エルンスト 魅力か海図か
ああ、久しぶりに、空気がうまい。
エルンスト・マルバス伯は思った。
頼もしい味方を得たおかげで、重荷をおろせた。
一人で裁判を抱え込むという悪夢からは逃れられてひとまず安心。肩が軽い。
採用となった次の日から、オルランド・ヴァレフォール卿は精力的に活動し始めた。
送られてきた書類や証拠の文書を読み込み、ものすごい勢いで何かを書き散らしている。
セーレ公爵もエギュン公をはじめとするお歴々たちと秘密の会合があるとかで、ナーダのベリアル宮殿に行ってしまった。
護衛にはアスクレピオス団のメンバー達がついた。彼らの中では自分たちは『セーレ公爵近衛団』になっているらしい。たしかにその方が覚えやすいし、王弟殿下の側仕えというのは聞こえがいいもんな。
エルンストは、オルランド卿のために引っ越しの手続きをした。
それまで住んでいた伯父一族のヴァレフォール館に荷馬車と使者を出し、オルランド殿の私物をまとめて送ってくれるようたのんだ。
それが終わると、とりあえず急ぎの仕事はなくなった。
すべて、世は事もなし。腹黒……じゃなかった、鬼・・・もとい主君の居ぬまに心の洗濯。
エルンストは領地にいる妻と子供たちあての手紙を書いたのち、館のまわりの針葉樹の森を遠乗りし、昼間から長風呂につかった。
夕食までの間、昼寝でもしようと寝台に寝転び、くつろいだ気分で微睡んでいるところに、ヴァレフォール師が部屋に飛び込んできた。
「マルバス伯。大変です」
「はあ」
寝ぼけ眼で、体を起こすと、目の前に紙が突き付けられた。
「示談書には期限が記されていました。あと五日後に迫っています」
「なんですと?」
じたばたと起き上がり、寝台に腰かけたエルンストに、ヴァレフォール師が紙を渡した。
それには、届いていた文書の内容が簡潔にまとめられていた。
エルンストたちが数日かけても、うっすらとした内容しか読み解けなかった暗号文のような文書を、きっちり読み終えたあたり、さすがは現役弁護士である。
「全部で、これ一枚ですか。ずいぶんと短くなりましたな」
エルンストは感心した。
「ええ。ビレト公がいちいち「高潔にして勇猛なる冒険者」だのなんだのくだくだしい形容詞で飾られていましたからね。省きました。あと、パシトーエ嬢に対する形容詞も、すべて省きました。それに、いろいろなよく似た裁判の判例だのをいちいち引用して添えてあったので、それも省きました。問題になるのは、このあたりかと」
そこには、彼らの思う事件の真相が書かれていた。
1 テレサ・パシトーエ嬢はバルカ提督の気を引くため、後見人にジポング海図を盗ませた。
2 バルカ提督はその代金を持参金と称してテレサ・パシトーエの口座に振り込んだ。
3 結婚は完成されず、婚約中のため、後見人ロノウェがジポング海図を隠匿していた。
4 リチャード・ビレト公は、秘密裏にそれを取り戻すべく交渉していたが、ロノウェはそれを拒否し、逆上して、部屋にあった火薬にをつけた。
5 この行動により、リチャード・ビレト公爵を死に至らしめた。
5-2 この行動により、ジポング海図も消失した。
本来なら王室侮辱罪、ジポング海図の毀損罪、外国人にそれを渡した国家反逆罪である。
死刑に値する重罪である。
しかしながら、女心に免じ、テレサ・パシトーエが
1 ジポング海図を盗ませたことを認める
2 ジポング海図の代金を、謹んで国庫に返還する。
3 バルカ提督との婚約を破棄する
以上の3点を秘密裏に実行するのであれば、死一等を免じ、国外への退去を許可する。
返事は12日以内とし、返事無きときは、裁判を起こして決着をつける」
「事実無根だ。ばかばかしい。これは認めるわけにはいきません」
あまりに出鱈目すぎて、誤訳だとばかり思っていたのだ。
エルンストは、むかむかしながら、読み終えた。
「だいたい、この世にないはずのジポング海図を、存在する前提で話を作っている。
こんな作り話を認めさせるわけにはいかない」
「示談書を見る限り、ジポング海図は本当に存在しないようですな」
「何故わかります?」
「刑が軽すぎる。ジポング海図は王号の元ですよ。国王陛下の称号の最後に『ジポングの王』と付け加えられている。ビレト提督がジポングに到達し、その海図を持ち帰り、それを王家に献上したがゆえに。
こんな大事な海図を毀損する原因となったなら、これはもう王室侮辱罪、国家反逆罪で死刑確定です。偶発的とはいえ、大貴族殺害の容疑もある。にもかかわらず示談を申し出てきた。そして、刑は国外追放だ。パシトーエ嬢はカルタゴに嫁ぐご予定なのだから、刑にもならない。
軽すぎる」
もしかして、パシトーエ嬢がバルカ提督の婚約者でなければ、問答無用で濡れ衣かぶせて死刑だったかもしれない。
エルンストは少しひやりとした。
ヴァレフォールは淡々と言った。
「どちらかというと、パシトーエ嬢のサインによって『ジポング海図』があったことを立証したいという意図があるように思われます」
「なるほど」
ちょっと強気になったエルンストは、ヴァレフォール卿に言った。
「では、これは突っぱねて裁判の準備ですな」
ヴァレフォール卿はかぶりを振り、きっぱりと言った。
「いいえ。示談に応じることを、お勧めいたします」
「なんですと?こんな暴論をですか?手持ちの資料はすべてご覧になったはずですが。」
「拝見しました。故リチャード・ビレト公のジポング到達は嘘で、金と手間暇をかけた作り話であること。しかしながら、おべんちゃらを言う輩がたえず、話が複雑になっている。そのあたりは納得いたしました」
「そうです。だいたいジポング海図は存在しない。それが原因だとされていることが、そもそもの間違いなんですよ。」
「しかしながら、現在圧倒的に優位にあるのは向こうがわです」
「そんなバカな。さっき、ジポング海図は存在しないことが分かったと言ったじゃないですか」
思わずエルンストは声を上げたが、さらりと受け流された。
「そのとおり。向こう側も自らの主張のうさん臭さがわかっているからこそ、故ビレト公を意味のない形容詞で飾り立て、内々に事をおさめることができる、示談という手に出たのでしょう。
彼らは現状を動かしたくないのです。そして、バルカ提督を刺激したくもない」
「なら、何故にパシトーエ嬢に嘘をつけ、濡れ衣を着ろと強制するです。お気の毒ではありませんか」
「裁判になってしまった方が数倍お気の毒な事態になろうかと存じます」
「なぜです?正々堂々と真実を主張した方がいいじゃありませんか。正義はこちらにありますよ」
「正義は人の数だけあります。裁判というのは、物語の勝負なのです。証言と証拠を並べて見せて、どちらの主張が陪審員を納得させられたかを競うものです。
裁判は真実を述べる場、お互い自分の正しいと主張し合うことができます。それ以上でもない、それ以下でもない」
「はあ」
「裁判をすれば、膨大な費用と時間と労力をかける必要があります。それに見合うものが得られると判断できればすべきでしょうが、今回の場合ありません」
「でも、正義はこちらに・・・・・・」
「正義の女神、アスターテ像を思い出してください。目隠しをして、天秤を掲げているでしょう。裁判では原告も被告も、同じ事実を違う方向から見ている。それをさらに別の角度から検証しましょう、というだけの事なのです」
ヴァレフォール卿は、出来の悪い生徒に教え諭すような調子で言った。
おそらくは年下であろう男にそんな態度をとられて、エルンストは少しむっとしたが、言い返すことは控えた。
自分が大抵の人よりお人よしであることは、知っている。
示談書を取り上げ、ヴァレフォール卿は淡々と話を継いだ。
「かりに、この示談の提案をけり、裁判になったとしましょう。
セバスチャン・ビレト公爵はパシトーエ嬢を訴える。
むこうは、示談書にそったことを主張してくるでしょう。
ジポング海図は存在する。パシトーエ嬢がバルカ提督の気を引くために盗ませた。
父親の敵!!として同情を引く」
「でも、ジポング海図は燃えてしまったというからには、提出できないでしょう。盗んだ証拠は出せない」
「その通り。しかし、こちらも盗まなかった、そもそも存在しなかったという証明はできない。
そして、ビレト公の味方をする大勢の貴族たちが、喜んで証言するでしょう。ジポング海図はあった、確かに見た、とね。
故人リチャード・ビレト公の葬儀の際には「ジポング到達の英雄を悼む」という詩が朗読されたそうじゃありませんか」
「はあ」
そうだった。すでにして向こうは根回しを終えている。
こちらは後手後手に回っているのだ。
「そして開廷したとしても、今のところ重要な証人が誰一人出てこられない。
パシトーエ嬢の後見人であるロノウェ祭司は行方不明。
婚約者のバルカ提督は、はるかかなたで軍務についておられる。出廷は望むべくもない。
故ビレト公の甥であるハーゲンティ伯爵はプロスクリプティオを受けており、亡命中。陛下の恩赦が出ればその限りではありませんが・・・・・・」
「恩赦なんか出るわけがない・・・・・でもほら、こちらには、ハーゲンティ伯爵の手記もある。彼はその中で伯父ビレト公が『ジポングに行っていない』ことを認めていたと証言している」
「たしかに、そう書いてありました。私も、それを事実であろうと思います。しかし、プロスクリプティオという刑を受けているということは、つまり、法律上は生まれなかった、存在しなかったとみなされるわけで、何もなかったことになります」
エルンストは、ため息をついて、うつむいた。
国王陛下の持つ権力のすさまじさに圧倒される。
「でもほら。ジョアン・ハーゲンティ伯の航海日誌もある。ジポングに行ったはずの時期に地中海にいたという証拠だ。ここにあるのは写しだけれど」
「それがビレト公自身のものであればよかったのですが。証拠としては弱い」
confessio est regina probantium自白は証拠の女王である。
今となってはどうしようもない。
リチャード・ビレト公の生前に公聴会が開かれなかったことが悔やまれる。
ベリアル宮廷の物語 「魅力か海図か」重複です。




