表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

第六話

 抵抗がなくなったことで、私は彼もろとも、どうにか岸へたどり着くこともできた。

 気がつくのを待ち、早く帰るよう促しながら、私は着替えつつも足早にここを後にする。

 先ほど剥けた、右腕をさする。水の中で破れ、汚れた肉が漏れ出た箇所。そして腕が殺到し埋め尽くした痕……それらはみじんも残っていなかった。


 あの時に見た「帰り道」。いずれも、少し意識を巡らせれば鮮明に思い浮かんでくる。

 様々な時代にまたがる、この地域の有様。それはかつて、ここに生きたものたちのなまの記憶に違いないだろう。

 その死者の思いの籠った腕を受け入れ、その念をもって肉とする……。


 なるほど、道理だ。だから私は「ゆうき」なのだ。

 死を迎えた念をもって、この身体を成すもの。「幽鬼」。

 いくつも帰り道、帰る場所を持ち、そしてたどり着くたび、手のひらを返されるわけだ。

 帰り着きさえすれば、その念は目的を果たし、私の中からいなくなる。さすれば私は記憶をたちまち失い、その場でかけがえなき「生家」は、凡百たる「よそ」へと印象を変えるのだ。


 おそらく、注がれた彼らの念に身をゆだねれば、幾人かを「帰らせる」ことができよう。だが、私には時間がない。

 あの子を助けて、実感した。救助活動など、平時で求められる以上の負荷をかけ続ければ、この身体はあのように崩れていくのだ。

 昨日から今まで、私は汗をかいていない。食事もとらず、排せつもしていない。必要だと身体が訴えなかったからだ。幽鬼たる証だろう。

 でも唯一、シャワーを浴びたのは火照りと、どこか生臭さを覚えていたからだ。放っておくのはまずいのだと、知っていた。

 それが今では、理由がはっきりと分かる。この身をわずかでも長らえさせ、この世に溶け込ませるために。

 そして傷みに堪えかねて、この身の動けなくなるときが、あの紙で指摘された「終わり」。


 ――戻ろう。あの部屋へ。


 これからを検討するためにも、今は腰を落ち着ける場所が欲しかった。

 帰りがけに書店で地図を買い、私はアパートへ引き返す。



 そうしてアパートまで数百メートルあたりまで来た時、私ははたと足を止めた。

 前方に立つ紫色の煙。先ほどから私を追い越していった消防車のサイレン音が、ここに来ていよいよ大きく聞こえてくる。

 たまたま方向が同じだと思っていた。が、こうも近くで、あの煙で、疑うなというほうが難しい。

 もしや、と止めていた足で駆け出そうとした瞬間。


「待つんだ!」


 あの時と同じように、腕をつかまれ止められる。

 見ると、ベージュ色の背広を羽織り、右眼がやや大きい、中年あたりの男性。

 昨日、踏切で私を制止してくれた男だ。


「この先は通行止めだ。誰かがアパートの敷地内に火種を持ち込んだらしくてな。今ごろ野次馬も集まって、てんやわんやといったところだろう」


「でも、私いかないといけないんです! 部屋があそこに」


「……『おかえりなさい。来てしまったか、ゆうき』」


 彼の言葉に、私ははっとする。

 昨日、トイレのタンク裏に貼ってあった紙の一行目に記された、あの一文だ。

 たとえ誰かがあそこへ侵入できたとしても、紙は見てからずっと私のポーチの中へ入れっぱなしにしていた。

 睡眠も必要としなかったこの体だ。ポーチに誰も手出ししていないのは、私が誰よりも知っている。

 ならば知っているのは、私か。あるいは。


「『真の帰り道を、真に帰るべき場所を探せ。』」


 あの文を書いた、本人のみだ。



 私は彼の停めていた小型車に乗り、地図を広げていた。


「あのポーチのメモとかも、あなたが?」


「兄、とでも呼べ。そうだ、お前をつかんだ時に、滑り込ませておいた。なるべく目立たないようにしてな。

 想像していたより、ずっと早く帰り道のアタリをつけられたようで何よりだ、ゆうき」


 彼のハンドルを握る手、背広にわずかに隠されていた部分には、腐肉が浮かんでいた。

 ちょうど、川であの子を助けたとき、私の腕が破れてこぼれたものと同じだ。


「まさか、兄も?」


「送り出された。もっとも、ゆうき。お前の露払いとして、だが。あの時はゆっくり話せなくて済まなかったな。かく乱工作に動いていたんだ」


「――もしかして、コンビニ前の火事?」


「察しがいいな。お前はすでに、部屋へ着く前から狙われていたんだ。あの時はまだ、絞り切れていないようだったがな。

 連中はあえて騒ぎを起こし、その野次馬にお前が混じってこないかを観察しようとしたわけだ。それを俺があえて囮として動き、お前が現場に近づこうとしたなら、それとなく遠ざける気でいたんだ。だが、お前は渦中に現れることはなかった。

 話を聞くに、コンビニまわりに着いたのは騒ぎも人だかりも、ひと段落した時だったんだな? それがたまたま連中の目を欺く結果となったと見える。

 ゆえにあの部屋を気取られるのにも、猶予ができたんだ」


 車道の信号が黄色になりかけたところで、兄はぐっとアクセルを踏み込み、一気に渡りきる。

 私は向かうべきおおよその方向を兄へ伝えていた。そちらへ車を飛ばしてもらっていたのだ。私はなお地図を広げながら、質問を続ける。

 とはいえ、あの出かけるときのメモにほとんど同じことは書いておいた。兄もまた、すでにそのことを知っている様子で、言葉を継ぐ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ