第一話
「危ない!」
ぐいっと腕を引かれて、自然と身体がのけぞる。
カンカンカンという甲高い音と、目の前を通せんぼするかのように中空に横たわる、黄色と黒に染まった棒。
その先の線路の銀色、敷石の茶色、その脇より広がる緑の鉄橋、更にその下の半端に澄んだ川の水……それらをひとからげに、さっと覆い隠す影があった。
電車だ。深い青に身を染めた車体は、車窓ひとつひとつがなんとか判別できる速度で、目の前を横切っていく。
もし引っ張ってもらえなかったら、車体に触れていたかもしれない。そう感じられるほどの線路際だったんだ。
「急にふらふらとうつむいて……止めなかったら、大惨事だったぞ。最近、事故が多くてみんな気が立っているからな。え~と……」
腕をつかんで止めてくれたのは、背広を着た男だった。顔や指にしわやたるみなどが散見される。年とった男なのだろう。
左眼より右眼がやや大きいような気がするが、それ以外は十人並みといったところで、印象的なところは他にない。
何やら言葉を選びながら、しげしげと眺めてきて。
「うん……大丈夫か」
なんか勝手に納得した。
やがて踏切の音も止み、遮断機も上がる。
今はやや太陽が赤みを帯び始めた時間帯。男以外にも、この鉄橋の上の線路をまたぐ用事ある人は多いようで、日傘を差したり、手で日よけを作ったり、手ぬぐいで汗を拭ったりと落ち着かない様子。
先の人が離れてからもう一度、自分がやりかけていたようにうつむいてみる。
鉄橋の下1メートル前後の水面に映る自分の顔は、前髪で目が隠れるか否かといったショートボブ。顔つきはこれまた、男か女か悩むような中性的なもの。
あの男ほど、肌はくたびれていない。おそらく、若い。
いや、それ以前に……自分は自分のこと、なんて呼んでいたっけ?
僕、俺、わし、私、あたし、あたくし、僕ちん、俺さま……なんか、どれでも通じそうな顔だから厄介だ。
ひとまず、私にしておくか。さっき通りすがりに電話していた人が、「私は……」と話していたし。
「私……かえらなくちゃ」
つい、私と口にしたらつぶやいてしまった。反射的に自分の口へ手を当ててしまう。
――なんで、帰りたいと思った? いや、そうだ私は帰る途中だったんだ。
あの男性に腕を引っ張られるより前のこと。思い出そうとしても、どこかふわふわとつかみどころがない。
この路線、この景色、この人々の行きかう様子。
見覚えはある。自分は見慣れている確信はあるのに……「分かっている」自信がない。
――帰り道……そう、分かってはないけれど、知っている。
ここからそう遠くない。
踏切を渡って、すぐの路地を右折する。ブロック塀は途中から生垣に変わっていって、そこから5軒分いって……。
思いめぐらせているところへ、また踏切の機械音が鳴りだし、私はあわてて線路を横断していく。
踏み出すとき、ジーンズの腰のウエストポーチの金具がかすかに食い込むのを感じた。
紺一色のそれは、ところどころ色の変わった湿り気をのぞかせている。
――こんなの、身につけていたっけか? 家に帰ってから調べればいいか。
家。なんとも安心する響きじゃないか。
誰の目も気にすることなく、自分が自分でいられる空間。見栄も遠慮も忖度も、求められないんだ。
この状態も、家へ戻ってからゆっくり確かめて、回復していけばいいんだ。
私は記憶のまま、道を進んでいく。
通るのは、車が入ってこられないような細い路地ばかり。そこが近道だと分かるし、地元民ならではの知恵によるものだと、うすうす感じられるようなものだ。
足を動かしながら、私はときどき首を回したり、手をぐっぐっと開いたりむすんだりしてみる。
そうだ、動かし方は分かっている。けれども、使い方が分かっていないといった感覚だ。
もはや遠くに聞く電車の音、近くに聞く虫の鳴き声、猫のなで声、すべてを耳がとらえ、それらが電車のもの、虫のもの、猫のものと判断していく。
懐かしく覚えつつも、やっぱりそれらは、どこまでも遠く。ガラス一枚を隔てた向こうにあるかのような、妙な距離感を私は覚え続けていた。
そうしていくうち、ようやく私は目的地に着く。
私の帰る場所。しっくいの塀に囲まれた平屋には、「三宅」の札がかけられている。
三宅。確かめてみると、いかにも自分の名字のような感覚が湧いてきた。
ほんの数メートル先にある玄関と、その脇にあるもぬけの殻の犬小屋。
知っている。あの小屋には半年くらい前まで飼い犬がいたんだ。
名前をチャッピー、顔が隠れるほど白い毛を伸ばしていたが、犬種について詳しくなく、調べてもいない。飼った理由は一目ぼれ。
玄関には目の細かい網戸があるが、その一部がほつれている。一年ほど前に、とんでも大きいカナブンが突っ込んできて、自身は逃げ散ったものの、傷をこさえていった。それをそのままにしていたんだ。
修理、取り換え、いずれも億劫だったからだ。なあに、暮らす分には、たいした支障にならない。
玄関を入り、かまちをあがれば右手がすぐ私の部屋。ベッドが部屋の半分を占めるような、家具も最低限しかない部屋だが。かえってそちらのほうが落ち着く。
早く「ただいま」と言いたい。帰ってきたんだと、声を大にして家の中へ響かせたい。
そう思いながら、私は三宅家の門をくぐって。
ザリッと、不自然な音を立てる足元に、つい下を見やってしまう。
ひもが通り、ふちがところどころほつれて、くたびれ気味になった青色のスニーカー。
それが、いま立つ畳石から聞こえるべきでない雑音を響かせている。
じっと見ると、石の上には細かな陶器のかけららしきものがまかれているような。普段のこの家にあるような状態では……。
「はい、どちらさまでしょう?」
出し抜けに、玄関の網戸が開かれる。
手ぬぐいを頭に巻き、シミ付きの割烹着をまとったその年配の女性。間違いない。
私のか……。
「か……え?」
誰だっけ? 私の思考はにわかに止まった。
いぶかしげに首をかしげる老女に対し、私は返すべき言葉も反応も、にわかに出てこなかったんだ。
――誰だ、この人は? ここはどこだ? この家はいったい?
先まで思い出していたはずのことが、何一つ引き出すことができなくなっている。
必死に記憶のため池の中に手を突っ込んでかき出そうとして、無駄骨ばかりが折れ、すくわれていく。
違う。ここは、私の帰る場所じゃない。
とっさに、彼女へ背を向けて私は門扉をくぐっていた。先ほど見た「三宅」の札は、もう懐かしさも心地よさも与えてはくれなかったんだ。
「よそ」だ。
ここはもう、心落ち着けられる我が家じゃない。「よそ」なんだ。
ここにいちゃいけない。私は見えない責めを受けるような胸の痛みを覚えながら、その場から無我夢中で逃げ出していた。