19 はじめての喧嘩
「君は何をしているんだ?」
「え?」
気づけば、旦那様は起き上がりセシルを壁際に追い詰めていた。急なことに驚いて、セシルは動くことが出来ない。いつもよりずっとずっと至近距離で、彼の瞳がセシルを覗き込んでいる。
「急に立ち上がると、体が‥‥」
「そんなことはどうでもいいんだ。君は何をしていたかと聞いている」
彼の声は考えていた以上に鋭くて、セシルは思わず身を構えた。
「旦那様がご無理をなされて倒れられたので、その治療を」
だから、少し挑発的な言葉になってしまったのは仕方のないことだ。セシルの言葉に、アルベールはさらに顔を険しくした。
「君は何を考えているんだ。君の魔力は枯渇しかけていただろう?それを無理に治療などとは。もっと自己管理をしろ」
「‥‥‥」
「君を休ませた意味がないだろう」
「‥‥‥それを言うなら、旦那様もでしょう?」
吐き捨てられるように投げられた言葉に、セシルは頭に血が上っていくのを感じた。
「無理をしているのは、旦那様の方ですよ」
「‥‥‥‥」
「私は『もう大丈夫』と言っていたにも関わらず、魔物狩りに一人で行かれて。私の仕事を奪って。それで治療すらさせてもらえないんですか?」
カーテンの隙間からわずかな日の光が差すだけの暗い部屋の中。しばしの沈黙ののち、セシルは彼から目を逸らした。
「こんなんじゃ、私がいる意味が分からない」
彼はずっと自分に優しく接してくれているはずだ。それを素直に受け取れない反面、嬉しいとも感じていたはずなのに。
(どうして、それがこんなに惨めなんだろう)
セシルは先ほどとは別の感情で涙が出てきそうになったので、慌てて彼の手を退けて部屋を出て行こうとした。
彼の手は存外するりと抜けて、引き止められることはなかった。
「私、レインのところに行ってくるので」
最後に、ゆっくり休んで欲しいと伝えようか迷った。けれど、結局その言葉は出てこなかった。
バタンと扉が閉まる無機質な音が響く。
その瞬間、ズルズルとアルベールはその場に座り込んだ。
彼女の心配をしていたかっただけなのに、気づけば厳しい言葉を投げかけてしまっていた。深い後悔に見舞われたが、それも全部あとの祭だ。
一方のセシルは、足早に廊下を歩いていた。窓の外を見ると、傾きかけた日が空をオレンジ色に染めていた。その光がやけに目に染みる。
(どうして、あんなこと言っちゃったんだろう‥‥‥)
セシルは、口から出てしまった言葉の数々に後悔した。少なくとも、数日ぶりに目を覚ました病人にかける言葉ではなかっただろう。
「セシル様。どうされたのですか?」
歩いていると、その途中でエリックと会った。彼は鈍感な面があるが、人の感情の機微には聡いのだ。
そして、聞かれればなんでも話したくなってしまう魅力が彼にはあった。
「旦那様と言い合いをしてしまって」
「それは、落ち込んでしまいますね」
そう言いつつも、彼は「ふふっ」と嬉しそうに笑う。どうしたのかとセシルが問うと、彼はにこにこしながら答えた。
「だって、喧嘩出来るほどアルベール様に気を許されているのでしょう?」
「え‥‥‥‥」
「逆にアルベール様も気を許されてますよね」
警戒心をあらわにすることはあっても、気を許したことはなかったはずだ。なのに、いつの間にか言い合いをしても違和感を感じないほど、距離は縮まっていたのだ。そのことに気づいて、セシルは目を見開いた。
「って、アルベール様!目を覚まされたんですか?!」
「あ!そうだったね!目を覚ました!!」
「うわあ!行ってきます!!」
エリックはドタバタとアルベールのいる部屋に向かっていく。
セシルは先ほどの言い合いを思い出した。
それでも、自分だけ甘やかされて。頼ってもらえなくて。不甲斐ない自分が悔しくて仕方なかったのだ。
(ああ、そっか‥‥‥)
セシルはアルベールの顔を思い出した。
(私は、旦那様と対等になりたいのか‥‥)
いつの間にか、セシルにとってアルベールは取引相手や雇用主である以上に、大切な存在になっていたのだ。
(やっぱり、ちゃんと話したい)
そして、謝りたいとセシルは思った。
とりあえずレインを呼ぼうと足を進めていると、遠くの方から罵声のような声が聞こえてきた。
「とにかく、このことは旦那様に報告させていただきますから」
その中に、レインの声が混じっているのが聞こえてきた。レインの他には数人の女性の声。甲高い声でヒステリックに叫んでいるため、何を言っているか聞こえない。
言い争っているのなら、加勢に行かなければならないとセシルは足を早め、曲がり角を曲がった時ー‥‥
「‥‥‥‥‥‥‥っ」
レインが一人の女性に水をかけられている所が目に入った。次の瞬間には、聖魔法を発動させていた。
「聖女・セシルの名の元に命ず。邪を払い、悪を暴く清き水を出せ」
そして、レインの目の前にいた女性陣に大量の水がかかる。それは一瞬のことだったが、彼女たちの服装や髪や化粧をめちゃくちゃにするには充分であった。
彼女たちはと言うと、大量の水が突然現れ、自分たちをびしょ濡れにさせたことに状況理解できていないようで、口をパクパクさせている。
その間に、セシルはレインを庇うようにして彼女達の前に立ちはだかった。
「レインに何かしたら、許しませんから」
「セシル様」
「な、何よ!!」
よく見ると、彼女は前にクッキーを落とした張本人だった。金髪の縦ロールをフルフルと揺らして、怒りを露わにしている。
「あなたなんて、相応しくない癖に!!アルベール様だってあんたを嫌って思ってるに決まってるわ!!」
彼女は前と同じ言葉をセシルに投げかける。
「そう、ね‥‥」
確かに、相応しくないかもしれない。アルベールに迷惑しかかけてないかもしれない。そもそも、頼ってすらもらえないのだ。
皆の言う通り、セシルは災いしかもたらしていないのかもしれない。
「それでも、ここは私の居場所です」
初めて出来た、大切な人たち。私を”ひとりの人間”として扱ってくれる人たちを蔑ろになんてさせない。
「それに、憶測で旦那様を貶めないで下さい。不愉快です」
「何よ、あんたなんて‥‥‥!!」
彼女はセシルに向かって手を振り上げた。




