ツキノコ
こちらは、「月のお話し企画」の作品です。
僕が狂愛する“推し”は、月から来たらしい。
それを知ったのは、昨日の配信の事である。
「私はね、月から来たの。だから、次の満月の番に月に帰らないといけないの。」
通常の人間であれば、こんな発言は「そんな訳ないだろ」と一蹴するところだが、今の僕にはそんな判断力も残っていなかった。
同時に発表していた「アイドルを辞める」という発言は、鼓膜までのどこかで落としてしまったようだ。誰もいないコンサートホールみたいな寂しい空間に、寂しい音が力無く響くだけ。
やがて僕の元へ届いた“音”という名の現実が、まるで鉄のハンマーのように頭を叩き、次の壁へと去っていく。
「そうか…。月に帰るのか。あはは……。」
口から吐いた音は言葉になるにはあまりにも儚く、意味もなく喉をすり減らす。
四肢の力は完全に抜け、水へと沈むみたいに意識と光が遠のく。
僕と彼女が出会ったのは、3年前の事だ。
当時高校2年生で変化のない日々を過ごしていた僕は、ネットの人気アイドルオーディション番組に釘付けになっていた。
ずっと褪せないこの企画は現代になっても未だ健在で、新たなアイドルの誕生と夢を叶えんと奮起する若者の姿に皆、心打たれていた。
初夏とは名ばかりのある日、世間は今宵のスーパームーンの話題で持ちきりだった。マスコミは「1000年に1度」と謳ってなんかいるが、そのキャッチフレーズは家の40年前の新聞で見た気がする。
そんな事を考えたりしながら、いつも綺麗にカットされる林檎をシャクシャク食っていた。
いつもの空虚な通学路はやっぱりいつも通りで、新しい電波塔の建設の進捗を斜めに見たりする。
学校もやはりスーパームーンとオーディション番組の話題で持ちきりだった。俯瞰で見るつもりだった僕も、その両方を念頭に置きっぱなしにしたまま今日を始めた。
あっけなく終わった日は、決まってカフェに寄る。とはいえ制服のままコーヒータイムなんて嗜む勇気はなく、奥にギュッと押し込んだお気に入りの新作文庫本を薄い財布で隠す。
紙製のコップに入ったアイスコーヒーを気にしながら、やや小走りで帰る。楽しさで疼く歯をキュッと噛み抑え、右にばかり片寄るリュックを少し左に戻す。家に着いた僕は、自室に飛び込んだ。
怠惰の極みを頂くべく、手際よく準備を終わらせる。
フカフカの抱き枕を横に抱え、小説に手をかけるなり軽い時間旅行を始めた。穿った視点とセンスフルな言語表現が魅力的な小説家の新作小説は、たちまち時計の針をくるくる回し出す。
時代に似合わないベージュの紙は“月を隠した”。
ブー…、ブー…、ブー…。
携帯のアラームが僕の意識を無理矢理に引き戻す。3時間弱過ぎたみたいだ。純情な恋愛にうっとりした脳は、感覚のいずれもを掴んでは緩く離していてる。酒気を帯びるとはこういうものなのだろうか。
柄にも無い恋をしてみたくなった気持ちは僕の身体中を刺激し、膝がスッと伸びる。脚のシビレにも気付かずに歩き出す。
リビングへと踏み下ろした足は違和感を感じ取った。
母が料理をする音が聞こえない
父が愚痴を呟く声が聞こえない
いつもは伝う振動は何処へやら、ネット番組の音がリビングを支配している。肩幅分開いたドアから覗いた室内は、異様な空間だった。
エプロン姿の母とスーツを脱ぎかけの父が、固まっている。
驚きと気味悪さに染まる僕を、一瞥もすることなく画面に食らいついている。恐る恐る視線の先を追った僕は、驚愕した。
慣れ親しんだアイドルオーディション番組、候補生が一列を成すお決まりの光景。
15人ほど並んだ女性の右端に、とんでもない美人がいた。
いや、美人では形容に荷が重い。「美」の概念そのものである。
その瞬間、僕は人間として生を受けた意味を知った。
透き通った白い肌はスタジオの証明を忠実に反射し、加工を疑ってしまうほどに綺麗である。
背中の中腹にまでなびく髪は、艶やかな黒だが一般人のそれではない。本人の頷きを指揮に、波が可視化されて毛先に響いては揺れる。
一歩引いて映った光景は正に異質であり、有象無象の14体を置き去りにして光を放っている。同じ人間として扱うのはあまりにも恐れ多く、もはや生物としての格の一切が違う。
審査員が少しどもりながら口を開く。
「えーでは左の方から1人ずつ1分間程度で自己紹介をお願いします。」
正直、この後の14分間は覚えてない。
読んでいた筈の小説を、いつの間にか文字をフカしていたような感覚に近い。世界一無駄な時間と言っても差し支えないだろう。
僕が思うに、全人類が待ち望んだ瞬間は定石通りやってきた。
「初めまして!“かぐや”です!アイドルがやってる事は一通りできます!よろしくお願いします!」
数拍の間を割り、液晶の内と外は拍手に包まれた。
驚くほどに簡素で、ありきたりで、陳腐で、凡庸なそれは
驚くほどに僕たちの心をグッと掴んで離さない。
それは僕以外も同じだったらしい。
スーツでビシッと決めた審査員も、他の候補生も皆ボケーッとして、ウットリして彼女を見つめた。
60秒間に情報を詰めに詰めた子が耳まで赤くする程である。
その後は言わずもがな、彼女の独壇場だった。
当たり前である。大の大人が時間とお金をかけ、調整に調整を重ねて作り上げるCDのクオリティを、いとも容易く生歌で出されてしまうのだ。これには現役アイドルの審査員も、俯いてため息みたいな苦笑いを零すばかりで、画面外のスタッフの驚嘆の声すらがハッキリと聞こえる。
カメラマンは彼女を映すばかりで、他の候補生の顔を覚えさせる気がないらしい。
これにはスーパームーンも、敵わないなといった表情で山の袖へと帰ってしまった。
次の日の目覚ましは散々なものだった。
アラームよりも通知を吐き出すのに精一杯な携帯は、熱を持って僕に異常を伝える。あのサイトもこのアプリもそのSNSも、上から下まで彼女の事を見出しに置いている。
“一晩”いや、“一番”にして溢れ出た彼女の魅力を、世間は我先にと理解しようとする。連日どこのメディアも、彼女はどこから来たとか、彼女はどこの事務所に行くのかとか、身長体重とか、ある事ない事迷い事を、唾混じりに語った。
結局は国内最大手の芸能事務所が「10桁の契約金」という超高待遇と引き換えに、無名新人の姫を迎え入れる事になる。
次の週にはデビュー曲が配信され、たちまち記録を端から塗り替えていった。我が国に代々伝わる不朽・不動の名作に初めて土をつけたのが“アイドル”とは、神はとんでもない皮肉家だそうだ。
彼女の素晴らしい所はそれに尽きない。
洗練されたダンスで、僕たちはまた彼女に惚れることになる。
彼女の妖艶で力強く、それでいて繊細な姿に失神する者も現れるほどで、海の向こうの新聞では
「“Female Michael Jackson” was born in Japan
(女性版マイケル・ジャクソンが日本で生まれた)」
なんて書かれるくらいになっていた。
スーパームーンの日に現れた事と名前も相まって、「かぐや姫」と呼ばれる事になった。名だたる有名人が雁首揃えて自身をアピールする絵面は、さながら竹取物語そのものだ。
バラエティ番組に出た彼女もまた愛らしく、持ち前の性格の良さと隠し味の天然で、人をまた人間へと戻してしまう。
彼女の顔を見ずに生活する事が困難になったこの国で、今日も僕たちは彼女の顔に姿に声に性格に依存して生きていた。
かの有名な「蜘蛛の糸」のように、皆が皆見えないゴールに奮闘するそれは、本能の縮図とでも言おうか。
そんな僕たちの光の糸はプツンと音を立て消えた。
耳に差し迫った水滴の不快感が、現実へと引き上げた。
どれくらい眠っていたのだろうか。
カーテンの向こうはもう暗い。きっと深夜に差し掛かる頃だろう。
3年前から集めていたグッズの隙間から、アパートの白い壁がチラチラ見える。携帯はいくつかの不在着信を記録していた。
「そうか…、今日シフトあったわ……。」
言い訳は四畳半の部屋を反響する。
ベランダの洗濯物は、酷く凍えていた。
バイトの事などとっくの昔に吹っ切れ、つま先と指の寒さを誤魔化すように手足を交合わせる。
僕はこの季節が好きなんだ。
彼女もとい“かぐや”の誕生日がもうじきある。
生憎、苦学生の僕は配信をコンビニのショートケーキ片手に見守ることしかできない。
まだ抗う午後2時の夏と朝6時の冬の間で悩ましくも振り回される僕は、それをホットココアで軽くあしらう。
遠くの方で偉そうに立つビルの隙間から月が見えた。
彼は、後1週間ほどで本来の姿を魅せる。
空気が存在しない空虚な空間に、遥か彼方より光の粒子が反射する。僕らはそれを新月だ、上弦だ、下弦だと言うのだが、今はもうどうでもいい。彼女は彼の元へ帰ってしまう。この言葉が何を意味するのかは分からない。
このカラフルな半生から色が消える。
その事実は僕の眉間を撫でては、目頭を熱くする。
スポットライトに神々しく照らされる姿に
クイズ番組で真面目な顔で珍回答を連発する姿に
高い所も暗い所も楽しんで挑む姿に
時折見せる憂いを帯びた純情な姿に。
彼女の歴史は、そのまま僕の青春だった。
彼女に少しでも近づこうと、このコンクリートジャングルに入ったほどだ。厳しい机の上の冬も乗り越えられれた。
だが彼女が月に帰ると言った今、駅から大分離れた薄い壁のボロアパートに苦学生が1人という事実しか残らない。
彼女は僕の横で笑ってくれる訳じゃない。晩ご飯を作ってくれる訳でも、寝坊しないように起こしてくれる訳でもない。
いくらホログラムの技術が向上しようと、僕は彼女に指1本触れられない。僕が彼女の事を1日中意識していても、彼女が僕の事を意識する時間は刹那の隙間もない。壁にでかでかと貼られたポスターはどこまで行っても2次元で、z座標は0のままそこに重鎮する。
そんな当たり前の事すら意識した事がなかった。
そうか…僕は…恋をしていたんだな。
無礼にも程がある身の程知らずの慕情に初めて火が灯った。
忘れていた3年前の夢が今宵叶った。
冷蔵庫からワインを取り出す。
1本1000円ばかりの安物だが、今の僕にはおあつらえ向きだろう。
喉を優雅に通過していった赤ブドウのアルコールは、恋で弱った脳によく効いた。
月が満ちた。
触れることを許さない夜空の姫が、自分の存在を下民に知らしめるかの様に、雲一つない快晴の上半分に深く座する。
僕は凄く冷静だ。とてもとても。この上なく冷静だ。
そんな僕は今、警視庁へと向けて自転車を必死に漕いでいる。
その理由は至って単純だ。
警視庁の建物の屋上に、彼女がいるのだ。
ぐーたら過ごしていた僕の元へ、先程速報が来た。
トップアイドルの“かぐや姫”が今にも飛び降りかねないと。
現場は事態の収集に急ぐ警察関係者と、彼女の安否を心配したファンでごった返しているらしい。
自殺…なんかは考えられないが、動かずにはいられない。
錆び付いたペダルとチェーンをガシャガシャ音を立てながら、夜の街を駆ける。
ハッ…ハッ…ハッ…
ハァッ…ハァッ…ハアッ…
ゼェ…ゼェ…ゼェ…
徐々に伸びていくコンクリートの箱に
徐々に明るくなる道路に
徐々に人騒がしくなる空気に
徐々に固くなり痛み出す脚に
徐々に早くなる鼓動の中に、
青年は少年の頃の記憶を思い出す。
砂ぼこりを纏った小麦色の肌に、滴る汗が軌跡を作る。
とびっきりの笑顔を交換し合った女の子。
半球と成長のグラデーションを眺める映像は、ある所で終わりが来る。
「夜逃げでもしたんじゃないか」
「普通の家族に見えたけどね」
「変わった子どもだったしね」
「本当にあのお母さんから生まれたのかしらね」
うるさい。
「また明日も遊ぼう」
その明日が永遠に来ないことを知っていたなら、約束なんてしなかったのに。
分かった
僕はあの子に恋をしていたんだ。だからいなくなって10年経った現在でも僕を泣かせるんだ。大切な人を失うのが怖いんだ。
そして今、それがまた起こるかもしれないんだ。
やっと理解出来た“自分”は、驚くほど単純だった。
好き
大好き
どこにも行かないで欲しい
失いたくない
論理と屁理屈で武装しても僕は人間なのだ。
本能に逆らって現代人ぶるなんて出来やしない。
人も空気も冷たい東京の中心に、真夜中とは思えないほど人がいる。
皆、年齢も容姿も格好も性別も雰囲気も違う。
だけど、この人達は僕と同じ事を考えているのだろう。
警視庁本館を中心にブラックホールが発生したように人の層が出来ており、その向こうでは米粒の大きさの警官たちが警棒を一生懸命に振っている。
文字通りの人ゴミを両手で掻き分ける。
正常な思考はもう捨てた。とにかく今はあの頂上に行かなければ。
「おい!止まれ!」
バチッ
警棒が頬を蹴っ飛ばす。
僕の人生史上初めての警察からの暴力は当たり前に痛かった。
耳にも触れてしまったのか、しばらく左耳の聴覚が消える。
鼻の中が鉄の匂いで満たされた。
けれど、今の僕にはそんな事関係ない。
ウワァァア!
股の間をすり抜け、窓ガラスへとダイブする。
大きな音と破片が、共に廊下へと響き渡る。
そこからはあまり覚えていない。
非常階段をただひたすらに登り続けた。
2回の深呼吸を置いて、重い扉を開けた。
瞬間、突風が僕を覆い包む。気圧の影響からか、今更になって傷をヒリつかせる。
柵をいくつか飛び越えた先に、いた。
月をスポットライトにする、地上の月姫が。
振り向いた彼女はニヤリと笑った。
「やっと迎えに来てくれた、待ってたよ…健ちゃん。」
驚いた。
理解が出来なかった。
液晶越しに光り輝くかぐや姫が何故僕の名前を知っているんだ?
「えっ…、えっ、僕のこと知ってる……んですか?」
「なーに言ってるの?小さい頃一緒に遊んでいたでしょ?」
?
狐につままれたような僕に、少し呆れ顔の彼女は言った。
「“こうき”って言ったら分かるかな?」
分かる。分かりはする。
僕の突如として消えた幼馴染、“こうき”。
だがあの頃の記憶の女の子とは似ても似つかない。
「本当に“こうき”なのか?」
「うん…、そうだけど、私の本当の名前はね、“かぐや”って言うの。
月に咲く華の姫って書いて“月咲華姫”って読むの、馬鹿みたいじゃない?」
何も言えなかった。憂い気な顔の彼女は続ける。
「私たちが子供の頃、カグヤソウってあったよね?」
「あ…、あぁ、あの…。」
「私のお母さんはね、私がお腹の中にいた時にカグヤソウを食べちゃったんだって。この意味が分かる?
私は、月から来たんだよ。」
「何を言ってるの?」
「お月様の人が、お母さんに、子供を授けて、カグヤソウで、カグヤソウ、公安、警察、国の、税金、新たな、コウホデ、オカネガ、イッパイ…」
気づけば、彼女の元へ走り出していた。
一歩間違えれば真っ逆さまなこの場所で、僕は彼女を抱きしめた。
「もう喋らないでいい、お疲れ様、こうき。」
彼女は僕の胸の中でただ黙って涙を流した。
しなやかで美しい手の中に、赤い判子のある書類を見つけた。
「健ちゃん、ツキニカエロウ…
風も声も痛みも止んだ夜の最高潮に、
僕らは月に飛び立った。
松葉杖をつきながら歩いた。
ポンポンポンと響く会場は、感情の海になっていた。
こうきが握りしめていた書類は、国家の重要機密だった。
一昔前に、世間を賑わせた“植物”は国の研究機関が生み出した、人工植物だった。キノコの一種であるそれは、国民に美しいと見初められることで、利権を得ようという算段だったらしい。
時の大臣や研究者が根こそぎ逮捕、拘束、拘留された。
中には、自ら死を迎え入れる事で、世間からの糾弾を逃れた者もいるらしい。
こうきが言おうとしていた事は本当で、世にも美しい植物を新たな依存物へと化し、税金をふんだくるといった企みは、全て白日のもとに晒された。
こうきの脳は、3分の1が液体になっていたらしい。
飛び降りた先の人たちのおかげで僕は助かった。
そう…、僕は。
桐の箱の中では、こうきが笑顔で眠っている。
またこうして僕は大切なものを一つ無くした。
こうき、遊ぼうよ
桐の箱に紅い飛沫がかかるのを最期に見た。