第四話
世は夏休みを迎えており、登校時間になっても学校へ向かう制服姿の学生の集団などは見かけることがなかった。
まず私が足を運んだのは、最寄りの図書館。
備え付けのパソコンで行方不明者の一覧を調べたいと思ったのだ。
この「ゆうき」の名、あるいは顔から何かしら手掛かりが得られるのでは、と期待していたのだが、たどたどしい操作で閲覧したそのリストには私らしき人物の情報はない。
もし分かったのなら、そこを重点的に探り、「真の帰り道」をあぶり出そうとしたが、そうもいかないらしかった。
それから午前中、私は時間の許す限りで近辺を歩き回る。
乗り物は避けた。電車以外のバスやタクシーであっても、どのようなトラブルで時間を食うとも限らない。アタリをつけるまでは、その時間短縮効果を生かせないと思ったわけだ。
実際の成果はというと、4つほど「よそ」に行き当たった。
一軒家から集合住宅の一室まで、それらの近くに行くと、私の中で不意に記憶が掘り出されていくのだ。
家の内部の間取りはもちろん、そこの十数年、あるいはもっと長い思い出の喜怒哀楽。同居する者がいれば、身内でしか知りえないような些細な秘密さえも頭に浮かぶ。
門扉の前に立つその時まで、まぎれもなくそこは、私にとっての「帰るべき場所」なのだ。
が、その先もあの三宅家と同じだ。
いざ家の人が出てくると。そうでなくとも、家の思い出をめぐらせてしばしが過ぎると。
ここは「よそ」だ、と心が訴えてくる。
気まずさにいったん遠ざかり、家が目に見えなくなると、もはや行く道さえも頭から抜けてしまうんだ。
ド忘れ、というものだろうか。概念だけは知っている。
だが、メモにある表現を借りれば、この手のひら返しも無駄足とはならなかった。
2つ、気にとまる収穫があったのだ。
1つは、訪れた4つのポイントのうち3つ目は、事前に調べた行方不明者の家と分かったこと。
名字の合致にくわえ、家全体の間取りや配置が頭に湧き出したとき、一室に飾られていた写真に、行方不明者本人の姿が見られたんだ。
もう1つは、4つ目のポイントが人家ではなかったこと。
昨日、危ないところを助けてもらった踏切のあった川より、上流へ数キロ。取水堰の管理局前へ通りかかったとき、また「帰り道」にぶつかったんだ。
この際、私の頭の中には実際に道を通ったときの景色が浮かび、その「よそ」のポイントまで迷うことなく着くことができる。
しかし、その4つ目はこれまでとは感じが違った。
私の脳裏に飛び込んできたのは、緑だ。
川沿いの細い一本道、見晴らしのよい土手とは似ても似つかない、森の中にいた。
視線も高い。私は並び立つ木々の枝から枝へ、軽々と跳ねては停まりを繰り返していたんだ。
およそ、人間にできる動きとは思えなかった。
戸惑う間に、視界はどんどんと先へ進む。木々の並びはより密に、より暗さを増して、私の脳裏に展開する。
もはやわずかなぶつ切りになった、陽の光以外見えないようや闇に周囲が閉ざされたとき。
ふと視界が急降下した。
一本の大樹、それのクマさえくぐれそうな高い根上がりの空間。そこへ飛び込んだんだ。
細かな根がのれんのように垂れ下がり、巧みに隠されたそのポイントへ、視界の主は突進。さしたるブレも抵抗もないまま内部の空洞へ突っ込んだ。
これまで見た「帰り道」の記憶の中で、視覚以外の五感が働くこともあった。
壁の手触り、飼い犬や飼い猫と同居人の声、舌鼓を打つ料理の味……そして香り。
いま、視界の主が突っ込んでいる場所の香りは、懐かしさを覚えるものだった。
あの部屋でメモを探り当てた時と似ている。本能的に心が安らいでしまう、芳香だ。
それをどれだけ味わっただろうか。今度は私の聴覚に訴えかけるものがある。水のせせらぎだ。
ほどなく暗がりの視界の中に光が差した。
円形の広間。ちょうどこの潜り込んだ樹の土に埋まっていた部分だろうか。
壁代わりの土、柱とカーテンの双方の役割を果たす根たちに囲われた、このスペースの一角はわずかに崩れて水が流れ出ている。
床代わりの土の半ばほどまで伸びたそこから流れる幅は、大人が横たわれるほどだろうか。
視界の主は、そこを一瞥したのみ。くっと首を曲げて土壁に突っ込むかと思いきや、その表面を這うミミズをつかみ上げた。
ミミズの頭が視界の下で、ときおり踊ったまま消える気配はない。人の手でつかんだなら、こうも不可解な持ち方をし続けるとは思えなかった。
うすうす感じてはいた。私の求める帰り道は、人のそれとは限らないのではないかと。
人ならざるものの帰り道。それをこの「ゆうき」の身で受け入れねばならないのではないか、と。
思考する間も、視界の主は動く。
根ののれんを押しのけ、突き進むその様は、もはや枝を必要としない。並び立つ木々の間をひたすらに急いでいた。
帰るのだ、と私には分かる。用を果たした帰路を急ぐのは、多くの生き物の望むことだろう。
先とは逆に、明るさを増していく視界。そのわずかな緑のさえぎりさえも、消え失せたとき。
私は眼下に町を、その脇に横たわる大きな川を見下ろしていた。
ぐんぐんと速度を増す中、視界の主はぐっと遠くを見据える。その視界のはるか先に見えるのは、記憶に新しい鉄橋。その上を、深い青に身体を染めた車両が走りすぎていく。
昨日、私が世話になりかけたのと、同じ電車の色だ。
――今いるこの川の、更に上流!
私のいる場所へ迫り、やがて管理局の中に立つ木の一本。その枝に作られた巣へ飛び込んでいった視界の主だが、私の意識はもうそれらを片隅へ追いやっている。
先に見た景色は、ここより橋を5本またいでいた。町をまたぎ、区をまたぎ、市をまたいだ遠方に、あの空間は存在するのだ。
景色の薄れないうちに、地図なりを買って場所の見当をつけなくては……。