第九話
傷ついた身体を引きずって……などと、悠長なことはしていられない。
一歩ごとに肉がにじみ、散るのも構わず私は進んだ。
枝から枝へ、あの主がやってみせた小器用な真似はできない。たとえ試そうとしても、枝にぶら下がって体重をかけた時点で、私の腕と胴体が物別れをする時だ。
このままでいい。
実際、あの時見たように、木々はいよいよ肩を寄せ合い、まだ残る陽の光をどんどん葉で隠していく。
目指すべき場所は、もう近い――。
『かえして』
不意に届いたその声とともに、左の足首がぐっと掴まれる。
――弟妹たち、ついにここまで!
と、一瞬思ったものの違う。
足首を掴む腕は、いかなる胴体からも生えていない。
地面。先のゴツゴツした岩場がなりを潜め、柔らかい土が大半を占め始めた土より、腕は伸びていた。
その根元は、わずかにも土を掘り返してはいない。そこへ置き去りにした腕を、地面に貼り付けたかのごとくだ。正しく、腕は生えているのでは、伸びていたんだ。
悪いが、構ってはいられない。
ガツン、ガツンと右足で蹴りつけ、何とか引きはがしたが、履いていた靴下もろとも、足首の後ろ側の皮をちぎり取られた。もし神経が生きていたのなら、その苦痛にのたうち回るほどだったかもしれない。
どっと、漏れ出す腐肉。その深手ぶりを確かめながらも、私は前へ進んでいく。
『かえして』
『かえして』
『かえして』
『かえしてかえしてかえして……』
あの川をあがった時と、似ている。
いまや腕は足元ばかりじゃない。周囲の木の幹、集まった葉たちからも、何本も飛び出して、私につかみかかってきたのだ。
どこから来るか、私にはまるで読めない。
ひたすら対症療法するよりない私は、掴まれてより強引に引きはがし、なお進むしかなかった。
自分を構成する、肉を一緒に引き渡しながら。
すでに私はほぼ全裸体だ。服の生地はほとんど残っていない。
かといって、俗にいうあでやかさとも遠いだろう。そこかしこに肉をちぎり取られ、ぼとぼとと腐り肉を垂らし、どうにか走る姿など目を背ける者の方が多いのではなかろうか。
――まったく、強引な奪衣婆もいたものだな!
いまや三途の川と化さんとしているあの川の、尖兵といったところか。
すでに衣服とともに持ち去った、大金の入った財布。あれが六文銭にも足りないとは、さすがは欲の権化といったところか。
かといって、元は川底にあっただろうこの肉たち。すべてを返してやるわけにはいかない。
見えた。
いまや夜のように閉ざされたこの空間にそびえ立ち、熊さえ立って通れてしまいそうな高い根上がり。
やや斜面を下ったところで、ぽっかりと開いて待ち受けている。
『かえして』
『かえして』
『かえして……』
もはや前方以外のあらゆる方向から、懇願の声が聞こえてくる。
そう足の真下からも。
行くしかない。
斜面の下り坂。その段差を生かし、なかば身を投げ出すように前方へ宙返りをする。
斜面に沿って、腕が次々と槍のように突き立っていく。私は回る視界の中で、それらを確かめながら飛び越していった。
着地と共に、またいくらか肉が飛び散る。
もはや両足は靴を履いた足先と、太ももより上しかまともな部分は残っていない。
先の散りでまた、こぼれた肉の下からのぞくのは、緑がかったこけのごとき色の骨格。明らかに、人の持つそれではなかった。
構わない。もう私の鼻はじかに、あの香りをとらえている。
兄の車、そしてあの主の記憶に見た、「帰り道」の香りを。
傷つき、奪われかけているものとは思わぬほど軽く、身が動いた。
根上がりの下、細い根たちが成すのれんたち。それに巧妙に隠された暗がりの空間を、私は鼻を頼りにまっすぐ探り当てた。
足と同じく、ほぼ中身がむき出しになった肩から、突っ込むようにして中へ飛び込んだ。
彼らの声が、ぱっと消えた。代わりに、耳へ飛び込むのは小さな水のせせらぎのみ。そして身を包むのは懐かしき肌ざわり。
一歩を進むごとに、身体に残った肉が一片、また一片とこぼれ落ちていく。その代わりに、私の身には清流を思わせる冷えが、うるおいが満ちてくる。
これで、いい。
ここより先は、聖なる域。俗にまみれ、しかもかりそめの肉体では、立ち入ることを許されない。
あるがままに戻る。それが、私が帰り道を踏む条件。
かすかにきしむ、石のような音を聞きながらなおも進む私に、あのとき見た空間が広がった。
壁代わりの土、柱とカーテンの双方の役割を果たす根たちに囲われた、空間。その床は切り株を思わせる、巨大な年輪を思わせる模様が浮かんでいた。
いまやせせらぎは間近に聞こえる。
よたよたと、そこへ歩み寄り流れ出る清流にその顔をうつす。
男とも女ともとれる、前髪で目が隠れるか否かといったショートボブ。中性的な顔立ちを持つ「ゆうき」はもう、そこにはいない。
ほぼ苔に覆われた、石の顔と身体。
頭はすっかり丸まっており、その額に浮かぶ右巻きの毛は白毫に他ならない。
人はその容姿を、こう評するだろう。
「お地蔵様」と。
そうだ。私は御仏の信仰あついころに、ここへ据えられたのだ。
当時より行われた川の大工事。その犠牲になった者、人柱となった者が化けず、迷うことなく、帰るべき場所へ帰ることができるよう祈りを捧げられて。
それがいつの頃だったか。地域を襲う大きな地揺れが、この空間を砕き、揺らして私をこの流れの中へ転がり落としてしまったのだ。
もとより自然の結果を受け入れるよりないわが身。それも御心であるならと、流されるまま水底で長く、長くまどろんでいたような気がする。
もはや私を知る者は、この現世にいないかもしれない。
しかし、あのように苦しむ衆生を目の当たりにしては、救いを差し伸べるのが地蔵菩薩たる私のつとめ。
水のせせらぐその源あたりに、私は足を深く深く突っ込んだ。
もう横たわり流されることのないよう。
この水を伝い、私の念がすべての命へ届くように。
流れに逆らい、私の内を瞬く間に満たすのは過去、現在、あるいはこれから悟りを開くであろう多くの未来が、私の下へ集ってきた。
その導くべき先、違えはしない。迷いはしない。
――おかえりなさい。そなたらの命の、あるべき場所へと。