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第七話

「まずお前の存在を疎ましく思う者について話そう。一言でいうなら、この川だ」


 いま渡っている橋の上から見える河川。先に男の子を助けた川を兄は指さした。


「人肉の味を覚えた動物は、殺さなくてはならない……という決まりが、人間社会には根強くある。捕食者と被捕食者の関係を経ると、次からの獲物の選択肢の中に人間が入ってしまうからだ。

 丸腰の人間は往々にして生来の牙や爪を持つ獣に、太刀打ちできない。自然と狩りやすい奴、味わいやすい奴、危険の少ない奴としてカテゴライズされ、人ばかりを狙うようになる。

 だから人は総力をあげて、それを知った個体を始末する。血祭りにあげて、自分たちは恐るべき存在なのだと周知させる。それにより、自分の命も相手の命も元の流れへ引き戻すというわけだ。

 そしていま……川がいよいよ人の肉を覚えようとしているんだ」


「あのとき、川に入った子も、か。『ただいま』と、まるで我が家であるかのように、進んで水へ」


「すでに、似たような事例がちらほら出ている。俺が出てきたのは2カ月ほど前だが、そうやって川に飲み込まれていった連中がいたんだ。

 行方不明者のリストは見たのだろう? あの中にも含まれているはずだが、もういよいよその程度では済まされなくなる……見えるか?」



 兄がウインドウへあごをしゃくり、私はそこからのぞいてみる。

 午後の日差しのもと、橋の下の川べりにまばらに人が立っていたんだ。

 水遊び、と解釈するにはあまりに彼らは静かすぎた。

 運動着から、兄のしているような仕事着姿の大人まで、彼らは着の身着のままで靴だけを脱ぎ、軽やかな足取りでもって川へ迷いなく踏み入っていくんだ。

 軽く虚空へ向けて手を上げ、口を動かす者がいる。

 彼らはきっと、こう告げているのだろう。「ただいま」と。


「川は自らを、彼らの帰り道と、帰る場所とするすべを学んだ。これが伝播すれば、ほどなくここに住まうすべての者が、自分たちの家を『よそ』と認識し、川の水底を『帰る場所』と判断するだろう。

 獲物が自分から飛び込んでくる。これほど簡単なことはない。そして、その命は川を下り海へと注がれていくだろう。

 自分たちの築いた営みと歴史を捨て、かつて命の生まれ出でた海の中へ帰っていくんだ。

 逆らえぬ本能と、耐えがたい苦しみを帯びながら、だ。それを止めるために、俺たちがいる」


「――私たちは、誰によって送り出されたの?」


「川だ。厳密にはいま話したのは、川の覚えた欲望の側面といえる。だがそれに反する理性もまたある。このようなことをしてはならないという、ブレーキ。

 それが俺たちだ。川の理性は最後の力を振り絞り、俺と、ゆうき。

 つまりお前を作り、送り出したんだ。川底の念と、まだ使えるだろう無数の肉片をかき集めて。

 今を生きる命もその中にあった。記憶と知識をその中にたたえて。だからお前も分かってはいなくとも、知っていることはあっただろう?

 だが、俺が持つのはあくまで、こうしてお前の足になる役割。本来の帰り道を示し、川が及ぼうとしている凶行を止められるのはお前にしかできないんだ。

 川の欲望はそれを面白く思わない。ああして、お前のいる場所を燃やしてでも邪魔をする。もしお前が真の帰り道、帰る場所にたどり着けずに果てるなら、もう川は止まらないだろう」



 兄が走らせる車の中、私は地図を手繰っていく。

 帰り道を示す。兄いわく、その力は私にしかない。あの、まるで己が家であるかのような迫真の道順と、そこに至る者の記憶。

 でもこの身ひとつじゃできない。しかるべき場所でなくてはならない。それはきっと、あの場所だ。


 兄の車内、そして兄自身からも、あの香りが漂ってくる。

 はじめてあの部屋へ訪れたとき、メモからも感じたあの香りだ。

 それは、はるか自分たちが眠っていた川底の藻と微生物が織りなす、営みの証だったのだろう。

 それがもはや、味わえるかどうかの瀬戸際へ来ている。


『……助けて』


 救ったあの子の苦しげな顔を思い出す。

 川に入るその時まで、彼はそこが我が家と信じて、その先にある安らぎの時間を疑わなかったはずだ。

 それが水へ入るや手のひらを返され、そこが帰る場所どころか、命を消し去る流れの中にあると思い知らされるんだ。


 抗いながら、その肺も、そののどもやがては水に潰され、動けなくなって、料理されていく。川そのものに。

 そしてあの水底から伸びる腕たちの、仲間になるのだろう。帰れぬ生家への願いを込めて。ぬぐえぬ苦しさに囚われて。

 幾人も、幾人も。幾年も、幾年も。

 すべての命が川に沈んでしまった、その先も。


 ――これ以上あんな苦しみを、悲しみを、増やすわけにはいかない……!


「ここを」


 赤信号を突っ切り続け、わき道を駆使して止まらずにいるよう努める兄が、やや長い直線へ差し掛かった際、私は地図をフロントガラスへ押し付け、見せつける。

 いくつも見た帰り道の中で、一線を画す山の中での景色。おそらくは管理局の木の一本に巣を持つ小鳥と思しき景色が見せた山。

 唯一、この車内に漂う香りと同じものを放っていた、あの場所を。

 兄が橋を渡る際、何度も見比べて特定したポイントに、大きな丸をつけて突き付けた。


「――八沢山か。了解……?」


 兄がぱっとフロントガラスの地図を取り除ける。

 今走るのは、対抗二車線の道路。田畑に囲まれ、歩行者を守るものは路側帯のみの狭い道。

 中央分離帯がなく、黄色のセンターラインのみで区切られた向かいの道を来るは、10トンもあろうかという大型トラック。

 それがどんどん中央の線へ寄ってくるのだ。兄もまたわずかに道の端へ寄るようハンドルを切ったが、その目がかすかに見開かれるのを見た。

 私も確認する。中央の線へ迫るトラックの運転席。そこに座るのは、どう見ても免許を持てない幼子の姿ではないか。


「ははっ、お出ましのようだぞ!」


 笑い飛ばした兄が、ぐいっとハンドルを切って畑へと車を突っ込ませるのと、ゆうゆうとセンターラインをはみ出したトラックが、先ほどまで兄の車のあった位置へタックルするのはほぼ同時だった。

 唐突なオフロードに、車は小刻みな振動をもって答え、私たちも上下に揺さぶられ続ける。


「い、今のは?」


「うすうす分かるだろう? 弟妹たちだよ、俺たちのな。ただし欲望よりのほうの」


 耕運機が上り下りする小さい斜面を駆け上がり、兄はまたアクセルを踏む。

 先のトラックはというと、切り返しをしないまま、無謀にも畑へ突っ込んできた。

 だが安心はできない。ほどなく後から道を走ってきた数台が、兄の走るはるか後方、あぜ道へ迷うことなく曲がってきたのだから。


「お兄ちゃん子は嫌いじゃないが、兄離れも大事だぜ、と」


 兄はぐいっとギアを入れ替える操作をする。


「つかまってろよ。もうお行儀のいい、ドライブとはいかないぞ」


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