37 もう一度、あなたの元へ
セシル、と。
そう呼ぶ、彼の声が耳に届いた。
ずっと伝えてこなかったが、セシルは彼に名前を呼ばれるのが、すごくすごく好きだった。
彼の屋敷に来るまでは、母以外には、ずっと小娘か聖女としか呼ばれてこなかった。だから、初めて身内以外から「セシル」と呼ばれて嬉しかったのもある。
けれど、彼は「君」と呼ぶ時も多いから。少しの照れを織り交ぜながら嬉しそうな声で、「セシル」と呼ばれるのは、くすぐったく感じていた。それは、彼を信用していなかった時からそうだったかもしれない。
だから、敵の手の内に落ちるか、四階から物理的に落ちるか。そんな瀬戸際でも、彼の声で名前を呼ばれて、セシルは嬉しかったのだ。
「‥‥‥伯爵め、もう追いついたのか」
エレンは忌々しげに舌打ちをして、いよいよセシルを捕まえようとする。しかし、セシルは口端を上げて、彼に微笑みかけた。
「ごめんなさい。あなたとは、一緒にいられない」
そのままセシルは後ろに倒れた。後ろには支えがないため、セシルは下へと落ちていく。すぐに落ちていく浮遊感に見舞われるが、不思議と恐怖はなかった。セシルは、信じていたからだ。
きっと、あなたは受け止めてくれると。
「セシル!!」
ふわり、と。誰かが自分を受け止めてくれた感覚がした。
「アルベール様‥‥」
セシルがゆっくりと目を開けると、そこには予想通りアルベールがいた。彼は険しい顔をしている。
こうして、セシルをアルベールが受け止めたのは、二度目だった。初めは、セシルが王宮から追放された時。セシルはルーウェンに突き飛ばされてバルコニーから落ちたのだが、あの時アルベールが受け止めてくれたことから、全てが始まったのだ。
「君は、どれだけ危ないことをしたのかー‥‥」
「好き、です」
その言葉を、言わずにはいられなかった。きっと、今言わなければ、一生言える気がしない。セシルは彼の首に手を回して、顔を見せないようにした。
「好きになってしまいました。あなたを」
それしか言えない、セシルの精一杯。しかし、以前よりも距離の縮んだその言葉に、アルベールは目を見開く。
そして、長い長いため息をついた。
「‥‥‥‥君は、本当に無茶をする」
「ごめんなさい」
「なのに、怒る気も失せてしまった」
どうしてくれるんだ、と。アルベールはセシルの頭を抱き寄せた。彼の吐息が耳をくすぐる。
セシルは、その状況にドキドキして、うまく言葉を紡げない。
彼は、優しいから。勘違いしてしまいそうになる。どこか、期待してしまっている。
アルベールはセシルの腕を解いて、目と目を合わせた。そして‥‥‥
「セシル。俺は‥‥‥‥」
「よくも、やってくれましたね」
声を上げたのは、まだ建物の中にいるエレンだった。彼は、窓から身を乗り出してこちらを見ていた。
瞳に怒りの感情を浮かべながらも、セシル達を馬鹿にするように笑った。
「けれど、これは王宮命令ですよ。国自体があなたの敵なんです。破ったら、どうなると思いますか?」
セシルはその言葉にビクリとしたが、アルベールは全く動じなかった。
「‥‥‥‥愚かだな」
「は?どういうことですか?」
「王宮から出る前にとある協力者から情報をもらったんだ。実はあのパーティ、隣国の重役が来ていてな。聖女の扱いにご立腹だったんだ」
アルベールはあくまで淡々と言葉を続けた。大司教が来た時には、アルベールは既に王宮を出ていたが、そこでの様子の情報を今回の協力者から得ていた。
エレンは体を震わせながらそれを聞いていた。
「もちろん、セシルが連れ去られたことも知って、大司教は説明を求められた」
なんて言ったと思うか、と。相手を嘲る訳でもなく、馬鹿にするでもなく、彼は事実のみを伝える。
「これは、エレンという元聖女がやったことで、自分は何も知らないと言ったんだ。貴様は罪を擦り付けられて、捨てられたんだ」
彼は体をわななかせた。
「許さない!!」
そして、頭を上げて、こちらに向かって手をかざした。その瞬間、強い光が二人を襲う。
「エレンの名の下に命ず!私にとっての邪を払え!!!」
「聖女・セシルの名の下に命ず。彼女の魔法を妨げ」
セシルはすぐに、彼の魔法に対抗をした。魔力量はギリギリだ。しかし、セシルの魔法は明らかにエレンの魔法を圧倒していた。
その証拠に、彼の聖魔法の光は、こちらまで届かず、セシルの聖魔力の光が飲み込もうとしていたのだ。
「なんでだ?!なんで‥‥‥」
「私の母は大聖女ですよ。あなたの言う通り、能力に血が関係しているのなら、格が違う」
「‥‥‥‥‥‥!」
セシルの黒い光が強い閃光を放ち、彼の魔法を飲み込み浄化した。その瞬間、彼は力尽きて後ろに倒れてしまったようだ。彼の姿が窓から見えなくなる。
セシルは、彼の見せた必死な表情を思い出して、少し切なくなった。彼は、自分の父に認めれたかっただけなのだろう。彼の行動原理は全て大司教にあったのだから。
(私は‥‥‥‥‥‥あなたを兄だと認めます)
セシルは、彼を許す気はないし、これから彼と会うこともないだろう。しかし、誰が認めなくても、自分だけは彼を家族だと認めようと。セシルはそう思った。
そこで、セシルは力尽きて、膝をついてしまう。
「大丈夫か?」
「はい。彼は眠ってしまっただけです。なので、大丈夫ですよ」
「俺は君の心配をしているんだ」
へらっとセシルが笑うと、アルベールはひょいとセシルを横抱きにして持ち上げた。セシルは「わっ」と声を出す。
「ちょ、歩けますって」
「それはよかった」
「下ろしてって話です!!」
しかし、アルベールはガッツリとセシルを抱えており、下ろす意思はないようだ。
(前もこんなことがあったような‥‥?)
「嫌、なのか?」
アルベールは、コツンとセシルの額に自分の額をぶつけた。どうやっても、目を逸らすことが出来ない状況だ。
「嫌とかではないですけど‥‥‥」
嬉しいけれど、恥ずかしい。何より、こんなことになってしまって情けない。そんな複雑な気持ちを言おうとすると‥‥‥
「あ!アルベール様、セシル様は見つかりました、かー‥‥‥」
彼は額を合わせている二人を見て、固まる。そして、顔を真っ赤にして頭を下げた。
「し、失礼致しました!!」
「ちょっと、違いますから!!!」
何が違うのか分からないが、セシルは言わずにはいられなかった。
その後も、セシル救出に来てくれた兵士たちがいたのだが、アルベールはセシルを下そうとしなかった。むしろ、誇らしそうにすらしていて、セシルは脱力した。
そのせいで、皆から生温かい目線を送られる羽目になる。デニスでさえも、その中に混じってニヤニヤと笑っていたのだから、居た堪れない。
“穴があったら入りたい”という気持ちは、こういうことかと思ったセシルだった。




