その慕わしき人の名は 2
「ヴァレフォール家といえば、正義の女神アスターテに仕える家柄で、弁護士や検事を多数輩出している。そのモットーはロバの顔 獅子の心。
柔和なる顔で勇気をもって大胆に行動せよ、という感じかな」
「素敵。ぴったりだわ」
「現在大審院の院長はコカトリス伯爵だけれど、次はヴァレフォール家の誰かになるだろうと言われている。
アスターテ系氏族のスターだよ。小さいころから法曹界で働けるようエリート教育をしているんだって。キケロのカティリーナ弾劾演説を1から6まで全部暗唱できるって話さ。古語でもラテン語でも」
「素敵」
「一度だけ、裁判を傍聴したことがある。実にいい声をしていた。広い法廷の隅々にまで届くような、じっと耳を傾けていたくなるような、説得力のある声だ。アスターテの女神は目隠しをしているから美声に弱い。まさに女神の申し子だ」
ゴフッと兄は少し咳き込んだ。悪魔の薬を吸いたくなる衝動を抑えるため、同じ器具で別の薬をとっている。同じように煙をすうのだが、これは喉を傷めてしまうらしい。風邪を引いたようにかすれた声になっている。
ロザリンドは兄の背をさすりながら先を促した。
「すごいわね。他には?」
「年末に一族で集まったときに、クソまずいケーキを食べるという恒例行事があるらしい。ヴァレフォール一族で敵味方に分かれて戦ったとき、勝った方の陣営が勝利のケーキを食べるんだ。これが糞まずいらしいらしいぞ
その名も「勝利のケーキ」。業界では新年の話題といえばそれなんだ。今年はどんな酷いケーキなのかみんな興味津々。蜥蜴を焼いたのを混ぜ込んだり、魚の内臓だけを飾ったりするんだと」
「ひどいわね。なんでそんなこと」
「勝ち過ぎを戒めるんだそうだ。一族の中で敵味方に分かれて争ったりするらしいからね。
裁判で相手方を叩きのめしたりしないように」
「まあ、そうなのね」
ロザリンドはうなづいた。
「ねえ。お兄様、この裁判どうなるかしら。専門家としてどう思う?」
「アンドラズは死刑。だが、ビフロンス元公爵夫人は無罪放免だろうな」
「まあ、どうして?だって、あの人も薬を配っていたのでしょう」
「ああ。だが薬を他人に勧めることを禁ずる法律はない。酒をすすめるのと同じだ」
「でも国王陛下はビフロンス公爵夫人の称号は剥奪して宮廷から追放なさったのでしょう。それは悪いことをしたからでしょう」
「国王陛下は法律の上にいる。それに、気まぐれだからね。一旦は公爵夫人の位を与えたほど寵愛した女だから、殺させたりはしないだろう。恩赦が出るんじゃないかな。あるいは後ろ盾になっている大貴族が手をまわすか」
「そんな。正義はどうなるの」
「正義よりも、賄賂や権力が優先されてしまうのはよくあることだ。
そうなると危ないのはヴァレフォールの方さ。ご寵愛を取り戻した公爵夫人がどんな仕返しをするか。
あんた、私を殺すとこだったわねっ許さないわよっとばかりに、陛下に悪口を吹き込むかもしれない。そうしたら大変だ。ご不興をかって、返り討ちに会い、出世の道が閉ざされるかもしれない。
いや、命を狙われるかも」
「そんなの酷い」
「それ以前に正義は人の数だけある。だから正義の女神アスターテは目隠しをしているんだ。まあ、何とかするだろう。長年修羅場をくぐってきている一族だから」
ギャニミードは咳払いすると、唐突に話題を変えた。
「僕の、これからについて考えていたことがあるんだけれど。聞いてくれるかい」
「ええ、もちろんよ」
「僕は父と同じ道を行くことばかり考えていたけれど、よく考えたら、法学に一度も興味を持てたことはなかったんだ」
「まあ、そうでしたの」
誰かの妻になって母になるということしか許されない女と違って、男の人の将来はいろいろに広がっている。
でも、進む道に迷うことはあるのだわ。
「実は、医学の勉強を始めたいと思っているんだ。その話をストロス師に申し出たら、弟子にしてくださるそうだ。薬草の事や薬の調合の仕方やなんかを学んで、いずれは医師として身を立てたいと思っている」
こんなに生き生きと語る兄を見るのは久しぶりだった。ロザリンドは嬉しくなって、涙がこぼれた。
「よかった。よかったわ。わたくし応援するわ」
「ありがとう。もう少し、母様には内緒にしてほしいんだ。ほら、ああいう人だろ。法律以外の道をお認めにはならないだろうから。もう少し勉強してみて、行けるとわかってから打ち明けようと思う」
「ええ。内緒ね」
二人は唇の前に人差し指を立てて、ほほ笑み合った。
兄は厳粛な面持ちでロザリンドを引き寄せると、額を合わせて摺り寄せた。
「だから、改めてお礼を言いたい。ありがとう。ここに連れてきてくれてありがとう。お前のおかげだ。ロザリンド。本当に感謝している」
「よかった。今だから言えるけれど、殺してしまいたいくらい、お兄様のことが憎かったわ」
「ああ。わかるよ。ひと思いにやられても、文句は言えなかった」
「ううん。私もお母様も、兄さまに頼りきりだった。お兄様が何とかすべきだからって、なにもかも背負わせて、しらんぷり。家のことも財産のことも何も考えたことが無かった。それじゃいけなかったのだわ」
兄はかすかにかぶりを振った。悪いのはあくまで自分一人だと言いたげに。その手はロザリンドの頭を数回撫でて、離れていった。
「というわけで、法学修練士メダルはお前に進呈する。僕のあげられるものは、あれくらいなものだ。あのメダルを持っておけば、王立図書館に入れるぞ」
「まあ。素敵」
ロザリンドは髪に手をやった。この短い髪の毛で男装をして、さらにメダルまで持っていけば、女とばれることはないだろう。
「せっかくだから、フェニキア古語の勉強を見てやろう。上級文法もね。僕も少し勉強したい」
「ええ。ぜひ」