第六話
抵抗がなくなったことで、私は彼もろとも、どうにか岸へたどり着くこともできた。
気がつくのを待ち、早く帰るよう促しながら、私は着替えつつも足早にここを後にする。
先ほど剥けた、右腕をさする。水の中で破れ、汚れた肉が漏れ出た箇所。そして腕が殺到し埋め尽くした痕……それらはみじんも残っていなかった。
あの時に見た「帰り道」。いずれも、少し意識を巡らせれば鮮明に思い浮かんでくる。
様々な時代にまたがる、この地域の有様。それはかつて、ここに生きたものたちの生の記憶に違いないだろう。
その死者の思いの籠った腕を受け入れ、その念をもって肉とする……。
なるほど、道理だ。だから私は「ゆうき」なのだ。
死を迎えた念をもって、この身体を成すもの。「幽鬼」。
いくつも帰り道、帰る場所を持ち、そしてたどり着くたび、手のひらを返されるわけだ。
帰り着きさえすれば、その念は目的を果たし、私の中からいなくなる。さすれば私は記憶をたちまち失い、その場でかけがえなき「生家」は、凡百たる「よそ」へと印象を変えるのだ。
おそらく、注がれた彼らの念に身をゆだねれば、幾人かを「帰らせる」ことができよう。だが、私には時間がない。
あの子を助けて、実感した。救助活動など、平時で求められる以上の負荷をかけ続ければ、この身体はあのように崩れていくのだ。
昨日から今まで、私は汗をかいていない。食事もとらず、排せつもしていない。必要だと身体が訴えなかったからだ。幽鬼たる証だろう。
でも唯一、シャワーを浴びたのは火照りと、どこか生臭さを覚えていたからだ。放っておくのはまずいのだと、知っていた。
それが今では、理由がはっきりと分かる。この身をわずかでも長らえさせ、この世に溶け込ませるために。
そして傷みに堪えかねて、この身の動けなくなるときが、あの紙で指摘された「終わり」。
――戻ろう。あの部屋へ。
これからを検討するためにも、今は腰を落ち着ける場所が欲しかった。
帰りがけに書店で地図を買い、私はアパートへ引き返す。
そうしてアパートまで数百メートルあたりまで来た時、私ははたと足を止めた。
前方に立つ紫色の煙。先ほどから私を追い越していった消防車のサイレン音が、ここに来ていよいよ大きく聞こえてくる。
たまたま方向が同じだと思っていた。が、こうも近くで、あの煙で、疑うなというほうが難しい。
もしや、と止めていた足で駆け出そうとした瞬間。
「待つんだ!」
あの時と同じように、腕をつかまれ止められる。
見ると、ベージュ色の背広を羽織り、右眼がやや大きい、中年あたりの男性。
昨日、踏切で私を制止してくれた男だ。
「この先は通行止めだ。誰かがアパートの敷地内に火種を持ち込んだらしくてな。今ごろ野次馬も集まって、てんやわんやといったところだろう」
「でも、私いかないといけないんです! 部屋があそこに」
「……『おかえりなさい。来てしまったか、ゆうき』」
彼の言葉に、私ははっとする。
昨日、トイレのタンク裏に貼ってあった紙の一行目に記された、あの一文だ。
たとえ誰かがあそこへ侵入できたとしても、紙は見てからずっと私のポーチの中へ入れっぱなしにしていた。
睡眠も必要としなかったこの体だ。ポーチに誰も手出ししていないのは、私が誰よりも知っている。
ならば知っているのは、私か。あるいは。
「『真の帰り道を、真に帰るべき場所を探せ。』」
あの文を書いた、本人のみだ。
私は彼の停めていた小型車に乗り、地図を広げていた。
「あのポーチのメモとかも、あなたが?」
「兄、とでも呼べ。そうだ、お前をつかんだ時に、滑り込ませておいた。なるべく目立たないようにしてな。
想像していたより、ずっと早く帰り道のアタリをつけられたようで何よりだ、ゆうき」
彼のハンドルを握る手、背広にわずかに隠されていた部分には、腐肉が浮かんでいた。
ちょうど、川であの子を助けたとき、私の腕が破れてこぼれたものと同じだ。
「まさか、兄も?」
「送り出された。もっとも、ゆうき。お前の露払いとして、だが。あの時はゆっくり話せなくて済まなかったな。かく乱工作に動いていたんだ」
「――もしかして、コンビニ前の火事?」
「察しがいいな。お前はすでに、部屋へ着く前から狙われていたんだ。あの時はまだ、絞り切れていないようだったがな。
連中はあえて騒ぎを起こし、その野次馬にお前が混じってこないかを観察しようとしたわけだ。それを俺があえて囮として動き、お前が現場に近づこうとしたなら、それとなく遠ざける気でいたんだ。だが、お前は渦中に現れることはなかった。
話を聞くに、コンビニまわりに着いたのは騒ぎも人だかりも、ひと段落した時だったんだな? それがたまたま連中の目を欺く結果となったと見える。
ゆえにあの部屋を気取られるのにも、猶予ができたんだ」
車道の信号が黄色になりかけたところで、兄はぐっとアクセルを踏み込み、一気に渡りきる。
私は向かうべきおおよその方向を兄へ伝えていた。そちらへ車を飛ばしてもらっていたのだ。私はなお地図を広げながら、質問を続ける。
とはいえ、あの出かけるときのメモにほとんど同じことは書いておいた。兄もまた、すでにそのことを知っている様子で、言葉を継ぐ。