第五話
そう歩き出す私の前方、数百メートル先で「またなー」と口々に別れを告げる声がする。
サッカーのユニフォームに身を包んだ学生たち。部活動の帰りがけだろうか。
「俺、こっちだから~」
ひとりが足を止めて手を振り、残りは角を曲がっていく。
この近辺に学校らしきものはなかったが、買い食いや遊んでからの帰りといったところか。
管理局前から彼のいるところまでは一本道。このまま歩けば、すれ違う格好になるか。
とはいえ、大型車のすれ違いに難があるかなあ……程度の幅員。彼は川沿いの左側、私は管理局よりの右側でもって、互いに接することなく行けると思っていたんだが。
仲間と別れてから数歩で。
彼はひょいと川沿いのガードレールを軽く飛び越えるのが見えて、足を止めてしまった。
堰近くということもあって、コンクリートでがちがちに補強された川べりの坂を、彼は迷いなくどんどんと下っていく。
当然、川への一直線コースだ。そばには釣りも泳ぐのも禁ずる旨の看板が出ているのに、目に入っていないとばかりの迷いのなさ。
部活動に飽き足らず、汗かいた体で水浴びをしたいのか? 決まりを破って?
人間、そういうことをしたくなる場合もあると「知ってはいた」。まあ、それくらいなら目こぼししようかと、また歩きかけたところで。
「ただいま~」。
耳をうたがった。
もう一度目をやると、川の手前まで来ていた彼は、かついでいたネット入りのサッカーボール以外に、履いていた運動靴を脱ぎ、丁寧にそろえていく。
遊ぶに際しても律義な子、という解釈もできないことはないだろう。
だがあの整えぶり、顔つきのにやけぶり、安らぎぶり。何より変わらない歩みの迷いのなさぶり。
そこがまるで、我が家であるといわんばかりの心地で。
彼は流れの中へ、歩み入っていったんだ。
私がガードレールを越え、靴たちのそばへ駆け寄ったとき、彼はすでに頭まで水へ浸かってしまっていた。
しかしそこから顔を出し、必死にばたつかせながら、また水の中へ沈み……を繰り返しながら、岸の方へ必死の形相を向け続けている。
遊びではない。本気でおぼれかけているんだ。
周囲を見渡すが、浮き代わりになりそうなものも、彼を引っ張る助けになりそうな木切れなどの姿はない。かくなるうえは……。
私は着ているものをどんどん脱ぎ捨てていく。
頭は危険な下策と告げてはいる。誰かを呼ぶのが最善であると。
――そう、「知ってはいる」。だが「分からない」!
下着ひとつで、私は川に飛び込んだ。
流れは思ったより強いが、その想定を行くのが私の泳ぎのうまさ。
ひとかきで流れはたやすく押しのけられ、身体の動きを妨げさせない。まるで、「ゆうき」に恐れをなしてしまったかのようだ。
もうふたかき、みかき。
ぐんと、少年との間合いを詰めた。再び水面下に浸かった顔には、怯えが浮かんでいる。
先の「ただいま」を告げたのと同一人物とは思えない顔色。やはり、あれは自分の意思ではなかったかと、私はつかまらせるべく腕を伸ばす。
着衣状態の彼は、もがき気味ながらもこちらへ腕を伸ばしてくれる。流れはおとなしいまま。ほどなく私はしっかり、彼の腕をつかむことができた。
瞬間、どっと私の意識の中に、彼の家への帰り道が注ぎ込まれてくる。
いうまでもなく、この川の中ではない。あの管理局の前を通り、もう1キロ近くは進まねばならないだろう。
「……助けて」
声は聞き取れない。けれどもその腕を、景色を、苦悶の表情を通じて、その気持ちがはっきりと伝わってくる。
力は入る。引っ張りきれるぞと、彼を引き寄せようとして。
ずるりと、なぜか彼がわずかに遠ざかった。同時に、ほんのわずかだが私の腕が伸びたような気がする。
顔をそちらへ向ける。私の右腕は肩に近い部分がほんの数センチほど皮がはがれ、ずれていたんだ。
しかし、出血などはない。代わりにのぞくのは、汚水に負けないほどの茶色をたたえるどろりとした肉。
破れ目から水のこぼれ出るそれらが、流れに乗って薄まりながら、川下へと消えていく。
とたん、彼の引っ張る力が強まった。
危うく手放しそうになって、私は見る。川底にほど近い、彼の足下。
そこへ無数にとり付く、腕たちの姿を。
ここより見通せない川底。そこより伸びる腕たちが、すでに彼の両足の靴から足首あたりまでで十対はつかんでいるだろうか。
「帰して」
「帰して」
「帰して……」
声なき声が、私に伝わる。彼らの「帰り道」もまた私の中へ飛び込んでくる。
そこに映る道は、何も現代のものばかりでない。この堰どころか、鉄橋も電車もなく、わずかに面影を残す、土のうの堤。そこを行き来する人馬の姿も見えた。
時を超え、集うその手たちを彼は見えているのかいないのか、必死に水面へ出んと顔を上向けてもがいていた。
ヘタに腕を離すわけにもいかない。かすかでも緩めれば、彼の身はたちまち水底へ引きずり込まれてしまうだろう。
やがて動けずにいる私にもまた、足にすがりつく腕、腕、腕……。
「帰して」
「帰して」
「帰して……」
――分かってる。少し待て、順番だ。
そう軽く返したはずなのに、にわかに声があふれ出す。
「帰れる」
「帰れる」
「帰れる帰れる」
「帰れる帰れる帰れる」
瞬間、彼の足と私の足に引っ付いていた腕たちがぱっと離れたかと思うと、どっと私目がけて押し寄せてきたんだ。
厳密には、私のあのずるむけた腕の部分にだ。
その部分に触れると腕たちは競うように形を崩し、寒天か糸こんにゃくのように、中へ滑り込んでいく。
腕がふくらみはしない。けれども彼らの白さに満ちた肌だけは、表面に残された。
ちょうど、私のむけた部分を完全に覆い隠すような形で。