信じすぎる癖”があってね。
信じた人が裏切ると、すっごく落ち込むタイプなの。困るよね」
「……それ、完全に実体験ですね」
「そう。しかも何回もやってる。学ばないんだ、これが」
沈黙が一拍。
その間に堂島は、柊木の手元の資料の端にメモ書きされた古い捜査番号を見つける。
「その番号――平成28年の富士見里町の事件。あなたが主任捜査官でしたね」
柊木の目が、再び止まる。
「……君、情報の掘り方が刑事じゃなくてストーカーに近いよ」
「一課ですから」
「そっかあ。一課ってストーカー気質で採用してたんだ。知らなかったな」
堂島がため息をついたそのとき、柊木がふと真顔に戻って、堂島をじっと見た。
「君さ、本気でこの事件、追うつもり?」
「当然です」
「捜査本部の人間が、ここに一人で来るって、なかなか命知らずなことしてるよ。上は多分、“手を出すな”って空気なんじゃない?」
堂島はわずかに目を伏せ、声を落とした。
「……言われました。“深入りするな”、と。何度も」
柊木はその言葉に、口元だけで笑ってから、グラスを持ち直した。
「うん。やっぱり面白いよ、君。堂島くんって言ったっけ。“面倒見てあげたくなるタイプ”って、久々に出会ったかも」
「いえ、けっこうです」
「ほら、ネクタイ曲がってる」
そう言って柊木が堂島のタイに手を掛ける。
「……やめろ」
咄嗟に堂島がその手を払おうとするが、逆に掴まれる。
「ふふ……」
柊木がにっこり笑った瞬間、堂島は思わず目を逸らした。
それを見て、柊木は少しだけ、楽しそうに肩をすくめた。