ロザリンド 憧れの人に逢う
ロザリンドは引っ越した数日後、オルランド・ヴァレフォール卿が館に引き移ってくる日になった。
朝食の際、マルバス伯は、ロザリンドをしげしげと見たあと、太鼓判を押してくれた。
「大丈夫だ。何処から見ても男にしか見えない」
「ありがとうございます」
「君のことはタープ君と呼ぶから」
「はいっ」
胸のふくらみは布でぐるぐる巻きにし、ゆったり目の服で完璧にカバー。
喉仏がないのも、いま流行しているという付け襟でカバー。この付け襟はセーレ公お好みだそうで、皆で付けることになっている。
チームの一員として認められた感じで嬉しい。
「問題は声なんだよね」
ゾウデズネ。と低く声を出してみたが、続かない。
「黙っていますから大丈夫。兄も、ちょっと声がしゃがれてしまっていますから、薬で喉がかれてしまった、とかそういうことにして、基本は筆談にしてもらいます」
「そうだね。それがいい」
朝食の後、そのまま食堂で綿密に打ち合わせを行った。
っていうか、口裏合わせ?
兄からは法学院時代の指導教官のことや、同じ講座の友人についてのことを聞いていたから、それとアリトン君からの情報も合わせ、学校生活についての記憶を作り上げた。
心配なのは、オルランドさんの義弟であるコカトリス卿と兄が顔見知りであること。
法学院では講座も年次も違うため接点はないが、セーレ公の施薬院行啓のおりにコカトリス卿も同行されたことがあって、そのときに同窓生として少しだけお話をしたという。
「だが、まあオルランド卿は仕事の鬼だから、それ以外のことは話さないと思うよ。だから、声を出さないように気を付けて」
「はい。兄になりきってみせます」
「頼むね。私も全力でサポートするから」
「僕も協力するから」
「ありがとう。心強いです」
マルバス伯は、最低人数しかいないことで、不安げだった。
「本当はね。5人くらいって頼まれていたんだよ。だから、君たち二人で5人分頑張って欲しい」
「これだけ有名人の裁判だと、弁護士希望も補佐希望も大勢きそうなものですけれど、来なかったんですね」
「全然こない。法学院の掲示板に弁護士補佐の募集もしてあるんだ。でも、誰も来てくれないんだよ。どうやらうらから手が回っているみたいでね。それにあちら側には弁護士希望者が、次から次へと押し寄せているっていうんだよ。・・・・・・私はちょっと散歩に行ってくる。二人ともオルランド卿が来るまで好きにしていてくれ」
突然マルバス伯は立ち上がると、胸をさすりながら食堂を出ていった。
ロザリンドはワクワクしっぱなしだった。憧れの人に会えることが楽しみすぎて、前の日から眠れなかったくらいだ。
アリトン君が情報通なところを見せた
「こっち陣営に人が来ないのはさ、やっぱり出世に響いちゃいそうだからでしょう。セバスチャン・ビレト公爵様には国王陛下が後ろ盾だというし。法曹界は、そういう情報は早いからね」
「おかげで女の私が潜り込めたんだもの。ちょっと感謝だわ」
ロザリンドがちょっと浮かれたことを言ったが、アリトン君がとんでもない情報を披露した。
「そういえばオルランド・ヴァレフォール卿だが女嫌いらしいよ。前の婚約者に手ひどく振られていたもんだから、女が視界に入っただけで吐き気がするレベルで嫌いらしい」
「えっそうなの?」
「だから『悪魔の薬』裁判の時もビフロンス公爵夫人に容赦がなかったとか」
ますますばれないようにしなくては、とロザリンドは思った。
アリトン君はロザリンドの顔を覗き込んだ。
「それで、鼻血の方は大丈夫?すでに顔が赤いよ。憧れの本人に会ったらどばーっと出ちゃわない」
「ええ。最初から綿を詰めておくことも考えたけれど、どうも格好悪いから、別の対策をしているの」
ロザリンドはポケットから準備してきた新品のハンカチを出して広げて見せた。
「素材は絹。一生懸命縁取りをして、飾り文字で刺繡もしてみた」
「おう。気合の入ったハンカチだね」
「ええ。こんなすてきなハンカチに鼻血を垂らすわけにはいかないわ。一滴たりとも。さっきから一生懸命かんがえているの。ロザリンド。この絹のハンカチを台無しにする気?って。そうすると少し頭が冷えて落ち着くの。今のところ大丈夫」
「なるほど。がんばれ」
「まあ、気やすめなのだけれど」
そして、もうすぐ昼になろうかというころ、館の敷地に馬車が入ってくる音がした。
ロザリンドたちは、食堂に集合した。
とうとうオルランド卿がロザリンドたちの待つ食堂に入ってきた。
来た来た来たーっ
ロザリンドは、叫びそうになるのを必死でこらえた。
オルランド卿の身長はマルバス伯より頭一つ分くらい高かった。穏やかそうな黒い目に大きな耳。顔はロバっぽい。
ヴァレフォール家のモットー「ロバの顔、獅子の心」どおりの方なのだわ。
たぶん何日かひげをそっていない感じ。ワイルドだわ。
黒褐色の髪はぼさぼさで一か所だけぴょこんとはねている。ちょっと濡らして櫛で撫でつけてあげたい。
よくみたら、付け襟もちょっとずれてる。ああ。直してあげたいっ。
どうしよう。ドキドキが止まらないっ!!
マルバス伯が簡単にロザリンドを紹介してくれた。
「こちら、ギャニミード・タープ君。悪魔の薬の治療で、喉をやられてしまったそうで声が出せなくなってしまった。だが耳は普通に聞こえるから」
ロザリンドは用意しておいたカードをさし出した。
『ギャニミード・タープと申します。ご一緒に働けるのを嬉しく思います』
オルランド卿は一読してほほ笑んだ。
「こちらこそよろしく」
ああ。この声よ。心地よく響き渡り、私を救ってくれた、声。
目が合った。こっこっこんな近くで、ほほ笑みかけられちゃった。
ロザリンドの頭には一気に血が上り、心臓がありえない勢いでどくどく打ち始めた。
落ち着くのよ。ロザリンド。何のこれしきよ。
今持っているのは絹のハンカチただ一枚。鼻血を垂らすわけないは行かないわ。
「法学院のメダルを見せてもらえるかな」
おもわず「はいっ」といいそうだったが、何とかのみこんだ。ロザリンドはポケットから法学院の卒業メダルを取り出して渡した。これには卒業年度や講座の先生の名前も書いてある。
ロザリンドはドキドキしながらオルランド卿の動きを見守った。
すごい。本物だ。後光がさして見える。
「モレク先生の講座か。私も学生時代に財産法の講義を受けたことがあるんだよ。たしか7年くらい前かな・・・・・・・」
なんていい声なのかしら。うっとりしちゃう。いつまでも聞いていたい。
あ、だめ。頭が沸騰しちゃう。
ロザリンドの鼻の奥がぼわっと熱くなった。
しまった。これはっ。この感覚はっ。
ロザリンドはポケットに手を突っ込んで、刺繍付きハンカチを握りしめた。
だめ。耐えるのよ。
だが、あっと言う間に、鼻の奥がツーンとし、鼻血の流れる感覚がつづいた。
すすり上げて飲み込め!
だが、無情にも鼻血は垂れてきた。
負けた。
ロザリンドは泣きそうになりながら、握りしめていた刺繍付きのハンカチを引っ張り出し、鼻を押さえた。
「どうした?大丈夫か」
ああもう。なんて素敵な声なのかしら。
泣きそうになりながら、ロザリンドはうなづいた。
憧れの人の前で、初めて会って、鼻血を垂らすなんて。
なんかもう死にたい。
「いやあ、タープ君は憧れのオルランド卿にお会いできたものだから、興奮してしまったんだねえ」
「そうそう。大ファンだそうですから。図書館にわざわざ書類を見に行ったくらい。あ、台所で水を貰ってこようか」
マルバス伯とアリトン君のやさしさが身に染みる。
ロザリンドは一礼してその場を辞すと、外にある井戸に向かって走った。
このハンカチ、絹なのに。はりきってイニシャルを刺繍したのに。
もう、初日から鼻血だなんて。このシミは落ちないだろうな。専用ハンカチにするしかないわ。
あとでマルバス伯が「あの鼻血騒ぎで顔合わせはうまく行ったよ。怪我の功名というやつだねえ」と言ってくださったが、ロザリンドは、なんだか違うと思った。




