第二話
それから、どこをどのように走っただろうか。
「――あ、おっと。君、待ちたまえ!」
前方に立ちふさがられ、こつんと頭をぶつけてしまい、私はようやく立ち止まる。
前に立った人のいでたちは警察官のもの。治安維持のために尽くす、公務員の格好。
また自分が危ないことをしたのかと、私は頭を下げながら周囲を見回すが、別に川へ飛び込もうとしたのではなく。
赤いコーンとロープによって囲われた一部分に、ぶつかろうとしていたらしい。
私が歩いていたのは国道。向かいに牛丼屋がたたずむ、コンビニエンスストア前の駐車場。
コーンに囲われた、その駐車場の一角では荷台が焦げた軽トラックが一台。
「少し前に火事の連絡があってね。トラックの荷台から火が出ていると。古紙などを積んでいたようで、そこが火元とみられている。悪いが、離れてもらえるかい」
想像していたより、優しい相手でほっとしたが、なんとも物騒な話だ。
いかなる原因であろうと、幸にも不幸にもなる火の扱いをおろそかにするとは。
だが、おかげでいったん足を止めることはかなった。先ほどよりも暗さを増してきている空は、夜が近いことを告げている。
車も街灯も、そのおのおのが持つ輝きを静かに放ち始めていた。
牛丼屋の建物のわき。自動販売機に備え付けられたベンチに腰を下ろし、私はウエストポーチを探る。「よそ」のために、すっかりタイミングを失っていた。
こけを思わす緑色をわずかにこびりつけたファスナーを開けると、中に入っていたのは二つ折りにしたメモ帳と、小さなネームプレート。
雨にでもさらされたのか、黄色い水のシミを浮かべるそれの「なまえ」の欄には、大きなひらがなで「ゆうき」と書かれている。
ゆうき。
これが私の名か。それともこのポーチの持ち主の名か。
あの「よそ」を我が家と思ったような、記憶のあふれる感触はない。だが、これから名を問われたときに「分かりません」では怪しまれるだろう。
ゆうき。私のことが分かるまで、この名をしばらく借りておく。
試しに先の「よそ」の名字をとった、三宅ゆうきと口に出しても、頭には何のひらめきも呼び込めず。いちおうの借りの本名としておこうか。
あと一枚のメモ。
開いてみると、とある住所が書いてある。更にその下に、「カギ 植木鉢の下」と追記が。
この住所、と近くの電柱を確かめると丁目以外は、メモと同一のものと分かった。ここからさほど遠くはない。
頭は先ほどから変わらず、もやがかかったみたいだ。
あの腕を掴まれるより以前のことも、「よそ」だった三宅家のことも。ただ、帰らなくちゃという気持ちだけは、揺るがない。
一度、途中にある交番で道を確認し、住所の地点までやってくる。
アパートだ。二階建てのそこは、交番で聞いたところ少なくとも築10年はたっているだろうという話だ。
奥と手前の二か所で建物全体を挟むように階段が取り付けられ、上下ともに8部屋ほどあり、小さいバルコニー付きだ。
あまり入居者はいないのか。それとも留守にしている人がほとんどなのか。
周囲は先ほどより暗さを増しているというのに、雨戸を閉めていない部屋たちは、まばらに明かりが漏れているのみ。真っ暗な部屋のほうが多い。
――ここは、帰る場所じゃないな。
あの「よそ」で感じたような、せっつかれるような義務感を覚えない。かといって、他にとれる選択肢はなさそうだ。
私に持ち合わせは何もない。泊まるあてもなく、町中で野宿をする度胸もない。
そうするのは、この社会において喜ばしいことではない……と、知っているから。
あのメモには部屋番号まで書かれていた。108号室で、一階の角部屋だった。
明かりはついていない。念のため、ノックをしてみても返答がなく、鍵もがっちりかかっている。
メモにある植木鉢。それは戸の隅に置かれていた。
一抱えもある大きさのそれには、土こそ入っているが、芽のひとつも出ていない。
枯れてしまったのか、あるいは元からそこになかったのか。どちらにせよ、メモにある通りの場所に小さい鍵が張り付いていたんだ。
ドアの鍵穴にぴたりとはまり、私はノブをひねってみる。
明かりは通っていた。
入り口わきのスイッチを押して、ともった部屋は手前のキッチンやトイレ、風呂などのスペースと奥の六畳間。
入居して間もなく、といったところだろうか。コンロや洗濯機、タンスやちゃぶ台など、最低限のことはこなせる家具が揃っている。
それらに関して、私は見覚えがあったわけじゃないが……「嗅ぎ覚え」はあった。
田舎にある両親の実家、その畳のにおいとでもいえばいいか。どこか懐かしくて、安らぐ香りがほのかに漂ってくるんだ。
家具たちにも、それらは多かれ少なかれ残っていたが、もっと強烈に臭ってくるところがある。
感覚のまま、私が足を向けたのはトイレ。
便座にくっついている貯水タンク。その壁との間にあるわずかなすき間だ。
そここそが、この香りのより強く漂わせるところ。私は迷わず指をそこへ突っ込んでいた。
樹脂で作られたタンクの裏側にあるまじき、「かさり」とした紙の音。入念に張り付けられた紙面を、私はそっと指でふちをなぞるようにはがしていく。
作業を終えるときには、もうあたりは完全に夜になっていた。
私はようやくはがすことのできた紙を手に取る。ポーチの中のメモよりずっと大きい便箋にはつらつらと文字がしたためられていた。
『おかえりなさい 来てしまったか ゆうき』
何とも、奇妙な一文が先頭に待っていた。