表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

第九話

 傷ついた身体を引きずって……などと、悠長なことはしていられない。

 一歩ごとに肉がにじみ、散るのも構わず私は進んだ。

 枝から枝へ、あの主がやってみせた小器用な真似はできない。たとえ試そうとしても、枝にぶら下がって体重をかけた時点で、私の腕と胴体が物別れをする時だ。

 このままでいい。

 実際、あの時見たように、木々はいよいよ肩を寄せ合い、まだ残る陽の光をどんどん葉で隠していく。

 目指すべき場所は、もう近い――。


『かえして』


 不意に届いたその声とともに、左の足首がぐっと掴まれる。


 ――弟妹たち、ついにここまで!


 と、一瞬思ったものの違う。


 足首を掴む腕は、いかなる胴体からも生えていない。

 地面。先のゴツゴツした岩場がなりを潜め、柔らかい土が大半を占め始めた土より、腕は伸びていた。

 その根元は、わずかにも土を掘り返してはいない。そこへ置き去りにした腕を、地面に貼り付けたかのごとくだ。正しく、腕は生えているのでは、伸びていたんだ。


 悪いが、構ってはいられない。

 ガツン、ガツンと右足で蹴りつけ、何とか引きはがしたが、履いていた靴下もろとも、足首の後ろ側の皮をちぎり取られた。もし神経が生きていたのなら、その苦痛にのたうち回るほどだったかもしれない。

 どっと、漏れ出す腐肉。その深手ぶりを確かめながらも、私は前へ進んでいく。


『かえして』

『かえして』

『かえして』

『かえしてかえしてかえして……』


 あの川をあがった時と、似ている。

 いまや腕は足元ばかりじゃない。周囲の木の幹、集まった葉たちからも、何本も飛び出して、私につかみかかってきたのだ。


 どこから来るか、私にはまるで読めない。

 ひたすら対症療法するよりない私は、掴まれてより強引に引きはがし、なお進むしかなかった。

 自分を構成する、肉を一緒に引き渡しながら。

 すでに私はほぼ全裸体だ。服の生地はほとんど残っていない。

 かといって、俗にいうあでやかさとも遠いだろう。そこかしこに肉をちぎり取られ、ぼとぼとと腐り肉を垂らし、どうにか走る姿など目を背ける者の方が多いのではなかろうか。


 ――まったく、強引な奪衣婆もいたものだな!


 いまや三途の川と化さんとしているあの川の、尖兵といったところか。

 すでに衣服とともに持ち去った、大金の入った財布。あれが六文銭にも足りないとは、さすがは欲の権化といったところか。

 かといって、元は川底にあっただろうこの肉たち。すべてを返してやるわけにはいかない。



 見えた。

 いまや夜のように閉ざされたこの空間にそびえ立ち、熊さえ立って通れてしまいそうな高い根上がり。

 やや斜面を下ったところで、ぽっかりと開いて待ち受けている。


『かえして』

『かえして』

『かえして……』


 もはや前方以外のあらゆる方向から、懇願の声が聞こえてくる。

 そう足の真下からも。


 行くしかない。

 斜面の下り坂。その段差を生かし、なかば身を投げ出すように前方へ宙返りをする。

 斜面に沿って、腕が次々と槍のように突き立っていく。私は回る視界の中で、それらを確かめながら飛び越していった。

 着地と共に、またいくらか肉が飛び散る。

 もはや両足は靴を履いた足先と、太ももより上しかまともな部分は残っていない。

 先の散りでまた、こぼれた肉の下からのぞくのは、緑がかったこけのごとき色の骨格。明らかに、人の持つそれではなかった。


 構わない。もう私の鼻はじかに、あの香りをとらえている。

 兄の車、そしてあの主の記憶に見た、「帰り道」の香りを。

 傷つき、奪われかけているものとは思わぬほど軽く、身が動いた。

 根上がりの下、細い根たちが成すのれんたち。それに巧妙に隠された暗がりの空間を、私は鼻を頼りにまっすぐ探り当てた。

 足と同じく、ほぼ中身がむき出しになった肩から、突っ込むようにして中へ飛び込んだ。



 彼らの声が、ぱっと消えた。代わりに、耳へ飛び込むのは小さな水のせせらぎのみ。そして身を包むのは懐かしき肌ざわり。

 一歩を進むごとに、身体に残った肉が一片、また一片とこぼれ落ちていく。その代わりに、私の身には清流を思わせる冷えが、うるおいが満ちてくる。

 これで、いい。

 ここより先は、聖なる域。俗にまみれ、しかもかりそめの肉体では、立ち入ることを許されない。

 あるがままに戻る。それが、私が帰り道を踏む条件。

 かすかにきしむ、石のような音を聞きながらなおも進む私に、あのとき見た空間が広がった。


 壁代わりの土、柱とカーテンの双方の役割を果たす根たちに囲われた、空間。その床は切り株を思わせる、巨大な年輪を思わせる模様が浮かんでいた。

 いまやせせらぎは間近に聞こえる。

 よたよたと、そこへ歩み寄り流れ出る清流にその顔をうつす。

 男とも女ともとれる、前髪で目が隠れるか否かといったショートボブ。中性的な顔立ちを持つ「ゆうき」はもう、そこにはいない。


 ほぼ苔に覆われた、石の顔と身体。

 頭はすっかり丸まっており、その額に浮かぶ右巻きの毛は白毫に他ならない。

 人はその容姿を、こう評するだろう。

「お地蔵様」と。


 そうだ。私は御仏の信仰あついころに、ここへ据えられたのだ。

 当時より行われた川の大工事。その犠牲になった者、人柱となった者が化けず、迷うことなく、帰るべき場所へ帰ることができるよう祈りを捧げられて。

 それがいつの頃だったか。地域を襲う大きな地揺れが、この空間を砕き、揺らして私をこの流れの中へ転がり落としてしまったのだ。

 もとより自然の結果を受け入れるよりないわが身。それも御心であるならと、流されるまま水底で長く、長くまどろんでいたような気がする。


 もはや私を知る者は、この現世にいないかもしれない。

 しかし、あのように苦しむ衆生を目の当たりにしては、救いを差し伸べるのが地蔵菩薩たる私のつとめ。

 水のせせらぐその源あたりに、私は足を深く深く突っ込んだ。

 もう横たわり流されることのないよう。

 この水を伝い、私の念がすべての命へ届くように。

 流れに逆らい、私の内を瞬く間に満たすのは過去、現在、あるいはこれから悟りを開くであろう多くの未来さきが、私の下へ集ってきた。

 その導くべき先、違えはしない。迷いはしない。


 ――おかえりなさい。そなたらの命の、あるべき場所へと。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ