In spiritu et veritate. 魂と真実において
準備の終わった馬車が車寄せに入ってきた。
「では、夕刻には帰りつきたいので」
ストロス師と兄と挨拶を交わし、馬車に乗ろうとしたオルランド様が、突然、動きを止めた。
そのあと、ぎこちなく、なんどか馬車の乗るところに片足をかけてはおろしを繰り返したのち、助けを求めるかのようにロザリンドの方を見た。
どうやらロザリンドを女性扱いすべきか部下扱いすべきか、迷いが生じたらしい。
女性扱いなら先を譲り、部下扱いなら自分が先に乗る。
ロザリンドも同様で、何となく身構えた。
ついでに結婚していない男女が二人きりで馬車に乗るのはいけないことのような気もしてきた。婚約しただけの男女の外出は付き添いが必要だ。しかし、婚約と言っても便宜的なものであり、わざわざ乗合馬車を待つのも面倒な気がしたので、ロザリンドはとりあえず難しいことは考えないことにした。
妙な空気にストロス師と兄が顔を見合わせた。
オルランド様は、数秒まよったすえ、ぎこちなく先を譲ってくださった。
うわ。気まずい。すっごく気まずい。
ロザリンドは、おそるおそる、馬車に乗り込んだ。
馬車にのって、揺られていた。重苦しい沈黙が続いていた。
ロザリンドの思いは千々に乱れた。
ストロス師からも兄からも婚約祝いの話は出なかったから、その話はしておられないらしい。
やっぱり怒っているのかもしれない。
ロザリンは腹を決めると、上司に話しかけた。
「申し訳ありませんでした。すみません。私が悪いんです。皆さんには私が頼んで、黙っていてもらったんです」
オルランド様は低くため息をついた後、ぼそっと言った。
「・・・・・・マルバス伯もアリトン君も初めから知っていたんだな」
「はい。ヴァレフォール卿にばれてしまったら、この仕事降りてしまわれるかもしれない。そうなったら負けは確実で、それだけは何が何でも避けなくてはいけないということで・・・・・・」
「なるほど」
しばらくの沈黙ののち、オルランド様は、ぼそっと言った。
「それにしても、ご苦労なことだったな。用意周到に別人の身分まででっち上げて」
ロザリンドはうつむいたまま、上目遣いで答えた。
「すみません。フルーレティ女伯爵閣下とお友達だったものですから、すっかり甘えてしまって、ご協力をお願いしました。ドレスをお借りしたり、便箋を頂戴したり」
「おかげで、すっかり騙された。あの、手紙は誰が書いたんだ」
「私です」
「筆跡が全く違ったが」
「正確には、私の描いたものを、友人に清書してもらいました。でも手紙に書いた内容は全部本当です」
「ずいぶんと芝居ががっていたな。大げさすぎる」
「そんなことありません。あなたは私の命の恩人です。本当です。王族の侍女をしているロザリンド・タープはでっち上げです。でも手紙の内容だけは真実です」
「そうか」
オルランド様はおざなりにうなづくと、どうでもいいと言いたげに外を見た。
ロザリンドはうつむいた。さんざんだましておいて、手紙の内容だけ信じて欲しいと思うのは虫が良すぎるとは思う。
でも、これだけは伝えておきたい。
せっかく、差し向かいで二人きりなんだもの。
「本当なんです」
オルランド様はわかったと言いたげに軽くうなづいた。返事はなかった。
だが、遮られてはいない。
ロザリンドは勇気を振り絞って話を始めた。
「去年まで、薬のせいで、うちの家族は地獄でした。
父を失って、兄は薬に溺れてしまったから。
あんな優しくて頭のいい兄が悪魔みたいになって。薬を買うからお金を出せって、それしか言わなくなって。
・・・母も私も泣いて薬をやめるように頼んだのですけれども、聞いてくれなくて。
母が親戚の人に叱ってもらおうとしたのですけれど、家族がしっかりしろって逆に怒られてしまって、もうどうしたらいいかわからなくて。
毎日泣くばかりでした。
「兄自身も苦しんでいるのはわかっていました。毎日毎日「死にたい。殺してくれ」という叫び声が聞こえていた。私には自分の部屋で耳をふさいでいることしかできなかった」
あの時のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
「借金を繰り返して、とうとう破産することになって、先祖代々の家も、家具も皆借金のかたに消えてしまって。親戚にもそっぽを向かれてしまいました。
差し押さえの人が来て、家じゅう引っ掻きまわされて、テーブルとか、ベッドとか。家じゅうの家具に、ペタペタ差し押さえの札が張り付けられて、私のお気に入りの服も帽子もクローゼットの中身も、おばあさまの形見の指輪も、みんな、荷造りされて、持っていかれて。
お母様は叔父様のところに行くとおっしゃっていたけれども、叔父様からはお断りのお手紙が来ていて、もう、居場所もないし行く当てもなくて」
あのときの胸をかきむしりたいような焦りを思い出して、苦しくなった。
ロザリンドは大きく深呼吸して話を続けた。
「そのとき、兄が叫ぶのが聞こえたんです。
「もういやだ。殺してくれ」って。
だから、私、思ったんです。兄を殺して自分も死のうって。
そうしたら楽になれるって。先祖の剣とかが差し押さえられる前に、一思いに兄を殺そうって。
その前に、最後に図書館を見に行こうって思ったんです。私、本当に本が好きで。それが理由で婚約破棄をされてしまったんですけれど、でも好きで、通わずにいられなくて。変ですよね。
その日は女は図書館に入れない日だったから、庭を見て、これで思い残すことはないと思ったんです。家に帰って、刃物があるうちに兄を殺して私も死のうって。
でも、帰り道、西の市場に通りかかったとき、奇跡が起きたんです」
ロザリンドは顔を上げた。
いつの間にかオルランド様は厳粛な顔でこちらを見ていた。聞いていてくださっているんだわ。嬉しくて大きく深呼吸すると、ロザリンドは微笑んだ。
「あなたの声が聞こえたんです。悪魔の薬の裁判が始まることを宣言する演説です。覚えてらっしゃいますか?」
「ああ。もちろん」
「広場一杯に人がいました。あのたくさんの人たちの中に私もいたんです。
あのとき、貴方は薬の恐ろしさについて語ってくださった。
この悪魔の薬は、それなくしては生きられなくなってしまう恐ろしいものだって。人は眠らずにはいられないし、ご飯を食べずにはいられない。この薬はそれらにとって代わってしまう。
薬はやめようと思ってもやめれない病のようなものだって。
私はそれを聞いて、救われたんです。
どんなに止めても、兄は聞いてくれなくて、親戚の人たちには、家族がちゃんと止めないのが悪いって言われ続けていて、私たちもそう思っていたからつらかった。
だから、本当に救われたんです。
嬉しかった。
ああ、兄は病気なんだ。そうまでして薬を求めずにはいられない病気なんだ。
だから施薬院で治療を受ければ、治るかもしれない。もとのお兄様に戻るかもしれないんだって。
「嬉しかったです。
だって、新しい道が見えたんですもの
兄を殺して自殺する以外に道があるんだって。
私にもできることがあるんだって、気が付いたんです。
本当に、貴方のおかげです」
オルランド様は被りを振っていた。
「私は関係ないよ。君自身の力だ」
「そんなことありません。あのとき貴方が演説を始めてくれなかったら、と思うと、ぞっとします。それまでセーレ公の施薬院のことなんて全然知らなかったんですもの」
それからは運がめぐってきたんです。
そこにおられた人にお願いして、施薬院に入れるように手続きをお願いしたんですけれど、予約金を払った人が優先ですって。
だから、急いで家に帰ろうと思ったら、通り道に髪を買ってくれるところが見つかったんです。すごくないですか?今まで、そんなお店見たことも無かったのに。急に目の前にあったんです。
私は膝の裏にくるくらいまで髪を伸ばしていたから、いいお金になったんです。そこで髪を売って、まだ広場に残っていた施薬院の人に渡して予約がとれたんです」
ロザリンドは少し頭をかいた。
「本当は少し足りなかったんですけれど、私が丸坊主ってことで、ストロス師が気の毒がってくださって、それで残りは待っていただけることになって。
後で聞いたら、そのとき空いていたのは一部屋だけだったんですって。
私ったら本当にラッキーでした。
兄も治療の甲斐あって薬をやめて、今は施薬院で働く傍ら、ストロス師の弟子としていろいろ習ったりしているんです。
私も短く髪を切ったから、こうして働くこともできて、施薬院の入院費も払うことができて、言うことなしです。
唯一お気の毒なのは、貴方だけです」
「私が?なぜだ?」
「こんな、みっともない女と婚約する羽目になってしまって・・・その点申し訳ないです・・・・・・」
突然オルランド様がロザリンドの隣に移動した。つぎの瞬間、ロザリンドはオルランド様の腕の中にいた。
「そんなことはない。決してみっともなくなんかない」
耳元でささやかれる。いつものロザリンドだったら、頭が沸騰して鼻血で血まみれだったと思うが、このときは、そうはならなかった。
腕の中は暖かかった。
私はもうあの悪夢のような日々から抜け出しているのだと、もう大丈夫なんだと、改めて思った。心が満たされていく。
ロザリンドは言いたかったことを囁いた。
「だから、手紙に書いたことはすべて本当なんです。ロザリンド・タープとして嘘偽りのない言葉です。何もかも失ったけど、私は兄を殺さずに済みましたし、自殺することも無かった。あなたは命の恩人です。本当にそう思っています」
すこしだけ、心を偽ったのは一か所だけだ。
Tota tua全てを御身に捧ぐ。
下書きの時には書いておいた一文だったが、恋文みたいになってしまいそうだから、迷ったすえに、清書した時には書くのをやめたのだ。
オルランド様は、やがて低い声で言った。
「手紙の返事を書こうとしていたんだ。だが、うまく書けなかった。法律文書なら、何とかなるが、それ以外はからきしだめだ。
だから、会いたかった。それで・・・・・あ、そうだった」
オルランド様はすっと腕を緩め体を離した。
そして目も合わさず、そそくさと向かいの席に戻ってしまわれた。
ロザリンドはなんだか取り残されたような気分になった。
ところで、さっき、さらっと「あいたかった」って・・・・・・・
言ったよね!確かにそう言ったよね!!
確かにそう聞こえたけど。空耳?もう一度おっしゃらないかしら。
いえ、もう一回聞いたら、間違いなく鼻血を吹くわ。
でも、聞きたい!!
ロザリンドはかすかに鼻息を荒くしながら、オルランド様がごそごそと服の内ポケットを探る様子を凝視していた。
オルランド様は、しばらくしてから、ポケットから探し物を取り出した。
「これを渡したかった」
ロザリンドは震える手で、差し出された品物を受け取った。
とろけるような手触りの絹のハンカチだ。淡い紅色で、きれいなレースで縁取られている。これをっこれを私のためにっ
「いただいて、良いんですか」
「ああ。あのドレスについていたバラ色のリボンが似合っていたから。よく似た色のを探してもらったんだ」
何ですとっ!似合ってた?!私のためにこれを?!!
突然、頭が沸騰しそうになった。ついでに鼻の奥がぼわっと熱い。早くも血の匂いがする。じわっと流れ出る気配がある。
ロザリンドは、右手でバラ色のハンカチを押し頂いたまま、左手であわてて左右のポケットやら、荷物の中をさぐった。
「鼻血か?それ、使わないのか」
オルランド様が、自分が贈ったばかりのハンカチを指さして言った。
ロザリンドはプルプル首を振った。
「とんでもない。使いません。大切にします」
「ハンカチは使い捨てるものだとおもうが・・・・・・」
「これは違います。使いませんっ。」
ロザリンドはカバンの中から、やっと見つけた鼻血用ハンカチを引っ張りだすと、鼻に押し当てながら言った。
「たとえ一張羅が鼻血で血まみれになったとしても、この頂いたハンカチだけは使いません」
ロザリンドの気合に押されたのか、オルランド様はぼそっと返事をした。
「そうか。使わないのか」
「はいっ。使いません」
二人はしばらく真顔で見つめ合ったが、同時にふっと噴出した。
オルランド様は、しばらく声を立てて笑っていた。その笑顔にロザリンドはさらにドキドキした。
ロザリンドの鼻血が止まったころには、オルランド様は、すっかり仕事モードに切り替わっていた。
「ああ。そういえば、マモン法38条の判例はどうなった?あと、テレサ嬢への接見予約は」
「えっと、判例はできていますので今日中にお渡しできます。接見予約はエイラ神殿からの許可待ちですが、予定では明日の午後です。
「よし。こうして話せるほうが、ずっといいな」
「はい」
「仕事がはかどりそうだ」
「・・・・・・はい」
事務所にもどってから、マルバス伯とアリトン君はひとしきりお説教をされたらしい。
翌日からも、ロザリンドに対するオルランド様の態度は変わらなかった。
前と同じように働けるのはうれしい。でも、あの甘々な二人にとって特別だったはずの一時がまったく影響を及ぼしていない感じだった。
ロザリンドは、なんだか物足りないような、複雑な気分になった。




