第八話
もしあのままならば、一時間後には八沢山へ着けていただろう。
それが兄と弟妹達のカーチェイスでもって、時間をひどく使わされている。
弟妹達の取る手はシンプルだ。図体の大きい車でもって突っ込み、道をふさぎ、その重量でこちらを押しつぶさんと迫ってくる。
対する兄は、私よりも2カ月早くここを巡ったという土地勘を生かし、複数出口のある店舗の駐車場を利用したショートカットや、歩行者のみに許された階段の無理やり降りなど、柔軟性に富んだ道筋で少しずつ八沢山への距離を縮めていった。
この追跡劇をとがめるものはいない。
何度か通った交番や店は、不自然なほど人がいなかったからだ。道を行きかうはずの通行人も。
いや、厳密には皆無ではなかったが、車道をひた走る兄にも、弟妹たちにも関心を向ける様子はなく。ただひとつの方向へ向かっていた。
あの河川が横たわる方向へと。
「どうして、彼らはこちらの邪魔に加担しないんだ? 目的を達するならそちらの方が確度が増すだろうに」
「ほう、えぐい見方をするようになったじゃないか、ゆうき。ことを成す覚悟が決まったか?
思うに、あれこそ欲のあらわれさ。
せっかくの獲物に傷がついたら、後々悔いが残る。あれがなければ、もっときれいでいられたのに、もっと美味しく食べられたのに……その思いが強すぎると、必要以上の完璧さを求めてしまう。
飯が減ったり、汚したりを嫌うわけだな。だからこうしてスキになる。
そこをつけば……」
と、言いかけたところで。
ふと前方の道路に影が浮かんだ。
うっすらとしたものから、立ちどころに濃くなっていくそれは、紛れもない落下物。
「「危ない!」」
二人して叫び、急ハンドルを切った。
そのわずかスレスレを、空よりボンネットから路面へまっすぐ、大型車が突き立った。
見上げると、そこは車の販売所。その屋上の柵が見事にぶち抜かれ、その中の一台が空から突っ込んできたんだ。
「猪突猛進、だな。だがそれだけに力強い……」
ぼたぼたぼた、と兄の右腕から腐肉が音を立てて、運転席へ振り落ちる。背広の袖の切れた部分から、肉塊と一緒に腐敗の臭いが染み出る。
ハンドルを握る手は、ひじとかろうじて筋数本でつながっているというありさまだった。
だらりと下がる腕を持ち上げようともせず、兄は左手だけでハンドルをせわしく動かしていた。
「あれしきの強引さに耐えられないとは……いよいよ、限界が近いか」
「兄……」
「もう猶予がない。全開で八沢山へ向かう。ふもとに着いたらお前を下ろすから、わき目もふらず進め。お前なら、その道が分かるだろ。
お前ももう、迷っているひまはなさそうだからな」
ぽたり、と肩口へ垂れるもの。
生理的な活動を必要としないこの身。汗もかくことはない。
代わりにそこへ着くのは、兄のこぼれたものと同じ、腐った臭いをかもす肉片。
サイドミラーへ移る、私の「ゆうき」としての顔は、すでにあちらこちらが溶けるようにはがれかけ、その下に埋まっていたものをさらけ出しつつあったのだ。
まだ陽が落ちるまでには時間があるというのに、雲のかかる八沢山はその身を夜のさなかであるかのように暗い身へ沈めている。
標高250メートル。決して高い山とは言えない。
それでも町々の建物をはるかに越え、湿った土の代わりに、足元にも山肌にものぞく岩場の顔は、ただの低山とも断じがたい妙な雰囲気をかもしていた。
その細い登山道の入口へ、兄は車体を滑らせながら横づけにする。助手席から山登りへ向かえるようにした、通せんぼだ。
「いけ、ゆうき。俺が付き合えるのはここまでだ。ギリギリまで弟妹たちの相手をする」
「兄……これが今生の別れとなるのですか?」
すでに兄は腕以外にも、両足の膝小僧のあたりからとめどなく肉を垂らしている。もはや満足に歩けはしまい。
「別れるんじゃない。帰るだけだ。いつでも、どこでも、あるべき場所に。それが本当の場所になるか、偽りの場所になるかはお前に託す」
振り返った兄の顔もまた、半ば溶けかけていた。
支える周りの肉を失いつつある左眼は、もう大きかった右眼と並ぶほどになっている。
2カ月、私より先んじてここに出でて待っていた、その労苦がしのばれた。
「兄、きっとまた!」
山を向く私の背に、かすかに遠く弟妹達の乗るであろう、雑多な乗り物たちのタイヤとエンジンの音が浴びせられるのが感じられた。
ゴツゴツとした岩場を駆け、ときによじ登るようにしながら、私はあの時に見た記憶を掘り起こす。
高く広い根上がりを持つ、大樹の姿。あの垂れる根たちに囲われたあそこを目指さねばならない。
あの時見たような、昼の下でありながらなお暗い、木々たちの取り巻く道の中へ。
より木の集まる部分を目指し、私は進む。頂まではのぼらずにいたはずだ。
ならば、この岩の張り出す中腹のどこかしらに――。
そう思案しながら、踏み出した足元で小石が転がる音がした。
私の体重を預けていた小石だ。その踏ん張りを急に失っては、私も尻もちをつかざるを得ない。
そこをもう片方の足で無理にこらえようとしたのがまずかった。
尻もちで済んでいたところが、運悪くこらえた足の地面も半端に沈み、またもかかる力が当てを無くした。
転がり落ちる。落ち葉を潰す音、岩に身体の内側が叫ぶ音、てんでバラバラに飛び込みながら、何メートル落ちただろうか。
ごぼり、と確かに水音が立った。
身体の内側から聞こえたものじゃない。あの子を助けに川へ飛び込んだ時と同じ水音。
確かに外から響き、そして私をかっちり包み込むような、そんな感触があった。
転がりが止む。手足を雑に動かそうと試みて、四肢のあちらこちら、特に付け根の部分からも腐肉の塊がのぞき、我先にとこぼれていく。
痛みはない。が、下手にまた重さをかければ、今度こそぽきりとちぎれ落ちて、動くこともままならなくなるだろう。
――私も、いよいよか。
だが、場所は悪くはなさそうだった。
あの記憶で見たような、木の密集地帯。そのただ中へ、転がり落ちてきたらしかったからだ。